2019年09月22日

房賢嬉+用松美穂『あっという間に読めちゃうハングル』

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数か月前から房賢嬉+用松美穂『あっという間に読めちゃうハングル』(新星出版社/2019年2月)を読んでいる。週一回、通勤時間中だけの勉強である。しかし、わかりやすく書かれているためか、ハングルを習得するのに大いに役立っている。もちろん、二重パッチムや連音化のような難しい部分はまだまだである。頑張らねば。
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2019年03月20日

『地球の歩き方arucoソウル』

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『地球の歩き方arucoソウル』を購入。「旅好き女子のためのプチぼうけん応援ガイド」というサブタイトルがついている。実際、女子好みの内容である。おっさんが買い求めるようなガイドブックじゃないだろうと揶揄される。
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2019年03月13日

青木茂『華北の万人坑と中国人強制連行』

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青木茂の『華北の万人坑と中国人強制連行―日本の侵略加害の現場を訪ねる』(花伝社/2017年)を読んだのは、昨年末のことである。相方と飲んでいた折、「万人坑」の話になったのである。本書は相方から借り受けた。万人坑のことは以前より知っていた。しかし、実際に現地に足を運び、その実像を紹介した本書のようなルポルタージュを読むのは、今回がはじめてであった。本書を読み、私自身、いずれは現地におもむき、その様子を見学したいという思いを強く抱いた。とりわけ、ミイラ化した中国人徴用工の遺体がうず高く堆積した大同炭鉱の万人坑は是非とも訪れたい。戦争というと、われわれはその主体として軍隊だけをイメージしがちである。しかし、軍隊の進出した後には民間企業あるいは国営企業が進出して来る。企業は多くの現地人を工員として徴用する。徴用工が死亡すると、遺体は近くに埋葬される。その数が増えると始末に負えなくなって万人坑が出来上がる。日本国内においてのみ流通する自足的な言説空間であれば、その事実をデタラメであるといって済ませることも出来るだろう。その言説に共感するものも多いだろう。死人に口なし、である。しかし、当事者は死んでも、その遺族や関係者は生きている。彼らを実際に目の前にして、万人坑などお前たちのでっち上げたデタラメであるといって、その事実を否定することが出来るだろうか。もちろん、遺族や関係者もいつかは亡くなる。しかし、それでも彼らの口を封じることは出来ない。彼らが死んでも、さらにその子や孫がその事実を語り継いでいくからである。それが歴史というものだ。
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2018年10月28日

『地球の歩き方-北京』

『地球の歩き方』の北京篇をようやく購入。北京篇とは別に中国全土を網羅したものもあったが、あんな広大な国を一冊のガイドブックにまとめようとすること自体、無謀ではなかろうか。とにかくいろいろと調べなければならない。
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2018年10月16日

盧溝橋事件の基本図書3

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江口圭一の『盧溝橋事件』(岩波ブックレット/1988年)を古書で購入。先日、図書館で借りた盧溝橋事件についての研究書の一冊である。手頃な厚さで読みやすいため、購入した。これは相方に貸す予定。
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2018年10月14日

盧溝橋事件の基本図書2

図書館におもむき、盧溝橋事件について解説・研究した基本書籍を借りたことは、9月30(日)の日記に記した。読んだのは秦郁彦『盧溝橋事件の研究』、江口圭一『盧溝橋事件』、安井三吉『盧溝橋事件』の3冊である。盧溝橋事件のことは、ガキの頃にはすでに知っていた。しかし、その当時、知っていたことといえば、中国の盧溝橋付近で発砲騒ぎがあり、兵士が行方不明になったことで日本軍は中国軍と戦闘状態に入り、日中戦争へと拡大していったという程度のことである。盧溝橋がいったいどのあたりに位置しているかということさえ、はっきりしていなかった。もちろん、その騒動の結果、どのように両軍が展開していったかということなど、知るよしもなかった。成人に達してもう少し詳しいことは知識として得ていたとはいうものの、それはせいぜいガキの時分に得ていた知識に毛の生えた程度の事柄に過ぎなかった。「最初の一発」を撃ったのは誰なのかなど、それぞれの書籍において、細かいところで見解の違いはあるとはいえ、今回、上に記した基本図書を読んで、その概略を知ることが出来た。これは有難かった。それにしても、日本側はどうしてこうも見通しが甘いのか。しばしば顔をのぞかせる、安易な楽観論にもとづいた「一撃論」がここでも登場していて、苦笑した。
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2018年09月30日

盧溝橋事件の基本書籍1

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図書館におもむき、盧溝橋事件について解説・研究した基本書籍を借りる。秦郁彦『盧溝橋事件の研究』・江口圭一『盧溝橋事件』・安井三吉『盧溝橋事件』。とりあえず、帰りの電車のなかで江口圭一の『盧溝橋事件』を読んだ。コンパクトにまとまっていてわかりやすい。
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2018年08月05日

西谷大『食は異なもの味なもの』

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実家におもむいた折、久しぶりに読み返したのは、西谷大の『食は異なもの味なもの』(財団法人歴史民俗博物館振興会/2001年刊)である。食を通した日中文化論としてもなかなか面白い。なかでも、ケッサクなのは「臭豆腐」をめぐる巻末の一節である。他者の発見による自己発見こそ旅の醍醐味であるというならば、この著者は食を通してまさしく旅の本質をつかんでいる。しかし、「発酵が進み、すでに青緑色をしてどろどろしている」臭豆腐とはいったいどのようなものか。見てみたい気もするが、見たくないという気持ちも強い。お化け屋敷に入る心理だろうか。「青」や「緑」はやはり食欲を刺激しないのか。
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2018年07月21日

ジル・ドゥルーズ『差異と反復』

所用で久しぶりにジル・ドゥルーズの『差異と反復』を読み返すことが必要となった。しかし、持っていたはずの『差異と反復』がどういうわけか見当たらない。実家に置いているのだろうか。それとも紛失したか。とにかく困った。
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2018年03月04日

安部公房全集。

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夕方、実家へ。新潮社より刊行された『安部公房全集』を書庫から引っ張り出す。卒業祝いにAにあげるつもり。昔は良く読んだが、近頃は読み返す時間がない。私が持っているよりもAの方が活用してくれるだろう。問題はAにこれをどう渡すか、である。
ラベル:安部公房
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2017年09月26日

某所で某書を。

某所で某書を読んでいる青年を発見。珍しいやつだ。思わず話しかけそうになった。
ラベル:
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2017年07月25日

『山海経』

仕事場で『山海経』の話題が出る。久々に読み返したくなった。
ラベル:山海経
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2016年08月13日

大谷晃一『現代職人伝』

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実家で大谷晃一の『現代職人伝』(朝日新聞社)を数冊発見した。しかし、なぜ、同じ本が複数冊あるのか。最初はそういぶかった。しかし、パラパラめくり、なかをのぞいてようやく理解をした。我が家の祖父(故人)が職人の一人としてとりあげられていたのである。祖父を紹介した書物としては「週刊時事」編集部編『人と勲章』がある。そちらについては、以前、紹介した。しかし、『現代職人伝』の存在はまったく知らなかった。
ラベル: 職人
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2015年02月07日

樋口隆康『中国の古銅器』

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樋口隆康の『中国の古銅器』(学生社/2011年)をパラパラ読み返す。青銅器に関する解説書としては、ある程度、わかりやすい。しかし、言葉による解説が多いため、ビジュアル面からの理解はいま一つである。とある方がおっしゃっていたが、素人にもわかる中国・青銅器の入門書は意外とない。なかなか厄介である。
ラベル:青銅器
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2014年11月18日

文学・春風の会編『春風』

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先日、文学・春風の会編『春風』を編集されている某氏から『春風』vol.34を頂戴した。小説あり、随筆あり、作品評あり、俳句あり。みなさん、文学がお好きなんだな。そう思わせる同人誌である。これからゆっくり読ませていただきます。ありがとうございました。
ラベル:雑誌
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2013年12月26日

仏像カレンダー2014

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今年も岡村印刷工業(奈良県高市郡高取町車木215)が製作する仏像カレンダーを頂戴した。1955年の第1集以来、発行を重ね、今回、頂戴した最新版(2014年版)で第60集となる。今年の表紙は興福寺南円堂の不空羂索観音菩薩坐像。1・2月分には薬師寺東院堂の聖観音菩薩立像、3・4月分には法華寺の十一面観音菩薩立像、5・6月分には唐招提寺の千手観音菩薩立像、7・8月分には興福寺南円堂の不空羂索観音菩薩坐像、9・10月分には大安寺の馬頭観音菩薩立像、11・12月分には法隆寺の如意輪観音菩薩坐像の写真がそれぞれ収められている。撮影者はいずれも小川光三氏である。
ラベル:カレンダー 仏像
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2013年05月10日

松田道雄『私は赤ちゃん』

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先日、知人に子どもが生まれた。そのお祝いで自宅を訪問した折、私は松田道雄の『私は赤ちゃん』(岩波新書/1960・3)を読んでみるように彼女に勧めた。もちろん、『私が赤ちゃん』を勧めたのは、それがはじめて我が子を持つことになった親に対して育児の秘訣を説いたものであるからである。しかし、それだけではない。夏目漱石の『我輩は猫である』を意識して綴られているのであろうか。「私」=赤ちゃんの目を通して描かれる物語世界がユーモアたっぷりに描かれており、読み物としても無類の面白さを有した作品であるからこそ、是非、彼女に読んでもらいたいと思ったのである。ここでは「私」の目を通しておせっかいな近所のおばさんなどの他者=外界が批評されている。しかし、「私」の眼差しはちょっとしたことですぐにうろたえる「私」の両親や「私」自身にも向けられている。その眼差しはまことに平等であり、それがつい真似をしたくなる独特のモノローグ的文体ともども、本作の魅力を高める要因となっている。今回、久し振りに読み返した。そして、以前と変わらず魅了された。
ラベル:松田道雄
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2013年01月26日

前野直彬注解『唐詩選』(上)

先日、久し振りに岩波文庫の前野直彬注解『唐詩選』(上)をひもとく必要に迫られた。今回、おもに読み返したのは李白の「江上吟」である。

木蘭之竝ケ棠舟
玉簫金管坐兩頭
美酒尊中置千斛
載妓隨波任去留
仙人有待乘黄鶴
海客無心隨白鴎
屈平詞賦懸日月
楚王臺榭空山丘
興酣落筆搖五嶽
詩成笑傲凌滄洲
功名富貴若長在
漢水亦應西北流

いかにも李白らしいスケールの大きな詩である。特に「興酣落筆搖五嶽/詩成笑傲凌滄洲」という文言は、文学を志すものならば、誰もが一度は夢に見る境地であろう。『唐詩選』(上)には李白と双璧を成す杜甫の詩も収録されている。李白と杜甫。いずれも天才である。しかも、同時代人である2人は実際に親交を深めた間柄でもある。にもかかわらず、その作風はまったく対照的である。対照的であるにもかかわらず、われわれが抱く漢詩に対するイメージを2人の作品は代表している。そこが面白い。近いうちに暇を見てもう少しゆっくり読み返してみようと思う。
ラベル:漢詩 李白 杜甫
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2012年12月29日

『ひょうご文化財散歩』と『旅の仏たち(3)』

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2012年もあとわずか。年末は奈良に滞在し、残った仕事を仕上げるつもりである。しかし、年が明けてからふらりと旅に出る予定である。向かうは瀬戸内方面。今回は、旅の途中、兵庫県内にある地方仏を訪ねるつもりでいる。参考図書として、目下、仕事の合間にぱらぱらめくっているのが、神戸新聞社編『ひょうご文化財散歩』(神戸新聞出版センター刊/1981年6月)と丸山尚一の『旅の仏たち』第3巻(毎日新聞社刊/1987年11月)である。地元民でなければ知らないような神社仏閣やそこにまつられている仏像などが数多く紹介されている。これまでにも兵庫県内の仏像を拝観する際に参考にしている。今回もこれらに収録された仏像を見てまわりたいと思っている。
ラベル:仏像 兵庫県
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2012年12月26日

仏像カレンダー。

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仏像の写真が収録された壁掛け用のカレンダーを頂戴した。岡村印刷工業(奈良県高市郡高取町車木215)が製作する仏像カレンダーである。1955年の第1集以来、発行を重ね、今回、頂戴した最新版(2013年版)で第59集となる。表紙の写真は中宮寺の菩薩半跏像である。1・2月分には秋篠寺の伎芸天立像、3・4月分には薬師寺の日光菩薩立像、5・6月分には法輪寺の虚空蔵菩薩立像、7・8月分には東大寺の月光菩薩立像、9・10月分には中宮寺の菩薩半跏像、11・12月分には法隆寺の阿弥陀三尊像の写真がそれぞれ収められている。9・10月分の中宮寺菩薩半跏像は表紙の写真とは別の角度から撮影されたものである。いずれも有名な仏像ばかりである。撮影者は小川光三氏。開封後、早速、本棚の側面にかけてみた。
ラベル:カレンダー 仏像
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2012年09月13日

丸山尚一『旅の仏たち』

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丸山尚一の『旅の仏たち』全4巻(毎日新聞社/1987・9〜12)は、文字どおり、著者である丸山が旅の途上でめぐり逢った仏像を紹介したシリーズ本である。北は岩手、西は熊本までの仏像が紹介されている。その特徴としては奈良の大仏などのように誰もが良く知る有名な仏像がほとんど紹介されていないことが挙げられる。言及されている仏像の多くはいわゆる「地方作」である。したがって、見方によっては稚拙な造型のものもある。しかし、それだけに個性的な仏像たちであるともいえる。本書ではじめてその存在を知った仏像も多い。本書をきっかけにして拝観したものもある。今度の連休中はちょっとした旅に出る予定である。その折にも本書に紹介されている仏像の幾つかを見てまわりたいと思っている。
ラベル:仏像
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2012年07月25日

後藤明生『この人を見よ』刊行。

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後藤明生(1932年〜1999年)の『この人を見よ』(幻戯書房/2012年8月)が刊行された。奥付を確認すると、発行日は「2012年8月2日」となっている。8月2日といえば、1999年に亡くなった後藤明生の命日である。命日を発行日とした編集部の演出は何とも心憎い。巻末には「イエス=ジャーナリスト論、その他」と題されたインタビュー記事が掲載されている。「イエス=ジャーナリスト論、その他」は以前に『小説の快楽』(講談社/1998年2月)に収録されている。今回、「イエス=ジャーナリスト論、その他」が再収録されることとなった背景には、当時、連載中であった『この人を見よ』について部分的に言及されていることが挙げられる。しかし、それだけではあるまい。ここからは芥川龍之介や太宰治、菊池寛といった文学者に対する言及を通して、後藤明生自身の考える文学論、小説を書くということに対する意識もうかがえる。その意味では、直接、『この人を見よ』について解説したものではないとしても『この人を見よ』の魅力、後藤明生の作品世界の特徴を知ってもらうためには必要な記事であったということが出来る。それにしても良くぞこれだけ風変わりな小説を長期間にわたって書き続けたものであると感心させられる。そのことは、今日、信濃追分に滞在している後藤明生夫人とお電話でお話をしたときにも正直に申し上げた。奥さまは、最後まで自分の書きたいように書いてあの世にいっちゃったのだから、本人もさぞや満足だったでしょうとおっしゃっていた。以前より『この人を見よ』が単行本としてまとめられないままになっていることを気にされていた奥さまは今回の刊行をとても喜んでおられた。そして、その思いは私を含めた一部の愛読者にとっても同じである。その内容もさることながら、わざわざ図書館に出向いて初出誌である「海燕」を書庫から引っ張り出し、コピーをとる手間がはぶけるだけでも有り難い。知り合いの編集者A氏などは地元の図書館で『この人を見よ』の全文コピーを敢行したという。いまでこそコピーは閲覧者が自分でコピーをとることになっている。しかし、A氏がコピーをとった当時、コピーは図書館の職員が代行する形をとっていたという。図書館の職員にとって、39回にわたって延々連載された『この人を見よ』の全文コピーは悪質な嫌がらせ以外の何ものでもなかったかも知れない。ページをぱらぱらめくっているだけでも、行間からは後藤明生特有の饒舌な語りがじわじわとただよって来る。連載当時、断続的に「海燕」の当該ページをめくっていたときのことが思い返される。これから暇を見つけてゆっくり読み進めよう。8月12日に大阪で予定されている後藤明生研究会の場でも参加者有志にその刊行を宣伝しておこうと思う。
ラベル:後藤明生
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2012年07月04日

『万葉集』巻16。

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所用で『万葉集』を読み返した。読み返したといっても、すべてではない。巻16だけである。巻16を読み返してあらためて『万葉集』は不思議な歌集であると思った。たとえば、巻16には竹取の翁を主人公にした歌群が収録されている。しかし、3791番の歌に添えられた詞書はわれわれが良く知る『竹取物語』とは大きく異なる。登場するのは竹取の翁のほかに9人の少女たちである。ある春のこと、翁が丘に登っていると9人の少女とめぐり逢う。少女たちは翁を見て「火を吹いてくれ」と頼む。翁はそれに応えて火の番をする。しかし、しばらくすると、少女たちは誰がこの翁を呼んだのだといいはじめる。翁は少女たちに迷惑をかけたお詫びとして昔話を歌にして詠む。以下、翁が3つの歌を詠み、それに呼応して少女たちが9つの歌を詠む。歌の内容もさることながら、その詞書に記された翁と少女たちとの関係は不思議である。翁からすれば、少女たちの方から自分を呼び止め、火の番を依頼して来たのに、後になって「誰がこの翁を呼んだのだ」といい合うのは不条理そのものであろう。しかも、そこにはわれわれが知るかぐや姫の存在も『竹取物語』の片鱗も認められない。そうかと思えば「法師らが鬚の剃杭馬繋ぎいたくな引きそ僧は半かむ」(3846)や「石麻呂に吾物申す夏痩に良しといふ物ぞ鰻漁り食せ」(3853)や「痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を漁ると川に流るな」(3854)のような歌もある。特に3853と3854からは夏バテには鰻が良いといういわれが古代からあったことがうかがえて興味深い。他にも「奥つ国頷く君が染屋形黄染の屋形神の門渡る」(3888)のような怪奇・幻想ものもある。巻16には『万葉集』に対する一般的なイメージをくつがえすような要素が満ち満ちており、あらためて『万葉集』全巻を読み返してみようという気持ちになった。
ラベル:万葉集
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2012年06月29日

後藤明生『この人を見よ』刊行予定。

来月、後藤明生の『この人を見よ』が幻戯書房から刊行される。『この人を見よ』は「海燕」誌上に1990年1月号から1993年4月号まで計39回にわたって連載された未完の大作である。完結をみなかった原因としては、1993年4月、後藤明生が、当時、勤務していた近畿大学文芸学部の学部長に就任し、校務で多忙をきわめたことが挙げられる。当時は大学院文芸学研究科の開設準備も進行しており、小説を執筆しているだけの時間的な余裕がなかったのである。本人は校務が落ち着いた後に執筆を再開する心積もりであった。そのことは私も直接うかがったことがある。小説である以上、確かにどこで終わっても別に構わない。しかし、中断したところはあまりに中途半端な個所であり、中断するにしてももう少し書き加えてからの方が良いと思っている。そんな話であった。しかし、結局、執筆は再開されないまま、1999年8月2日、後藤明生はこの世を去る。その後、私は後藤明生の遺稿集の刊行を志し、2004年、『日本近代文学との戦い』(柳原出版)の刊行にこぎつけた。しかし、『この人を見よ』はあまりに分量が多く『日本近代文学との戦い』のなかに収録することが叶わなかった。後藤明生が亡くなってから13年の歳月が流れている。今年はご存命ならば生誕80年の記念すべき年にも当たる。そのような年に『この人を見よ』の単行本化が果たされることは悦ばしい限りである。今日は担当の編集者氏ともお話をさせていただいた。編集者氏の話をうかがい、その熱意に感服した次第である。
ラベル:後藤明生
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2012年06月15日

金子嗣郎『松沢病院外史』

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書架の整理をしていて金子嗣郎の『松沢病院外史』(1982年8月、日本評論社刊)を見つけた。懐かしい一冊である。かれこれ二十年近く前になるだろうか。ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』に感化され、日本の精神病院史をかじってみようとして買い求めたものである。松沢病院の歴史を知ることが出来たこともさることながら、それ以外の関連事項について多くの知見が得られたのは収穫であった。京都の人ならば良くご存知の「岩倉」の歴史が古くは平安時代にまでさかのぼることや「葦原将軍」の存在を知ったのも本書においてである。当時、研究していた牧野信一の『村のストア派』を松沢病院との関わりから探究してみようかと構想していたことも思い出した。
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2012年03月02日

朝鮮総督府官報。

所用でいま「朝鮮総督府官報」を調べている。「朝鮮総督府官報」とは、文字どおり、戦前、朝鮮半島を統治していた朝鮮総督府が発行していた官報である。「朝鮮総督府官報」は日曜日・祝日・年末年始をのぞく毎日発行されており、朝鮮総督府が公布した法令や告示、叙任、許認可、広告などが掲載されている。近年、「朝鮮総督府官報」の原文を閲覧することが出来る「朝鮮総督府官報活用システム」がオンライン上で公開されている。サイトの表記は韓国語(ハングル)である。しかし、「朝鮮総督府官報」そのものが日本語で表記されているため、しばらく使っているうちに使い勝手がわかって来る。現在、入力作業が鋭意おこなわれているようであり、1916年〜1927年分に限って、まだ公開されていない。しかし、それでもわざわざ図書館に出掛けて調べる手間が大幅にはぶけて大助かりである。おかげでかねてより調べたかったことの幾つかがはっきりして来た。大発見もある。有り難い限りである。

朝鮮総督府官報活用システム→こちら
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2012年02月09日

巌津政右衛門『岡山の石造美術』

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巌津政右衛門の『岡山の石造美術』(日本文教出版/1973・12)も岡山文庫のなかの一冊である。題名のとおり、岡山県内の石造美術が数多く紹介されている。層塔・宝塔・多宝塔・宝篋印塔・石灯籠・五輪塔・板碑・方柱碑・笠塔婆・無縫塔・石幢・石室・石仏・石鳥居・その他に分類されている。以前、岡山を旅したときに訪れた藤戸寺五重塔や備前国分寺七重塔、総願寺跡宝塔、五流尊龍院宝塔、法界院石灯籠などももちろん紹介されている。本書をひもとくと岡山県内にはまだまだ魅力的な石造美術が数多く点在していることがうかがえる。次回の岡山紀行でも本書を片手にどこかを見てまわりたいと思っている。
ラベル:石仏 石塔 岡山
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2012年02月07日

脇田秀太郎『岡山の仏たち』

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岡山文庫というシリーズがある。岡山市内に本社を置く日本文教出版株式会社が発行しているシリーズである。その存在をはじめて知ったのは大学院生のとき。大学の図書館でアルバイトをはじめてから岡山文庫というシリーズが図書館に収納されているのを知ったのである。“文庫”と銘打たれていることからもわかるようにコンパクトな文庫サイズである。岡山にちなんださまざまな題材・テーマがシリーズ化されている。近年は岡山を訪れる機会が多い。岡山文庫はその折に大活躍をしている。私が所有しているシリーズの一冊に脇田秀太郎『岡山の仏たち』(日本文教出版/1965・5)がある。文字どおり、岡山県内の仏像・神像を紹介した一冊である。余慶寺の薬師如来坐像や明王寺・聖観音菩薩立像、高野神社・門神立像のような岡山県を代表する仏像・神像のほかにもさまざまな仏像・神像が紹介されている。弘法寺の行道用被仏の存在を知ったのも本書においてであった。今後、岡山県内の古寺を探訪する際にも大いに参考にさせていただくつもりである。
ラベル:仏像 岡山
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2011年08月08日

前田勇『大阪弁』

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前田勇の『大阪弁』(朝日新聞社/1977年2月)をはじめて読んだのは十数年前のことである。当時、関西の詩人や漫才の起源などを調べる機会があった。その関わりのなかで読んだのであった。それまで「大阪弁」を意識したことはなかった。それだけにここに記されている「大阪弁」の指摘は目から鱗であった。「大阪弁は一音語を、すべて長呼する」という指摘は「目」を「めえ」、「歯」を「はあ」、「手」を「てえ」と呼ぶことに当てはまる。そして、そこから「大阪弁」の持つ「母音過多」の傾向が指摘されている。「たとえば動詞の打ち消しの言い方ひとつを取ってみても、上方では『ありはせぬ→ありゃせん→あらへん→あれへん』という順に変化しているが、大阪弁はすでに『あれへん』まで到達しているのに、京都弁はまだ一足おくれて『あらへん』の段階である」として「京都弁は保守的・消極的であり、大阪弁は進歩的・積極的である」と指摘されているのも興味深かった。ほかにも「どうしたというのや」が「どないした言うねん」に変化する際の「ねん」という断定表現、「行きなさる」が「行かはる」に変化する際の「はる」という敬語表現、「ド阿呆」のように「どう」という短呼が接頭語化した「ど」の分析や助詞の省略率の高さ、船場言葉の持つ貴族性など、興味深い指摘が満載である。いまでも仕事で関西弁(大阪弁)について調べるときに活用している。ありがたい一作である。
ラベル:方言
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2011年07月29日

『日本語文章・文体・表現事典』

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『日本語文章・文体・表現事典』(朝倉書店/2011年6月)が刊行された。題名のとおり、日本語の文章・文体・表現を多角的にまとめた事典である。「表現用語の解説」からはじまり「文章用語の解説」「文体用語の解説」「レトリック用語の解説」「ジャンル別文体概観」「文章・文体・表現の基礎知識」「目的・用途別文章作法」「近代作家の文体概説と表現鑑賞」「近代の名詩・名歌・名句の表現鑑賞」と続いて「文章論・文体論・表現論の文献解題」で締め括られる。今回、「近代作家の文体概説と表現鑑賞」のなかの「古井由吉」と「後藤明生」の項目の執筆を担当した。自分の仕事とも関わりのある事典である。それだけに興味深い。しかし、何しろ大部である。時間のあるときにでもじっくり読んでみようと思っている。
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入江泰吉記念奈良市写真美術館館編『昭和の奈良大和路―入江泰吉の原風景』

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入江泰吉記念奈良市写真美術館館編『昭和の奈良大和路―入江泰吉の原風景』(光村推古書院/2011年8月)は入江泰吉記念奈良市写真美術館館で購入した。当館で9月25日までもよおされている「入江泰吉 大和の暮らし―昭和20年〜30年代―」と題された展覧会に合わせて企画・出版された写真集である。入江泰吉によって撮影された昭和20年代から昭和30年代にかけての奈良の風景写真が多数収録されている。展覧会に出展されている写真と重複するものもある。出展されていない写真も収録されている。現在、新大宮駅の途中から地下にもぐり込んでしまう近鉄奈良線が、当時、路上を走っていたことを知るものはいまではもう少ないだろう。般若寺の本堂が選挙の投票所として使われている様子を撮影した一枚は貴重である。「興福寺境内」(p39)や「若草山麓」(p45)も印象深い。娯楽に乏しかった当時、奈良公園や若草山に出掛けることも充分なレクリエーションであったようである。興福寺の境内や若草山に茣蓙を敷き、三々五々、酒を呑んだり、歓談したりする人たちでゴッタ返している光景もいまでは考えられないものである。しかも、あたりにはゴミが散乱しており、実に汚い。小野十三郎も『詩論』のなかで若草山に散乱するゴミの様子に言及していたように思う。しかし、その様子を実際に目の当たりにしたのは今回がはじめてである。隣国の人々はゴミを平気で路上に捨てる。マナーの悪い民族である。そういって隣国を批判する言説は多い。しかし、この写真を見れば、数十年前までは日本人も隣国の人々とまったく同じレベルにあったことを思い知らされる。その他、わが家の掛かりつけの医院が写り込んでいる写真もある。遠くに実家そのものが写り込んでいるものもある。いまでも変わらぬのは子どもたちの表情である。その無邪気な表情には魅了される。微笑ましい光景である。
ラベル:写真 入江泰吉
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2011年07月04日

内田魯庵『思い出す人々』

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内田魯庵の『思い出す人々』(岩波文庫/1994年2月)を再読する機会に恵まれた。有り難い限りである。かれこれ7、8年振りではなかろうか。7、8年前に読んだときと同様、今回も二葉亭四迷について言及した「二葉亭四迷の一生」「二葉亭余談」「二葉亭追録」「二葉亭四迷―遺稿を整理して―」がもっともおもしろかった。「二葉亭の直話に由ると、いよいよ行詰って筆が動かなくなると露文で書いてから飜訳したそうだ」という一節などは近代以降の日本語(言文一致体)に慣れ親しんだ現代のわれわれには想像することは難しい。しかし、言文一致という新たな文の草創期における先駆者=二葉亭の苦闘をうかがい知るには見逃すことの出来ない記述である。「二葉亭は始終文章を気にしていた」「二葉亭も一つの文章論としては随分思切った放胆な議論をしていたが、率ざ自分が筆を執る段となると仮名遣いから手爾於波、漢字の撰択、若い文人が好い加減に創作した出鱈目の造語の詮索から句読の末までを一々精究して際限なく気にしていた」「一面には従来の文章型を根本から破壊した革命家であったが、同時に一面においてはまた極めて神経的な新らしい雕虫の技術家であった」という回想部分も興味深い。二葉亭にとって文学は「文」との格闘を抜きにしてはありえなかったということをあらためて思い知らされた。「文」との格闘は作品を如何に書くかという方法論の問題に通じる。しかし、その肝心の方法に対する意識が失われてしまったところに日本の近代文学の問題がある。それはすなわち「文」に対する自己意識の喪失を意味している。いま一度、「文」と格闘した二葉亭の営為を振り返ってみるべきではなかろうか。
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2011年06月30日

仲川明『子供のための大和の伝説』

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仲川明の『子供のための大和の伝説』(奈良新聞社/昭45年12月)は、その題名のとおり、奈良県各地に残る伝説を蒐集した一冊である。先日、書棚を整理しているときに見つけた。小学生の頃、繰り返し読んでいた書籍だけに実に懐かしい。クラスの朗読会では所収の一篇「ホイホイ火」を朗読したこともある。収録された伝説のなかでは「猿沢池の竜」「十三鐘の石子詰」「家康と桶屋」「百万辻子」「不審ケ辻子」「牛の宮」「馬魚」「汁掛祭の由来」「油かけ地蔵」「伯母子岳の一本足」が特に印象に残っている。「牛の宮」で紹介されている牛の宮(大和郡山市)や「油かけ地蔵」の油かけ地蔵(川西町)などは本書を読んではじめてその存在を知った。読み返すとところどころに鉛筆で線が引かれている。破れかかっている頁もある。
ラベル:伝説 奈良
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2011年05月15日

種村季弘『食物漫遊記』

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種村季弘氏には、一度、お会いしたことがある。当時、私が勤務していた大学に講演に来られた。そのときは織田作之助について話されたのではなかっただろうか。講演の後、近くの酒場にお連れしていろいろお話をうかがった。酒場では泉鏡花や大阪に点在する渡来人の旧跡について語ったおられたように思う。氏が亡くなる5年ほど前のことである。懐かしい思い出である。氏の書物は何冊か持っている。先日、所用があってそのなかの『食物漫遊記』(筑摩書房/1981年3月)を引っ張り出した。久し振りに再読したが、その飄々とした文体に相も変わらず魅了された。序章に当たる「嘘ばっかり」の書き出しは次のようなものである。「よだれが出るほどうまそうな物をチラ付かせながら、アレがうまかった、これはこたえられない、と能書きを並べた食通随筆を読まされると、正直のところ、あんまりいい気持ちはしない。こン畜生、一人だけいい思いをしやがって。酢豆腐。きいたふう。半可通。生唾が嫉妬と羨望の毒を吸ってすっかりどす黒くなったのが、うらみがましくペッペッとそこいら中に吐き出されるような塩梅である」。当該部分からもあらかた想像がつくように『食物漫遊記』はいわゆるグルメエッセイではない。「嘘ばっかり」という序章の章題と絡めると食べ物にまつわるさまざまな虚構(嘘)を描いた作品であるといって良い。なかでも、興味深いのは「絶対の探求」で綴られる「岡山にある日本一の焼鳥屋の話」である。岡山には所用でしばしば出掛ける。しかし、岡山に住む知人に訊ねてみても、そのような店が実在するのかどうか、さっぱり要領を得ない。無理もあるまい。著者である種村氏自身が実際にそのような店が存在するのかどうかを自分の目で確認することが出来ないまま、筆が置かれているのである。虚実のはざまをたどるうちに食べ物にまつわる迷宮のなかを彷徨うような感覚をおぼえる作品である。
ラベル:種村季弘
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2010年08月27日

伊藤和『伊藤和詩集』6

伊藤和『伊藤和詩集』1→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』2→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』3→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』4→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』5→こちら

一方、「すいか」を読むと、伊藤和の詩の放つ力強さが他者に対するあたたかな眼差しと表裏一体の関係にあることがうかがえる。

あせがながれる
かんかんてる

ガキらは どんなに たべたいであろう
しるのしたたる まっかなスイカにむしゃぶりついて
はらをてんてんたたくまで

はたけのなかに おおきくそだち
あっちに ごろり
こっちに ごろり
そのうえに つると はがかむさり
はなもたくさんついている

そして かんかんてりますから
スイカはあかくいろづいたろう
ひとつ ひとつ ゆびでつついて
はやくまっかにならないか
ああ おおきくなった はつなりとにばんなり
おおきい おおきい おつきさまのようだという
ガキらは よる そのゆめをみるだろう
そして
はたけのなかに はなとはなをむすばせながら
おおきい はつなりとにばんなり
おららとみんなと わけてたべたい

ガキらは
どこのガキらも おなじことです

けれど かってにたべてはならないど
かってにたべてしまってどうするか
おとなは ガキらを しからねばならない

ああ おとなは やっぱりかなしいだろう
おおきい はつなりとにばんなり
くるまにつんで とおくのまちへ
あせをながしてうりにゆく。
(『伊藤和詩集』83〜83頁より)

ここには伊藤和の優しさとともに現実批判としての眼差しも認められる。現実を批判する一方、すいかを「ガキら」に食べさせてやれないことに対する悲哀もにじみ出ている。いわば、人が社会で生きてゆくということに対する矛盾が総合的に表されている。それは人生そのものであるといって良い。しかし、そうであるからこそ思うのは、伊藤和が抱いた他者に対する信頼をいまの時代にここまでストレートに表現することが出来るであろうかということだ。人生の悲しみや怒りを西瓜に託してストレートに綴る。ある意味では幸せな時代であったと思う。「コップ酒屋にいる男の群」や「高神村事件のときの詩」のように、農村の荒廃が叫ばれ、農民と資本家や国家とを明晰な二分法で構造化することが出来なくなった現代から振り返ると、それらを単純に羨ましく思う。その意味では伊藤和の詩群は反復し得ない一回限りのものである。しかし、反復し得ないからこそ、伊藤和の志はいまもなお私の心を打つ。コップ酒を呑むとき、私は「コップ酒屋にいる男の群」を思い出すだろう。西瓜を食べるときには「けれど かってにたべてはならないど/かってにたべてしまってどうするか/おとなは ガキらを しからねばならない」という一節を思い浮かべることだろう。いまは西瓜の季節である。西瓜を食べながら「ああ おとなは やっぱりかなしいだろう/おおきい はつなりとにばんなり/くるまにつんで とおくのまちへ/あせをながしてうりにゆく」という一節を思い浮かべる。
(終わり)
ラベル:伊藤和
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2010年08月26日

伊藤和『伊藤和詩集』5

伊藤和『伊藤和詩集』1→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』2→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』3→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』4→こちら

「百姓」や「土方」や「馬車挽き」たちと自分自身とを同質の存在として位置づけること。その強固な同質性が「高神村事件のときの詩」を生み出す原動力でもある。「高神村事件のときの詩」は1929年に起こった高神村農魚民蜂起事件を描いた一篇。「子供達は叩きこわされた役場や駐在所や山口藤兵衛の家を見に行き万才を叫んだ」「あとからあとから たくさん縛られて行く者の目がギロギロ光る/おとっさん!兄さん!」「部落の男はみんな犯人である/さあ、みんな犯人だ 縛って行け!」といった記述からは、自分もまた彼らの同志であるという伊藤和の思いが伝わって来る。伊藤和はここでも権力側と鋭く対立した「子供達」や「おとっさん」や「兄さん」といった「部落の男」たちと自分自身とを同じ存在として位置づけている。いいかえれば、書き手=伊藤和と書かれる対象=「部落の男」たちとが幸福な関係でもって結ばれている。私の好きな一文に「われわれはその手から断じて逃走しない そいつに逆流する逆流する」がある。「逆流」という言葉が舌を転がせるような粘り強さを感じさせ、文字通り、心の底から何かがせりあがって来るような印象さえ抱かせる。それが二度も繰り返されることによって伊藤和の戦闘的な精神の力強さをあますところなく伝えているといえよう。そして、そういった戦闘的な言葉が吐き出されるのも被抑圧階級である仲間に対する伊藤和の強い共感があるからこそである。他者に対する全幅の信頼と同質性に対する志向が伊藤和の世界を支える力の源泉にほかならない。
(続く)

伊藤和『伊藤和詩集』6→こちら
ラベル:伊藤和
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2010年08月25日

伊藤和『伊藤和詩集』4

伊藤和『伊藤和詩集』1→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』2→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』3→こちら

大地に根を張って生きる農民として、自分たちに恵みをもたらす自然と調和しながら生きる。伊藤和の描く個はこのような存在である。それが労働を介して同じ農民やプロレタリアートと結びついたとき、「コップ酒屋にいる男の群」のような作品が生まれる。

町に行きコップ酒屋のノレンをくぐる
安い酒を一杯 注文する
土間をあらいざらい電灯が照らしている
しなびた瓜漬を噛んでは牛のように舌を出し醤油のジャミた唇を舐め
百姓の仲間がいる 土方の仲間がいる 馬車挽きの仲間がいる
おいらはみんな安い酒一杯二杯では酔わない唇をなめずる
なにしろ腹の虫がおさまらない
モウ一杯から 二杯となり五杯六杯とかさね酔ってくる
コップ酒屋にいる男の群!
おいらをヤクザ者と告げるお定まりのりんしょく共はここにはいない
あつい等はたぶん貯金をする話をし政府をほめながらあいつ等の家にいる
何も持たないヤクザ者には困るとあいつ等が云う、そしておいらはコップ酒屋の腰掛にいる

そうだ、ここにおいらが酔っている
馬のように達者で いくらでも呑みたい唇を舐めずり
空になるコップを冷笑し
また腕と腕が唸りミケンから血を流すそんな喧嘩もやり
おいらの眼はあいつらが震えるほどすわっている
全く それならば何が喧嘩をさせるのか、なんて理屈はヤボなことだ
喧嘩でもなんでもやるときはやる
胸がむかつく コップ酒
コップ酒屋に来て見て驚く奴には毒だ
おいらが酔っている
で、結局 血を拭ってまた呑み直しおいらは大いに笑う
(『伊藤和詩集』38〜40頁より)

語り手は伊藤和自身を連想させる「おいら」。「おいら」は「百姓」や「土方」や「馬車挽き」たちの様子を描きながら、彼らに交じってコップ酒をあおる。そして、「貯金をする話をし政府をほめ」る「あいつ等」に対して激しい憎悪を抱く。「血」や「喧嘩」という言葉からは、当該シーンが「あいつ等」を相手に闘い、傷ついた後のエピソードであることを暗示している。「あいつ等」との闘いはどうやら芳しい成果をあげるまでにはいたらなかったようである。そのことがみずからの怒りや遣る瀬無さを増幅する。その激しさがときには意味の通りにくい文章となって現れることもある。「おいらはみんな安い酒一杯二杯では酔わない唇をなめずる」という一文は「おいらはみんな」と同じように「安い酒一杯二杯では酔わない」、酔えないで「唇をなめず」っているといった意味であろうか。注目すべきは、「おいらはみんな」という部分が、「おいら」と「百姓」や「土方」や「馬車挽き」たちとを同質の存在として伝えていることである。「おいら」は筆者個人である。それとともに「百姓」や「土方」や「馬車挽き」でもある。すなわち、「おいら」は個であって同時に集団である。彼らを含めた被抑圧階級の集合的=象徴的な存在である。もちろん、「あいつ等」から蔑視される「おいら」(たち)は、彼らによって強権的に抑圧される対象であるがゆえに不安定な自己存在を強いられる。そのことが「おいらはみんな安い酒一杯二杯では酔わない唇をなめずる」という一文の意味の通りにくさや不安定さに表されているのであろう。しかし、伊藤和にとって、そのような存在はみずからの望むところであったはずだ。そうであるからこそ「おいら」は「そうだ、ここにおいらが酔っている」と力強く宣言しているのである。伊藤和は、いま一度、「おいらが酔っている」と宣言する。この言葉は酒に酔った「おいら」の状態を表したものであるとともに「あいつ等」と鋭く対峙するみずからの存在をあらためて見つめ、決意を強めたことの表われでもある。いいかえれば、客観であるとともに強烈な主観そのものである。
(続く)

伊藤和『伊藤和詩集』5→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』6→こちら
ラベル:伊藤和
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2010年08月24日

伊藤和『伊藤和詩集』3

伊藤和『伊藤和詩集』1→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』2→こちら

「無題」の全文である。とかくシモがかった話題は卑猥で退廃的な印象を与えるものである。しかし、本篇で描かれる「ラッパ屁」は卑猥や退廃とは無縁である。むしろ健康そのものであるといっても良い。しかも、それは「手を濡らさない」連中を批判し、圧倒する戦闘的な手段として巧みに駆使されている。これほど明朗で力強い「屁」も珍しいのではあるまいか。大袈裟にいえば、ラブレー的というか、カーニバル的な匂いさえ感じさせる「屁」である。農民である「おれ」は泥のなかで農作業に没頭する。その身体は泥にひどくまみれているであろう。全身から噴き出した大量の汗と泥とが入り混じって独特の臭気さえ発しているはずだ。「おれ」=農民は泥のなかで生まれ、泥とともに生き、そして、泥とともに命を終える。「泥」=大地にしっかりと足をつけ、その恵みを一身に受ける。そのような存在として描かれている。農民に対する愛情にあふれた眼差しが感じられる演出である。なかでも、注目すべきは「おれ」が「泥にどっかりと坐って」いる「蛙」に対して共感を抱いていることである。「いつもの青空を見ると頭のてっぺんにでっかい雲の峯が現われている」という一節からは「おれ」が「蛙」とともに「でっかい雲の峯」とも親和的な関係を有していることがうかがえる。伊藤和にとって「おれ」=農民は大地や天空、あるいはあらゆる生きものを包摂した全存在的な存在として大地に力強く屹立しているのである。「おれ」の「ラッパ屁」が健康そのものである所以である。
(続く)

伊藤和『伊藤和詩集』4→こちら
伊藤和『伊藤和』詩集5→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』6→こちら
ラベル:伊藤和
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2010年08月23日

伊藤和『伊藤和詩集』2

伊藤和『伊藤和詩集』1→こちら

私の手許には『伊藤和詩集』(1960年9月/国文社刊)がある。収録されている詩篇の数は56篇。『現代詩大事典』でも紹介した『泥』所収の27篇のほか、戦前から戦後にかけて発表された作品が収められている。巻末に付け加えられた秋山清の「伊藤和と『馬』事件」によると、本作の編纂には秋山清が関わっているようである。「伊藤和詩集の出版が決まったとき、私は『あつめられるだけの作品をもってすぐ上京するように』と彼に手紙をかいた。一九五六年の十一月」のことであった」「やがて十二月になって案外元気にやってきた。伊藤は、そのとき『これだけしかないョ』と、一九三〇年に発禁になった詩集『泥』の写しと戦後の作品をすこしばかりもっていた」。こういった秋山の回想によると、『伊藤和詩集』に収録された詩篇が伊藤和のすべての作品ではないことが読み取れる。あくまでも幾つかの時期に発表された作品を集めた代表作選集といったところであろうか。しかし、これだけをとってみても、農民詩人としての伊藤和の骨太さやたくましさは充分にうかがえる。例えば、「無題」は農民としての所感を力強く謳い上げた詩篇である。私の好きな作品の一つである。

そして十二時にもならないうちに腹が減って
なでしこのきざみを吸いつけると空き腹が非常にグルグルと鳴る つまり元気よくラッパ屁が出た
側でとろとろに溶けあってる泥にどっかりと坐って蛙が鳴いている
おれはそいつが好きになっている
とにかく百姓はよく屁をたれる
手を濡らさない奴の九鱈ない発想なんか屁で軽蔑してやればいい、あついらにおれ達の咽喉を使うまでもないことだ
深い泥の中には働く者だけがいる
で、いつもの青空を見ると頭のてっぺんにでっかい雲の峯が現われている
暑くなるからお互に気をつけようぜ!
みんなよ。
(『伊藤和詩集』30〜31頁より)
(続く)

伊藤和『伊藤和詩集』3→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』4→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』5→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』6→こちら
ラベル:伊藤和
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2010年08月22日

伊藤和『伊藤和詩集』1

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伊藤和(1904年〜1965年)は千葉県出身の農民詩人である。いまではその名前を知るものはそれほど多くはあるまい。私が伊藤和の存在を知ったのはいまから十年以上前のことである。当時、小野十三郎についての論考を書いていたとき、小野が秋山清らとともに創刊した「弾道」や萩原恭次郎の「クロポトキンを中心にした芸術の研究」のなかでその名前を見つけた。しかし、当時は小野や秋山の文章に目を奪われていたこともあり、伊藤和の詩に関心を寄せるまでにはいたらなかった。その後、2008年2月に刊行される『現代詩大事典』(三省堂)の執筆を依頼された。編集部から依頼された担当項目のなかに「伊藤和」が含まれていた。これはまったくの偶然である。しかし、伊藤和の作品世界を真正面から吟味する機会に恵まれたという意味ではまことに有り難い偶然であった。『現代詩大事典』に寄稿した伊藤和のプロフィールを引用しておこう。

千葉県栄村(現、匝瑳市)生まれ。一九二三(大12)年頃から農民運動に参加。三〇年、田村栄らと同人誌「馬」を発刊。高神村農魚民蜂起事件(二九年)を支援した詩等により不敬罪・治安維持法違反・出版法違反で懲役二年(執行猶予四年)の判決を受ける。同誌と同年秋刊行の詩集『泥』は発禁処分となった。無政府共産党事件(三五年)、農村青年社事件(三六年)でも検挙された。「クロポトキンを中心にした芸術の研究」「弾道」「文学通信」「詩行動」等に貧困に喘ぐ農民の日常を活写した重厚な作品を発表。戦後は「コスモス」「新日本文学」等で活躍した。『伊藤和詩集』(六〇・九 国文社)がある。(『現代詩大事典』69〜70ページより)
(続く)

伊藤和『伊藤和詩集』2→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』3→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』4→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』5→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』6→こちら
ラベル:伊藤和
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2010年08月14日

『すみ鬼逃げた』と唐招提寺。

『すみ鬼にげた』(福音館書店/2009年11月)という童話があることを教えてくれたのは大学時代の同窓生Mであった。「すみ鬼」とは唐招提寺・金堂の四隅の軒下に据えられた4体の隅鬼(邪鬼)のこと。Mは子どもの課題図書として『すみ鬼にげた』が選ばれていることを告げた。そして、「すみ鬼」を見学するため、子どもを連れて唐招提寺を拝観するべきかどうかと私に訊ねた。昨年までおこなわれていた金堂の改修工事期間中であれば、Mの所望する「すみ鬼」を間近で拝観することも可能であった。実際、私も改修工事中に訪れたときにすぐ目の前で「すみ鬼」を見学している。自分の眼に焼きつけたばかりか、カメラにも収めている。4体のうち、奈良時代の創建当時のものは3体、残り1体は江戸時代に取り替えられた後補ではなかっただろうか。しかし、改修工事が終わった現在、実物をすぐ目の前で見学することは出来ない。金堂の建っている基壇の上に立ち、見上げるような格好で下から眺めることになる。何しろ金堂は大きな建物である。下から眺めることによって観察者と「すみ鬼」とのあいだに相当の距離が生じる。したがって、その姿をはっきり確認することは双眼鏡を使っても難しい。ましてその表情をじっくり観察することは不可能であろう。Mに対してはそのように答えておいた。すると今度は帰省中の妹からも同じ質問を受けた。どうやら甥っ子シュンの夏休みの課題図書の一冊も『すみ鬼にげた』であるらしい。「すみ鬼」を間近で見ることは叶わないとはいえ、時間があれば、この夏休みのあいだに駿を唐招提寺に連れていってやろうと思う。
ラベル:童話 唐招提寺
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2010年07月20日

三島由紀夫『奔馬』4

三島由紀夫『奔馬』1→こちら
三島由紀夫『奔馬』2→こちら
三島由紀夫『奔馬』3→こちら

本多は高宮神社を経由することなく「沖津磐座」にたどり着く。これはいったいどういうことだろうか。考えられるとすれば、次の3点である。@三島由紀夫は実際には高宮神社から「沖津磐座」へと続く現在のルートを歩いたものの、『奔馬』執筆時、記憶違いから誤ってこのようなルートを描いた、A三島由紀夫は実際には高宮神社から「沖津磐座」へと続く現在のルートを歩いたものの、何か意図することがあって、意識的に違ったルートを創作した、B当時の参拝ルートが実際に本多の歩んだ経路にしたがって作られていた。三島由紀夫本人に真相を訊ねることが出来ない以上、現在では@ABそれぞれに幾らかの可能性があるといえよう。なかでも、私がもっとも妥当だと考えるのはBである。その根拠としては、本多が「沖津磐座」にたどり着く直前、「沖津磐座は崖道の上に突然あらわれた」という一文が綴られていることを挙げておきたい。「沖津磐座は崖道の上に突然あらわれた」という記述から推測すると、三島由紀夫は現在のように高宮神社の正面に出て来るルートではなく、直接、「沖津磐座」のあたりに出て来るルートをたどったのではあるまいか。すなわち、山頂を目前にして、その直下をまわり込むようにして奥側(東)へと進み、「沖津磐座」の真下から一気に「崖道」を駆け上ったのではないかということである。「沖津磐座」の背後には確かに三輪山の後方に控える奥不動寺・巻向山方面へと下る山道が存在する。現在、奥不動寺・巻向山方面へと下るルートは立ち入りを禁じられているが、「沖津磐座」の縁に沿うようにして奥へと続くなだらかな山道は三島由紀夫が記した「崖道」とはおよそ馴染まない。それはおそらく三島由紀夫がたどった「崖道」ではあるまい。

では、高宮神社を経由することなく「沖津磐座」の前に直接出て来るような別のルートが存在するのであろうか。残念ながら、私の記憶にはない。三輪山にはこれまでに何度も入山登拝をおこなっている。もちろん、入山登拝のたびに山頂までは必ず登る。山頂では設けられたルートにしたがってまずは高宮神社におまいりをする。その後、高宮神社の背後にまわり込み、尾根伝いに「沖津磐座」へとおもむく。しかし、高宮神社と「沖津磐座」のあいだをつなぐ尾根筋に合流するような山道などはなかったはずである。三島由紀夫が歩いたルートがいまではもう使われなくなっていることは充分に考えられる。使われているとしても、大神神社の神職にだけ利用が許されているたような道であるのかも知れない。いずれにしても、決められたルート以外への立ち入りを禁止されている現状では、「崖道」の存在を自分の目で確かめることは不可能である。それはわれわれが歩く一般的な参拝道のどこから分岐し、どこでどのようにしてふたたび合流するのか。なぜそれがいまでは使われず、現在の参拝ルートに変更されてしまったのか。そして、いまではどのような状態になっているのか。涼しくなったら、三島由紀夫の歩いた「崖道」の痕跡を求めて、もう一度、三輪山に登ってみようと思う。(終わり)
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2010年07月19日

三島由紀夫『奔馬』3

三島由紀夫『奔馬』1→こちら
三島由紀夫『奔馬』2→こちら

本多は山頂にたどり着く。そして、山頂の一角を占める「沖津磐座」に目を奪われる。「沖津磐座」は、現在、奥津磐座と呼ばれている巨石群のことであろう。実際、それは三輪山の山頂まで登って来た参拝者が目にする今日の奥津磐座の光景そのものである。三島由紀夫が三輪山に入山登拝したのは1966年8月24日のこと。当時から「沖津磐座」=奥津磐座の光景は現在と変わらぬ状態であったようだ。三島由紀夫は本多の目を通して「沖津磐座」の姿を次のように描いている。

難破した巨船の残骸のような、不定形の、あるいは尖り、あるいは裂けた巨石の群が、張りめぐらした七五三縄のなかに蟠っていた。太古から、この何かあるべき姿に反した石の一群が、並の事物の秩序のうちには決して組み込まれない形で、怖しいような純潔な乱雑さで放り出されていたのである。
石は石と組み打ち、組み打ったまま倒れて裂けていた。別の石は、平坦すぎる斜面をひろびろとさしのべていた。すべてが神の静かな御座というよりは、戦いのあと、それよりも信じがたいような恐怖のあとを思わせ、神が一度坐られたあとでは、地上の事物はこんな風に変貌するのではないかと思はれた。

「難破した巨船の残骸のような」という比喩はいい得て妙である。その乱雑な配置を「神」との関わりから描いているのも三島由紀夫らしい。しかし、ここで疑問に思うことがある。それは本多が山頂付近でまず目にするのが「沖津磐座」であるということである。山頂には日向御子神を祀る高宮神社が鎮座している。「沖津磐座」は高宮神社の東方百メートルほどのところに位置している。現在、われわれが山頂に到達すると、高宮神社を最初に拝することになる。高宮神社で参拝を済ませた後、その背後に位置する奥津磐座へ参拝するという経路をたどる。ところが、本多は「沖津磐座」に参拝した後に高宮神社を訪れているのである。これは順路としては明らかにおかしい。(続く)

三島由紀夫『奔馬』4→こちら
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2010年07月18日

三島由紀夫『奔馬』2

三島由紀夫『奔馬』1→こちら

「四」は、『春の雪』の主人公であった松枝清顕の親友であり、『豊饒の海』全体の狂言廻しの役割を務める本多繁邦が、上司である須川の代理として、大神神社に参拝をするところからはじまる。本多はここで神前奉納剣道試合を観覧し、『奔馬』の主人公となる飯沼勲とめぐり逢う。神前奉納剣道試合が執りおこなわれるのは拝殿前の庭。白軍の先鋒を務める勲は一挙に5人に勝ち抜き、本多を魅了する。「五」では、その冒頭、本多が宮司から「ひとつお山へ登ってみられませんか」と誘われる。「お山」とは拝殿の奥に鎮座する御神体・三輪山のことである。摂社である狭井坐大神荒魂神社でお祓いを受けた本多は登り口から「お山」に登りはじめる。

周囲約四里の三輪山は、西辺の御本社の背後に当る大宮谷を含む禁足地のまわりに、九十九谷の山裾をひろげていた。少し登ると、右方の柵の中の禁足地が窺われたが、下草の茂るにまかせた禁足地の赤松の幹は、午後の日を受けて瑪瑙のようにかがやいていた。

引用部分は登り口から数十メートルほど登ったあたりの記述である。実際、登り口から数十メートルほど登ると、いったん平坦な部分に出る。三輪山からのびる山裾の尾根に相当する部分なのであろう。尾根の右手は三島由紀夫も書いているように「禁足地」である。現在も柵で仕切られて、立ち入りが禁じられている。当該部分は三輪山の突端付近を正確に描写しているといって良かろう。「三光の滝」に到着後、「頂きへのぼる道は、実はここから先が難所なのであった」と記されている部分も同様である。「岩や松の根をたよりに道のない裸の崖を攀じ、少し平坦な経がつづくかと思えば、又さらに、午後の日にあかあかと照らし出された崖が現れた」という箇所は中腹付近の様子を描いた部分である。三島由紀夫が三輪山に登った当時は「道のない裸の崖」だったのであろう。しかし、現在では参拝者の便宜を考えて、急坂などの難所には木による階段が設置されている。「直径一丈たまりの赤松や黒松」「蔦や蔓草にからまれて朽ちかけた松」「入山の信者が何らかの神性を感じて、七五三縄を張りめぐらし、供物をしてある」「崖の半ばに立った一本杉」など、中腹から山頂近くにかけて現れる巨木の多くは、1998年9月22日、近畿地方を直撃した台風7号による強風でその多くがなぎ倒れた。いまでも根こそぎ倒壊した巨木の残骸が登山道の左右に残されたままとなっている。(続く)

三島由紀夫『奔馬』3→こちら
三島由紀夫『奔馬』4→こちら
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2010年07月17日

三島由紀夫『奔馬』1

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三島由紀夫の『奔馬』を読み返した。数日前のことである。『奔馬』をはじめて読んだのは中学3年のとき。確か卒業式を間近に控えた頃ではなかっただろうか。『豊饒の海』の第2巻として、第1巻である『春の雪』の後を受けて読んだのであった。それ以来、一度も読み返してはいない。しかし、それは『奔馬』にだけ限らない。三島由紀夫の小説すべてに対して当てはまる。なぜ読み返さないのか。理由は明瞭である。私が三島由紀夫の良き理解者ではないからだ。社会人になってから読み返したのは『近代能楽集』だけである。『近代能楽集』を読んで思ったのは、三島由紀夫という作家は、劇作家としてはきわめて優秀な人物であるということだった。『近代能楽集』は日本の近代戯曲を代表する名作であると思う。しかし、『奔馬』に限らず、小説はいずれも凡庸である。高級な通俗小説。そういっていいかも知れない。少なくとも私の考えている小説とは対極に位置するような代物である。その思いは現在にいたるまで変わっていない。

『奔馬』を読み返したのにはわけがある。『奔馬』のなかに三輪山(奈良県桜井市)が登場するからである。先日、今年になって三度目の三輪山入山登拝をおこなった。そういったいきさつもあり、一度、三島由紀夫が三輪山をどのように描いているのかを確かめたくなったのである。私が読み返したのは三輪山とそれを御神体として祀る大神神社が登場する「四」と「五」に限られている。それ以外の箇所には目を向けていない。したがって、これから綴ることは『奔馬』全体の物語とは関係がない。作品の価値とも無縁である。さいわい、書架には中学時代に購入した『奔馬』の文庫本が他の作品と一緒に残されていた。昭和52年8月30日発行・昭和61年1月30日17刷の新潮文庫版。「四」と「五」は文庫本の25頁から44頁にかけて収められていた。(続く)

三島由紀夫『奔馬』2→こちら
三島由紀夫『奔馬』3→こちら
三島由紀夫『奔馬』4→こちら
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2010年06月30日

『牛王』第7号。

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『牛王』は熊野大学が刊行している文集である。その最新号である第7号が我が家に送られて来たのは今月中旬のこと。今回、「共同制作としての<熊野>」という題名で短文を綴った。主宰者氏から寄稿を求められたのは4月下旬のこと。確か締め切り直前であったと思う。主宰者氏とはかれこれ十数年来の知人である。一緒に酒を酌み交わし、夜を徹して議論をしたこともあった。懐かしい思い出である。そのあたりのことは短文のなかにも記した。確かに内容は十数年前の過去の出来事を振り返ったものである。しかし、それは決して懐古の情を記したような代物ではない。むしろこれから実現するべきプロジェクトを見据えた決意表明のようなものとなっている。自分自身のこれからを見つめなおすという意味でも貴重な一文であった。
ラベル:熊野
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2010年05月12日

『長谷川四郎』

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『長谷川四郎』(河出書房新社/2009年8月刊)は某氏から頂戴した。文字通り、小説家・長谷川四郎を特集した冊子である。いまではもう長谷川四郎の名もほとんど聞かれなくなった。かくいう私も長谷川四郎の良き読者であったとはいえない。学生時代に『シベリア物語』や『鶴』といった代表作を読んだくらいである。ページをぱらぱらめくると、中野重治や花田清輝、武井昭夫など著名人のエッセイが目に付く。収録されている文章の大半は20世紀に書かれたものの再録であるようだ。今回、あらためて『鶴』を読んでみた。地味な作品である。しかし、なかなか構造的な作品である。特に締め括りのシーンはあざやかであった。
ラベル:長谷川四郎
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2010年05月07日

榊莫山『書百話』

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榊莫山の『書百話』(毎日新聞社/1993年3月刊)は学生時代に頂戴した。当時、先生は私の通う大学に教えに来られていた。懐かしい一冊である。書については何も知らない。しかし、本書をひもとくと、巷にはさまざまな<書>があふれていることがわかる。<書>は博物館のガラスケースのなかに恭しく並べられた巻物や掛軸類にだけ存在するのではない。街中に氾濫する看板や道標、のれんにも認められる。本書を読んで以来、街に氾濫するさまざまな言葉=<書>に興味を持つようになった。そういえば、先日、訪れた東大寺・二月堂にも先生の額が飾られていた。
ラベル:文字
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2010年04月30日

葉山美知子『中世絵巻寝姿ものがたり』

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一般人の平均睡眠時間はおよそ7〜8時間であるという。いわば、1日のうちの3分の1を人は眠って暮らしているわけだ。したがって、睡眠という行為は人にとってもっとも普遍的なものの一つにほかならない。葉山美知子の『中世絵巻寝姿ものがたり』(文芸社/2009年9月刊)は日本の絵巻物に登場する人々の寝姿を紹介・分析した論考である。寝姿に注目したという点はユニークである。しかも、絵巻物に描かれた彼らの寝姿を通して、睡眠という行為に対する人々の認識や様式の変化をたどってゆくのもおもしろい試みである。上流階級のものたちはともかくとして、庶民の多くは、就寝中、敷布団の上に横たわるわけではない。掛け布団をその身にかけるわけでもない。寝巻きに着替えるわけでもない。ただ、ただ、日中の服装のまま、板の間や置畳にごろんとその身を横たえるだけである。『源氏物語絵巻』や『紫式部日記絵詞』のような著名な絵巻物のほかにも『頬焼阿弥陀縁起絵巻』『葉月物語絵巻』『長谷雄草紙』など、あまり知られていない絵巻がたくさん取り挙げられている。なかでも、ケッサクなのは平治の乱を描いた『平治物語絵詞』に登場する雑兵の寝姿である。乱の勃発により、帝が内裏を脱出するという緊迫したシーンである。それにもかかわらず、一人の雑兵が兜を枕がわりにして、暢気に眠り込んでいる。そのほのぼのとした姿がユーモアを誘う。『石山寺縁起』に描かれる肘枕で寝そべる侍女の後姿もおもしろい。
ラベル:絵巻
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2010年04月28日

張暁平『北京往事』

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張暁平の『北京往事』(五洲伝播出版社/2009年5月刊)は先日の北京旅行の折に買い求めた。題名のとおり、北京に暮らす人々の日常生活を撮影した写真集である。張は特に胡同と呼ばれる細い路地に積極的に分け入り、庶民の姿を写している。暇そうに客待ちをしている人力車の男性、物売りの人々、椅子に腰を下ろし、ひなたぼっこをしている老人たち、屋外に机を持ち出して麻雀を楽しむ一団。いずれも庶民の表情を実に活き活きと描き出している。白黒写真であることも古き良き時代の北京を実感させるのに効果的である。今回の旅では前門の東側に広がる胡同を訪れる機会に恵まれた。こういった胡同は北京の旧市街にはいまでも数多く残されている。しかし、同時にその多くは近代化の過程のなかで解体の危機に瀕している。実際、私が目にしたところでも家屋が取り壊され、平地に変貌しつつあるところが幾つかあった。跡地には高層ビルでも建てられるのであろう。次回、北京におもむいたときにはあちらこちらの胡同をゆっくり散策したいものである。『北京往事』をひもときながら、そのようなことを思っている。
ラベル:北京 路地
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2010年02月18日

岡山県の歴史散歩編集委員会編『岡山県の歴史散歩』

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岡山県を訪れる機会が多い。岡山県の歴史散歩編集委員会編『岡山県の歴史散歩』(山川出版社/2009年8月)は岡山県内の名所旧跡を勉強するのに恰好のガイドブックである。今年の正月に岡山を訪れたときに買い求めた。昨年の8月に刊行されたばかりの最新版である。それだけに最新のデータが満載である。ページをパラパラとめくってみるだけでも充分におもしろい。次回、岡山を訪れたときにはどこに行ってみようか。本書をひもときながらあれこれ考えているところである。
ラベル:岡山県
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2009年12月12日

『HAWAIIAN SCULPTURE』

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『HAWAIIAN SCULPTURE』はハワイ滞在中に訪れたビショップミュージアムの売店で購入した。ハワイの彫刻類を写真付きで解説した図録である。ビショップミュージアムでもっとも惹かれたのはハワイ諸島をはじめとするポリネシア地域の彫刻類であった。なかには朝鮮半島のチャンスンを連想させるものまであった。朝鮮半島とポリネシアがどこかでつながっているのではないかと思ったくらいである。そういうこともあって幾つかの図録のなかから本書を買い求めたのであった。ページをめくると奇妙な彫刻が数多く登場する。その姿は怪異そのものであるといって良い。しかし、怪異であるからこそますます魅了される。おそらく魔よけの意味合いがあるのであろう。ハワイの土俗的な側面を知るのに格好の一冊である。
ラベル:ハワイ 彫刻
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2009年09月25日

丸山尚一『生きている仏像たち』

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丸山尚一の『生きている仏像たち』(1970年11月/読売新聞社刊)を購入したのはかれこれ十年ほど前である。当初は全国各地の仏像を紹介したガイドブックとして買い求めた。実際、北は北海道、西は九州まで、その地方を代表するさまざまな仏像が紹介されている。本書ではじめてその名前を知った仏像も多い。しかし、それ以上に瞠目したのは、丸山が各地の仏像をその地の気候風土や文化的土壌を集約的に反映したものとしてとらえているということだった。丸山はそのことを次のように記している。「われわれは、こんな地方仏によく出会うだろう。全身の大きさに比して、頭が大きすぎたり、手や足が大きく作られている、眼や口や耳などが誇張して大形に刻まれている、全形にたいして部分が誇大に感じられる仏像たち、おそらく作者の意識の底にこうした木彫仏を生む造形感覚が潜在的にあったのだろう。ぼくは、こうした地方仏に出会うたびに、その仏から作者の意識と個性とを感ずる。一見、このバランスのくずれたように見える木塊の造形に、時には奇形にさえ見える木彫仏に出会って、われわれは驚く。しかしこれこそ、風土に根ざした素朴な造形力が生んだ地方仏なのである。これが、本当の日本の仏なのである」。確かに奈良や京都の仏像は造形的にも素晴らしい。しかし、それだけが「日本の仏」ではない。それぞれの地域にはそれぞれの地域の特長を反映した仏像がひっそり佇んでいる。そのことを教えられて大いに興奮したものである。以来、仏像に対する見方が大きく変わったことは間違いない。仏像めぐりのバイブルとしていまでも大いに活用している一冊である。
ラベル:仏像
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2009年07月16日

『平城宮跡照映』

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『平城宮跡照映』(1973年4月刊)は平城宮跡の保存に尽力した溝辺文和(1903〜1972)の論考および氏について言及した識者の追想録から成る記念文集である。子どもの頃、溝辺家から頂戴したものである。平城宮跡に関する論考を中心にさまざまな文章が収録されている。私が超昇寺の存在を知ったのも本書に収録された「超昇寺考」や「超昇寺再考」がきっかけであった。追想録では青山茂や池田末則、末永雅雄、坪井清足、永島福太郎、山田熊夫など奈良にゆかりの人々の文章が収録されている。氏が存命であれば、来年、平城宮跡を中心にとりおこなわれる平城遷都1300年祭についてどのような感慨をもよおすだろうか。是非とも訊ねてみたいものである。
ラベル:平城宮跡 超昇寺
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2009年04月30日

暉峻康隆『日本の書簡体小説』

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暉峻康隆の『日本の書簡体小説』(1943年8月、越後屋書店刊)は日本の古典文学における書簡体小説の流れをたどった論考である。リチャードソンの『パミラ』やラクロの『危険な関係』など、西洋の書簡体小説について触れた論考はこれまでにも何度か目にした。書簡体小説が三人称客観小説の成立する以前の文学形式であるという先学の指摘も知っている。しかし、日本の古典にも書簡体小説の系譜が認められるとは思いもよらなかった。私にとっては大きな収穫である。筆者は『堀川院艶書合』を書簡体小説の嚆矢として位置づけている。『堀川院艶書合』については何も知らない。筆者によると、「康和四年、堀川院が当時の宮廷歌人に勅して、男女を左右に分ち、四十八首の艶書を合わはさしめられたものである」という。平安時代後期におこなわれた歌合せの一種のようである。もちろん、これを書簡体小説の典型と見なすことは出来ない。書簡体小説が成立するためには、発信するもの(送り手)と受信するもの(受け手)とのあいだを書簡が行き来するための社会的=物質的な条件が必要不可欠である。事実、ヨーロッパにおいても、郵便制度が整備されてはじめて書簡体小説の成立が可能となるのだ。狭い宮廷内でのやりとりをもって書簡体小説と名付けることにはやはり無理があろう。筆者もそのことは自覚している。筆者は西鶴の『萬の文反古』を書簡体小説の最高峰として位置づけ、その卓越した技量を分析している。西鶴が如何に書簡体という形式に自覚的であったかを教えられた。『萬の文反古』のような作品を踏まえて書簡体小説の衰退した今日の日本文学に思いを馳せると、文学にはまだまだ試みるべき課題や形式がたくさん残っていることに気付かされる。
ラベル:小説 西鶴
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2009年01月14日

細見古香庵『根来の美』

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細見古香庵の『土器に花』(昭和46年5月、浪速社刊)を紹介したのは2008年11月5日の日記だった。今回は『根来の美』(昭和42年2月、浪速社刊)である。題名のとおり、古香庵の所蔵する根来塗りの名品を紹介した一冊である。永万元年(1165)の年記銘文のある「黒円形反華高杯」から元禄のあたりまで製作されたとされる吉野絵根来盆の「葛文様吉野盆」まで計65点が写真と解説付きで紹介されている。経年による結果であろう。それぞれの写真を見ると、器の多くは表面にほどこされた朱漆が剥落し、下地の黒漆がところどころ顔を覗かせている。「永仁六年十月」の年記銘文のある伝・東大寺所蔵「日の丸盆」のように朱と黒とが入り交じって独特の色彩を放っているものも多い。赤と黒とのあざやかなコントラスト。それが実に美しい。自然の剥げは根来が人の手によって繰り返し使われて来たことの証である。当時の人々の息遣いを感じさせてくれる名品の数々である。
ラベル:根来塗
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2008年12月16日

アラン『文学語録』

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アランの著作は学生時代に良く読んだ。いまでもたまにページをめくる。思わず真似をしたくなるような文章である。しかし、実際には決して真似が出来ない。アランにしか書けない魅力的な文章である。片山敏彦訳の『文学語録』(昭和10年11月/創元社刊)を東京の古書店で買い求めたのは大学院生のときである。先日、仕事の関係もあって久し振りにページをめくった。

良い小説とははたしてどんな小説であるかを言ふことは容易でない。これに反してわるい小説はいづれも大体相似たところがある。これらは鋳型にはめて作られたやうなしろものである。人の気に入らう・人をびつくりさせてやらう、とする目的で作がまとめられてゐる。風俗や勤労の場面、挙姿、動作、衣裳、その場の彩りや形、方言と廃語との使用。比喩の陳列的な濫用。無益なまじなひ。何一つ本統に顕現して来ない。これは絵本みたいな世界だ。単なる絵姿では何にもならぬ。

第73章の冒頭の一節である。仕事柄、私も他人の書いた小説を読む機会が多い。私が辟易するのもこの点である。「鋳型にはめて作られたやうなしろもの」の何と多いことか。奇を衒うことでかえって型にはまった陳腐な作品ばかりである。なぜかくも似たり寄ったりなのか。私にはこれらの作者が独創性という言葉を履き違えているように思えて仕方がない。「絵本」は、所詮、物語である。断じて小説ではない。「絵本」=物語と小説とはどこがどのように違うのか。『ドン・キホーテ』がなにゆえに近代小説の祖と呼ばれているのか。カフカやジョイスが物語作家ではなくて小説家なのか。アランのいうとおり、確かに「良い小説とははたしてどんな小説であるかを言ふことは容易でない」。しかし、「良い小説」がどのようなものなのかを知るためにも、差しあたり、物語と小説との違いについて考えをめぐらせてみるのも一計であろう。『文学語録』をひもといて好き勝手な空想をめぐらせる。文学の醍醐味である。
ラベル:小説 文学 アラン
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2008年12月11日

ギャヴィン・メンジーズ『1421―中国が新大陸を発見した年』

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トンデモ本の類なのであろうか。数年前、書店でギャヴィン・メンジーズの『1421―中国が新大陸を発見した年』(2003年12月/ソニーマガジンズ刊)を手にしたとき、咄嗟にそう思った。コロンブスによる新大陸の発見より70年も前に中国の鄭和艦隊がすでに新大陸を発見していた。そればかりではない。海流に乗って世界一周までも成し遂げた可能性すらある。筆者はそう主張している。にわかには信じられない内容である。しかし、読み進めるにつれてぐんぐん引き込まれる。実に痛快な一作である。もちろん、本書で語られている内容に決定打は認められない。あくまでも状況証拠と大胆な推論によって導き出された仮説に過ぎない。しかし、それがきわめて有力な仮説であることだけは認めなければならない。こういった類のトンデモ本は大歓迎である。なお、本書にも記されているように、鄭和艦隊が15世紀の初頭からたびたび大航海に乗り出していること、インド洋を経てアフリカ大陸の東海岸まで到達していることは歴史的な事実であるようだ。アフリカに到達した鄭和艦隊はキリン・サイ・ダチョウなどの珍獣を船に乗せて本国へ持ち帰ったという。メンジーズの仮説はともかくとしてもそれだけでも瞠目すべき事柄である。さらに驚かされるのは、鄭和艦隊が、当時、世界最大の木造船によって構成されていたことである。全長が130メートルにもおよぶその木造船の名は「宝船」。中国の大航海時代を象徴する巨大船である。果たして鄭和の宝船は新大陸に到達したのか。さらに世界一周を成し遂げたのか。今後、筆者がどのような決定的な物的証拠を持ち出して来るのか。大いに楽しみである。
ラベル:鄭和 中国
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2008年12月10日

国立故宮博物院編輯委員会編『金銅佛造像特展図録』

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国立故宮博物院編輯委員会編『金銅佛造像特展図録』(1987年10月/国立故宮博物院刊)は収納物の整理をはじめている「中二階」の奥に眠っていた。B4版サイズの大判写真集である。このような貴重なものが眠っているとは思わなかった。奥付には「中華民国七十六年十月初版」と記されている。中華民国暦で刊行年月が表記されているところが台湾らしい。見返しには「新田集蔵」という大きな落款が押されている。どうやら日本に渡った台湾出身の実業家・新田棟一氏(本名・彭楷棟)のコレクションを図版化したものであるようだ。新田氏の蒐集したインド・ネパール・チベット・東南アジア・中国・韓国・日本の金銅仏がカラー写真で掲載されている。金銅仏以外にも青銅製の小物や鏡、仏画も収録されている。しかし、なかでも眼を見張るのはやはりバラエティに富んだ金銅仏の数々である。木造仏とはまた異なる魅力を放っている。金銅製であるがゆえの煌びやかさや神々しさが当時の人々を魅了したことであろう。私もまた金銅仏の世界に魅せられたものの一人である。いつまでも見飽きない図録である。
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2008年12月02日

司馬遷『史記』

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司馬遷の『史記』は愛読書の一つである。大学生のとき、武田泰淳の『司馬遷―史記の世界』を読んだ。そのことがきっかけで生まれてはじめて『史記』をひもといた。それ以来、繰り返し読んでいる。これほどおもしろい歴史書はそうあるものではない。写真の『史記』(岳麓書社出版/2001年2月)は中国・西安の書店で買い求めた。もちろん、日本語訳ではない。しかし、相手は漢文である。ゆっくり読み進めるとおおよその意味内容はつかめる。日本語訳にはない迫力が各所に漲っている。例えば、始皇帝の死について触れた一節では、巡遊の最中に歿した始皇帝の腐敗臭をまぎらわすため、次のような措置がほどこされたと記されている。「載一石鮑魚、以乱其臭」。すなわち、始皇帝の遺体を運ぶ車に一石もの塩漬けの魚を乗せて、皇帝の遺体が放つ腐敗臭をまぎらわせたという。「載一石鮑魚、以乱其臭」。これが数百年も続いた春秋戦国時代を終わらせ、中国全土をはじめて統一した絶対君主の末路である。「臭」という一字が強烈なインパクトを放っている。そのことにわれわれは眼を向けなければならない。あらゆる権力を掌握した始皇帝といえどもみずからの死からは逃れられない。そして、ひとたび命を失えば、万人と同様、その遺体からは強烈な「臭」が発散される。そして、その絶対君主の死は車に詰め込まれた「一石鮑魚」の「臭」によって徹底的に相対化されているのである。何と冷徹な認識であることだろう!何と痛烈なリアリズムであることだろうか!歴史家としての司馬遷の眼がきらりと光る一文である。同様の眼はいたるところに息づいている。「太史公曰」以下の批評文だけに司馬遷の眼が光っているのではない。『史記』におさめられたあらゆる文章が司馬遷の壮大な批評=現実批判として成り立っているのである。私にとってはかけがえのない一冊である。
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2008年11月05日

細見古香庵『土器に花』

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細見古香庵は日本古美術の蒐集家として名を馳せた実業家である。収集した美術品は、現在、京都・岡崎にある細見美術館に展示・収蔵されている。家人の仏師がかつて古香庵所蔵の仏像彫刻を何体か修繕した。そのせいだろう。生前、我が家とは仕事の上で付き合いがあったようである。そのことは古香庵から頂戴した謹呈本が数多く残されていることからもうかがえる。『土器に花』(昭和46年5月、浪速社刊)はそのうちの一冊である。奥付にナンバーが振られている。限定2500部の第239号。タイトルのとおり、古香庵所蔵の土器や須恵器に和田翁甫が挿花をした百点以上の写真から成り立っている。縄文式土器に老松や紅椿、柘榴や白百合を挿している。弥生式土器にアンスリュームやフリージャを挿したものもある。須恵器に枳殻の枯枝を挿し、そこに烏の枕を3つ絡めた一枚は特に魅力的である。土器特有の土色と草花の鮮やかな緑や赤、黄色とが絶妙なコントラストを作っている。我が家にも幾つかの弥生式土器や須恵器がある。『土器に花』を参考にしながら、今度、それらを床の間にでも飾ってみようかと思っている。
ラベル:土器
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2008年10月29日

長尾五一『医薬と神仏』

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長尾五一の『病気と縁起』を紹介したのは10月17日の日記だった。それからふたたび「中二階」に潜り込んだ。そして、新たに『医薬と神仏』(昭和43年3月、長生会刊)を見つけた。『医薬と神仏』は「医薬」=真と「神仏」=信との関わりをさぐった論考である。「医薬の神々」「医薬の仏達」「新興宗教と医療」「医療に関する迷信・行事」「東洋の医神・医聖」「わが国の漢方医聖たち」「外国の医神・医聖たち」「洋方伝来の使徒たち」「洋医開拓の先駆者たち」「近代日本医学の先覚者たち」の計10章から成り立っている。「医薬の神々」では、人々が延寿長命を祈願に詣でる滋賀県の多賀大社や祇園御霊会を起源に持つ京都・八坂神社、我が国の神農・黄帝格の神々である大国主命と少彦名命を祀った奈良・大神神社や京都・鞍馬の由岐神社、各地の御霊神社、「デンボの神さま」として知られる大阪の石切神社、道修町の神農さんなどが紹介されている。「東洋の医神・医聖」ではおもに中国の「医神」「医聖」が紹介されている。東洋医学の歴史に詳しくない私のような門外漢でも耆婆・扁鵲・華陀といった名医の名前くらいは知っている。しかし、後漢の張仲継や隋の巣元方、明の李時珍といった人々については名前すらも知らなかった。それだけに大いに参考になった。参考になったといえば、同じ東洋医学でも古くより外科の発達したインドと「死者に対しては尊敬と恐怖の念を抱き、屍体の保存については慎重な手段を講じた」ために「解剖が発達せず、人体を哲学的観念的に観た」中国医学とを比較している点も同様である。長尾五一は次のように記している。

中国医学の欠陥は解剖学が殆ど無視された点にある。針灸を施すための人体表面における測定や骨の起伏を詳しく説くが、内部の構造では膵の存在を認めず、五臓は肝、心、脾、肺、腎とし、六腑では胃、小腸、大腸、胆、膀胱のほかに三焦(上焦は心と胃の間、中焦は胃の中、下焦は膀胱の上にあって排泄を司るという)を加えている。また腎臓の働きを誤解しており、そこで尿が出来ることは欧州の医学が伝わるまで知られなかった。神経、血管についての詳細な記述もなく、経路という想像的なものが入っている。

長尾五一によると、中国に西洋医学が本格的に入って来るのは清の時代になってからであるという。康熙帝はフランス人宣教師にフランス語の解剖書を満州語に翻訳させた。その成立時期は1720年頃のこと。しかし、ここでも中国は遅れをとってしまったようだ。そのことは次の一節からうかがえる。

これを漢文に訳し、出版する考えをやめ、三部だけ清書させ、自分の手元、宮中の書庫、熱河の離宮に保存した。特別の研究者には書庫で読むことを許したが、持出しや転写を禁じた。折角の飜訳も医学の革新を起こすことなく、皇帝ひとりの好学心を満足させるに止まったことは惜しまれる。結局中国に西洋の解剖書が入るのは、十九世紀の半ば頃で、マカオ医院の長であった英人ホプソンが一八五一年全体新論を出した以後である。

一方、誰もが良く知っているように、日本では杉田玄白たちが『解体新書』の翻訳を手がけた。その刊行は1774年のこと。『解体新書』の刊行が、明治以降、日本で西洋医学が急速に広まる原動力となったことは明らかであろう。長尾五一は「中国人には中華思想が根底にあるので、政治家の中には世界の趨勢と妥協しないところがあるように思われる。逆に日本人には外国崇拝の心があり、外国文化を取り入れることは急であるが、自ら創造する気概が乏しかったように見受けられる」と結んでいる。こういった点にも日本と中国とのお国柄が出ている。そのことを知ったのも収穫だった。『医薬と神仏』では他にも日本や西洋の名医が数多く紹介されている。そのほとんどがはじめて耳にする人物である。医学の歴史を知る上で格好の一冊である。
ラベル:神仏 医学
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2008年10月17日

長尾五一『病気と縁起』

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長尾五一は東大寺の名僧・清水公照の実兄である。実弟は仏の道に進んだ。それに対して、長尾五一は医師としての道を選んだ。陸軍の軍医として中国大陸へ何度も出掛けたという。戦後は奈良の油阪で小さな病院を開業していた。いまでも建物が大宮通り沿いに残されている。我が家の主治医だったせいだろう。私や実家のものはいまでも親しみをこめて「長尾さん」と呼んでいる。子どものころは良くお世話になったものだ。『病気と縁起』(昭和45年11月、あしや書房刊)は「中二階」から出て来た。「中二階」のことは10月10日の日記に記したとおりである。他にも『東と西』『遠くて近き』と題された歌集2冊も見つかった。「長尾さん」が仏教美術に造詣が深いことは知っていた。それに類する書籍を出版していることも知っていた。しかし、歌集まで刊行しているとは知らなかった。『病気と縁起』は「長尾さん」の専門である医学と俗信・俗説、呪術、宗教、陰陽道、卜占術、暦法、祈祷といった類との関係を綴った論考である。その啓蒙的な内容もさることながら、「長尾さん」の文章そのものが魅力的である。例えば、「麻疹は子供の大厄」という項目は次のように解説されている。

恋愛とともに一生に一度はかかるという麻疹に、愛児が罹ると、親たちは大騒ぎする。風にあてるな、間温め、ネンネコぐるみと暑い時でも発汗療法を行うので、幼児は苦しんでいる。肺炎や中耳炎などの合併症を予防すれば無事経過するので、今日ではさほど恐れる必要はない。またワクチンも完成しつつあるので、恋愛の自由な時世となり、麻疹が姿を消す日も遠くあるまい。

ほかにも「夏やせ寒ぼそり」では「年中痩せていて一向に太らぬこと、骨皮筋衛門、カマキリ、ソッポに対し、今やアンコ、デブ、グラマー、ビール樽、肥満児が増えてきた」と記されている。「臍まがり、つむじまがり」では「意地悪の意味。臍の曲っている時は腫瘍、腹膜の癒着を考えねばならぬから、腹中をよく探らねばならぬ」と記されている。「馬鹿につける薬なし」にいたっては「現在でも良薬なし」である。こういったユーモア精神は「長尾さん」の真骨頂である。子どもの頃、診察してくれたときの飄々とした言動がよみがえって来た。「長尾さん」が鬼籍に入ってもう何年が経つのだろう。我が家にとっては懐かしい人の一人である。
ラベル:東大寺 医師 縁起
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2008年10月10日

「週刊時事」編集部編『人と勲章』

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実家に「中二階」と呼ばれる十数畳分の細長い空間がある。1階の屋根裏に当たる空間である。しかし、1階からは階段でつながっていない。2階から下に降りるという形で連結している。1階と2階のあいだに位置している。そのために「中二階」と呼ばれている。「中二階」はおもに物置として使われている。いまでは使われなくなった日用雑貨や封すら開けていない贈答品、骨董、古道具などが積み重ねられている。子どもの頃はかくれんぼのための格好の隠れ場所だった。実家に遊びに来た同級生たちとしばしば「中二階」にもぐり込んだものである。来年、家屋の一部をリフォームする。その一環として「中二階」にも少し手を加える予定である。したがって、リフォームがはじまるまでに「中二階」に収納された物品を整理しなければならない。必要なものは残す。不要なものは廃棄する。現在、家人はその選別作業に追われている。私も実家に帰った折にはときどき作業に加わる。先日は古伊万里の蕎麦猪口を見つけた。唐招提寺・金堂の国宝・千手観音菩薩立像を撮影した畳一畳分ほどもある大判の写真パネルも発見した。骨董や古道具の発見はまだまだ続きそうである。

書籍類では「週刊時事」編集部編『人と勲章』(昭和44年4月、時事通信社刊)の発見に興奮した。さまざまな職業に従事する職人たちに取材をしたインタビュー集である。もちろん、インタビュー集そのものは有り触れている。特に貴重であるとはいえない。しかし、『人と勲章』は私にとってはかけがえのない一冊である。その理由は『人と勲章』が我が家の祖に当たる乾口与蔵のインタビューを収録しているからであった。家人のなかには『人と勲章』の存在を知っているものはいなかった。与蔵が「週刊時事」のインタビューを受けたことを記憶しているものもいなかった。タイトルは「製墨五十八年」。「奈良墨は千二百年の歴史に生きる古都奈良の伝統産業。その墨づくりに五十八年間打ち込み、昭和四十二年秋、勲七等に浴した人――それが日本製墨合資会社製造部職長で奈良市法蓮町に住む乾口与蔵氏(七二)である」という一節から書きはじめられている。与蔵は室町時代から続く奈良の名産品の一つ・奈良墨の職人だった。小学3年だったか。4年生のときだっただろうか。社会見学で墨工場を訪れた。見学先は与蔵の勤務していた日本製墨合資会社である。与蔵は見学の数年前に他界していた。しかし、与蔵の弟子が作業長屋で何人も働いていた。私とは顔見知りの職人もいた。しっかり勉強しているか。そう声を掛けられたことを憶えている。職人たちは胡坐をかいて真っ黒な墨をこねたり、丸めたりする作業を繰り返していた。単調な作業の連続である。しかし、墨作りの現場においてはその単調な作業にこそ熟練の技が求められる。今回、そのことをはじめて知った。『人と勲章』には次のように記されている。

墨の原料は種油または松ヤニを燃やしたスス。種油は専門家向けの上質もの用で、ほとんどの墨は松ヤニをつかう。作業は、ススにニカワをまぜて固まらせることからはじまる。/このまぜかたが職人の腕のみせどころ。いまは機械化が進んで、かくはん機が使われているが、最近までは手と足をつかっての重労働だった。よく練りあわせた墨のダンゴを型につめこむと、できあがり。一見、単純な作業に見えるが「五本の指で型に押し込むのですが、指の力のバランスがくずれると、内部に筋がはいってしまうし、できあがってからの形が、いびつになります」と乾口さんは説明する。/墨で黒光りした座ぶとんに、ずっとすわったままの労働である。五十年以上も座業の連続では、腰に異常をきたしはしないかと心配すると、乾口さんは「冗談じゃない。この年までカゼで寝込んだことが一度あるだけで、腰痛なんぞは考えたこともない」と、言下に打ち消す。

与蔵が見習い工として入ったのは明治43年のこと。当時は午前3時起床、4時から仕事に取り掛かったという。「雑役のような仕事をつづけること六年、やっと墨型を手にすることができた」という一節からは墨職人としての厳しさと誇りが伝わって来る。昭和十年頃の賃金は上物師が七円五十銭、安物師でも三円五十銭。「上物師は大工の三倍が通り相場だった」そうである。興味深いのは「大工さんの三倍もらっていた昭和十年、市内の全職人が親方衆に賃上げを要求して、あるお寺に一週間ほどろう城、ストライキをやったことがあります」という証言である。親方には絶対服従の徒弟制度のもとでストライキを起こすとは何とも勇ましい。「このように乾口さんは製墨業界の労働運動の先駆者であり、戦後結成された奈良県製墨労働組合の発足にも、ひと役買っている。現在、この社会に退職金制度や共済制度ができたのは、乾口さんの働きによるところが少なくない」。与蔵にこういう歴史があったことは知らなかった。晩年の与蔵しか知らない私には意外であった。人に歴史あり。その言葉をあらためて思い起こした。文中には与蔵の写真が掲載されている。真正面を見ず、右斜め前方に眼を向けている。禿頭姿が印象的である。写真は私の生まれる前のものである。しかし、その姿は私の知る与蔵そのものだった。
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2008年09月23日

惠煥章等編『陝西名人墓』

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2006年の秋、中国を旅した。惠煥章等編『陝西名人墓』(2000年10月/陝西旅游出版社刊)は西安咸陽国際空港の売店で買い求めた。『陝西名人墓』は陝西省に点在する有名人の墳墓を紹介したガイドブックである。陝西省の歴史は古い。何しろ咸陽や長安などの都が置かれた地域である。歴史上の有名人の墳墓が数多く存在するのも当然であろう。日本人にも馴染みのある有名人の墳墓も眼につく。西安地区には三蔵法師の名で知られる玄奘の墓がある。咸陽地区では劉邦をはじめとする漢代の皇帝陵や楚漢戦争で名を馳せた周勃・張良・蕭何・曹参・王陵などの墓が点在している。楊貴妃の墓もある。珍しいところでは王莽の妻子や西安事件の首謀者の一人であった楊虎城の墓も見つかる。渭南地区では司馬遷、漢中地区では諸葛亮の墓がそれぞれ見つかる。本書のトップバッターを飾るのは女女咼(「女咼」で一字)である。陝西省ゆかりの有名人はあまた存在する。しかし、さすがにトップバッターが女女咼であることには驚かされる。女女咼は人面蛇身の伝説上の女神なのである。人面蛇身の女神の墳墓から書きはじめるとはさすがに中国である。4千年の歴史を誇る中国。奥が深い。
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2008年09月03日

堺市教育委員会編『堺の文化財』

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堺を訪れたのは8月21日だった。シュンとともに大仙陵古墳や堺市博物館をめぐった。そのときのことは8月21日の日記に記した。『堺の文化財』(改訂版/平成8年3月/堺市教育委員会刊)は堺市博物館で購入した。平成7年11月1日現在、旧堺市内に所在する国・大阪府および堺市指定の文化財79点を紹介した文化財ガイドブックである。ページをめくる。堺とは縁があるせいだろう。一度ならず自分の眼で見たことのある文化財が眼につく。建造物では国宝の桜井神社拝殿や重要文化財の法道寺食堂・多宝塔、多治速比売神社本殿、南宗寺仏殿・山門・唐門、旧浄土九重塔を見学した。丸保山古墳をはじめとする百舌鳥古墳群、奈良の頭塔と並んで知られる土塔、洋式木造灯台である旧堺灯台などの史跡も訪れた。彫刻では堺市所蔵の重要文化財・観音菩薩立像を拝見している。家原寺所蔵の『行基菩薩行状絵伝』(国重文)も奈良国立博物館で眼にしたような記憶がある。その他にもまだあるかも知れない。堺市が大阪市に次いで政令指定都市に格上げされたのは2006年4月である。政令指定都市・堺市の誕生により、市内に点在する文化財はさらに増えたのではなかろうか。またいつかゆっくり散策したいものである。
ラベル:文化財
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2008年07月11日

フィリップ・ロス『乳房になった男』

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フィリップ・ロスの『乳房になった男』(1974年2月/集英社刊)を購入した。大阪市内のとある古書店で見つけた。書架の片隅で埃をかぶっていた。懐かしい本である。学生時代の親友Yがロスの愛読者だった。Yに勧められて幾つかの小説を読んだ。そのなかに『乳房になった男』もあった。主人公は38歳のデイヴィッド・アラン・ケペシュ。ケペシュは比較文学科でゴーゴリやカフカ、スウィフトについて講義をしている大学教師である。物語はケペシュが下半身に異常をおぼえるところからはじまる。下半身の異常は急速に進行。ケペシュはまたたく間に一個の巨大な乳房に変身する。「一九七一年二月十八日午前零時から午前四時までの間」の出来事だった。

医者たちの話では、ぼくはいま全体としてはフットボールのような、飛行船のような形をした一個の有機体であると言う。体重は百五十ポンドで(もとは百六十二ポンドあったのだ)、体長は六フィートのままのスポンジまがいの密度のものになっているらしい。心臓血管組織や中枢神経組織は大部分が《異様》な形状に変形しながらもまだ残っているらしいが、それに排泄組織も《変形して原始化》しながら――ぼくはいまチューブで排泄しているのだ――また呼吸組織も体の中央部のちょっとうえにふたのついた臍状のものになって残っているらしいが、こうした人間的特徴の名残りを包みこんでいる組織の基本構造は、哺乳動物の雌の乳房のそれであるというのだ。(大津栄一郎訳)

「ホルモンの大量流入」「内分泌の病的大変動」「染色体の雌雄同体的破裂」。ロスはケペシュが乳房に変身した原因としてこれらを挙げている。しかし、さまざまな原因が挙げられるということは逆にその原因がはっきりしないことを指し示している。ゴーゴリの『鼻』は、朝、主人公のイワン・ヤーコウレヴィッチが目をさます場面から書きはじめられている。イワン・ヤーコウレヴィッチは自分の鼻が失われていることに驚く。しかし、イワン・ヤーコウレヴィッチの鼻がなぜ消え失せてしまったのか、ゴーゴリはその原因について一言も触れていない。カフカの『変身』もまたグレゴール・ザムザが目をさますところから書きはじめられている。グレゴール・ザムザは自分が「巨大な虫」に変身していることに気付く。しかし、グレゴール・ザムザがなぜ「巨大な虫」に変身してしまったのか、カフカもやはりその原因を書き記していない。『乳房になった男』も同じパターンを踏襲している。平凡な大学教師ケペシュがなぜ乳房に変身してしまったのか。その原因は最後まで明らかにされない。原因の探究は小説の主要なテーマとしては位置づけられていないのである。
滑稽なのはまわりの人々がケペシュの不可解な変身を意外に冷静に受け止めていることである。例えば、医師団が「異常な現象」と見なすのは、ケペシュが乳房に変身してしまったことではない。彼らの関心は変身前のケペシュの乳頭の色が「はっきりとしたブルーネット」であったにもかかわらず、変身後の乳頭の色が「ばら色がかったピンク色」に変化しているという一点に絞られている。ケペシュは「ぼくのこの変わりようの途方もなさに比べれば、それがとくに《異常》であるとはとても思われませんねとはっきりと言ってや」る。ケペシュにとっては「痛烈なウイットのつもりだった」。しかし、その「痛烈なウイット」もケペシュが単に「この新しい状況に、ある《適応》を示しかかっている証拠として受け取られた」に過ぎない。
父親もまたケペシュの思いを汲んではくれない。ケペシュは見舞いに訪れた父親に向かって「子供のようにぺらぺらしゃべりながら、カフカの傑作の主人公のグレゴール・ザムザがある朝目を覚まして自分が巨大な甲虫に変っているのを発見する話」や「ゴーゴリの主人公がある朝目を覚ましてみると鼻がなくなっていて、それを探しにペテルブルグじゅうを歩きまわり、返してくれと頼む広告を新聞に出し、『それ』が街を歩いているのを見かけ、そして最後にはなくなったときと同じようにわけも分らぬままふたたび顔に戻っているのを発見する話」を語り聞かせる。カフカの『変身』やゴーゴリの『鼻』を引き合いに出して熱弁をふるう乳房=ケペシュに対する父親の反応は次のようなものであった。「お前は大学でそんなくだらぬことを教えているのか?」。
ケペシュは絶望の果てにみずからが狂気におちいったと思い込む。自分は大学でカフカやゴーゴリについて教えて来た。その結果、気が触れてしまった。乳房に変身するという話はカフカやゴーゴリを教えて来たみずからの頭によって作り出された妄想に過ぎない。ケペシュはドクター・クリンガーにそのように告げる。それによってみずからの「異常な現象」から逃避しようと試みる。巨大な乳房よりも「精神病の患者」になってしまいたい。その方がよほどましである、と。ケペシュの解釈は何と歪んでいることだろう。何と奇妙な論理であることだろうか。しかし、ドクター・クリンガーの答えは冷静そのものだった。「君は気が狂っているんじゃない、君は幻想にとりつかれてるんでもないし、いままでもとりつかれたことはない。君の言う《精神分裂症的崩壊》にかかったこともないんだ。君は一箇の乳房なんだ、ある種の」。ケペシュはもはや「精神病の患者」にすらなれない。狂気におちいることすら許されない。「ドクター、ぼくたちの名前がみんな、あなたのも、ぼくのも、カフカのも、みんなKで始まっているのに気づいたことがありますか?それにまたクレアも――それにミス・クラークも」という一文からはケペシュがまさしく「K」=カフカの世界(フィクション)を現実に生きはじめようとしていることが読み取れる。物語が「お前は自分の生活を変えねばならないのだ」というリルケの詩句の引用によって締め括られる所以である。
われわれは本作からロスのどのようなメッセージを読み取るべきであろうか。そのヒントはケペシュの吐き出した次の言葉のなかに隠されている。「つまり、ぼくはけっきょくどこまでも一箇の冗談で終るというんですか?」。然りである。すべての物語が書き尽くされた現代においてなお「文学」があり得るとすれば、それはわれわれがカフカやゴーゴリの世界を現実に生きるところにしかない。虚構と現実との境界が取り払われてしまった現代社会において、身をもって『変身』や『鼻』の世界を生きること。「一箇の冗談」として生き続けること。その点にこそ現代文学に残された唯一の可能性がある。ロスはわれわれにそう訴えかけているかのようである。ロスの文学観=人生観が集約した一文である。そして、私のもっとも好きな一文でもある。ところで、ケペシュが乳房に変身した「一九七一年二月十八日午前零時から午前四時までの間」という日付には何か意味があるのだろうか。あるいはこれもまた「一箇の冗談」に過ぎないのであろうか。
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2008年07月04日

雷北景編『漢武帝茂陵』

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2006年の秋、中国を旅した。上海を経由して西安を訪れた。西安市内では玄奘ゆかりの大雁塔や鼓楼、鐘楼、街の四方をぐるりと取り巻く明代の城壁などを見学した。西安碑林博物館や陝西歴史博物館も訪れた。某出版社に勤務するA氏のアドバイスによるものだった。夜は餃子や火鍋を堪能した。郊外ではおもに王陵墳墓をめぐった。前漢の最盛期を築いた武帝・劉徹の茂陵やお馴染みの兵馬俑・始皇帝陵を訪れた。中国史上唯一の女帝・則天武后とその夫・高宗を合葬した乾陵、彼らの子息である章懐太子を埋葬した章懐太子墓や孫娘・永泰公主を埋葬した永泰公主墓などにも参った。次回、西安を訪問する機会があれば、漢の高祖・劉邦やその妻・呂后、呂后によって悲劇的な末路をたどった「人豚」=戚夫人、それに楚漢戦争の元勲たちの王陵墳墓に足を運びたいと思っている。雷北景編『漢武帝茂陵』(2004年2月、茂陵博物館刊)は茂陵博物館で購入した。茂陵博物館は武帝の重臣・霍去病の墳墓内に建てられていた。茂陵周辺から出土した瓦当の拓本数枚と一緒に購入したように思う。総頁数は149枚。茂陵およびその周辺に点在する武帝の夫人や重臣たちの墳墓について詳しく解説されている。茂陵を訪れるもっとも多い外国人は日本人なのであろうか。日本語で記された解説文も部分的に収録されている。「茂陵についてのご案内」と題された項目は「皆さん、こんにちは。皆様が茂陵にいらっしゃるのを心から歓迎いたします。ただいま、皆様に茂陵の様子を簡単にご紹介させていただきます。まず『五陵原』です」という一節から書き起こされている。最後は「茂陵のご案内はこれで終わります。では、皆様、茂陵を見学致しましょう」という一文で締め括られている。ほかにも「馬上将軍霍去病」と「美を極める李夫人」という2項目が日本語で綴られている。誤字脱字が若干見られる。しかし、読解に大きな支障はない。『漢武帝茂陵』を手にしてまずは霍去病の墳墓に登った。墳丘の頂上まで石段がもうけられている。石段のせいで登りやすかった。頂上からは茂陵の勇姿をのぞむことが出来た。一方、茂陵には石段はもうけられていなかった。良く踏みならされた小道が頂上までのびていた。こちらは霍去病墓よりもはるかに急峻だった。途中ですべり落ちそうになったほどである。頂上からの眺めは霍去病墓の比ではなかった。霍去病墓や李夫人墓が眼下にのぞまれた。地平線のはるか彼方には別の皇帝陵やその重臣たちの墳墓が点在していた。秦漢の王陵墳墓は頂上が平らになった方錐形をしている。大平原に大小さまざまな方錐形の小山が点在する光景はさながら中国版ピラミッド群である。頂上の一角に腰を下ろした。『漢武帝茂陵』のページをめくった。『漢武帝茂陵』に記されている茂陵の頂上にいま自分は腰を下ろしている。その当たり前のことがなぜか不思議に思えた。観光客が持ち込んだのであろうか。あたりには無数のゴミが散乱していた。
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2008年06月25日

山田熊夫『奈良町風土記』

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奈良市内をしばしば散策する。東大寺や奈良公園のような誰もが良く知る神社仏閣や名所旧跡も散策する。その一方、一般には知られていない神社仏閣や名所旧跡を訪れることも多い。奈良には隠れた神社仏閣や名所旧跡が数多く存在している。山田熊夫の『奈良町風土記』(豊住書店刊)はそういった神社仏閣・名所旧跡を知る上で貴重な参考書である。昭和51年10月に刊行された正編では、現在の奈良町界隈の歴史や風土が紹介されている。昭和54年4月に刊行された続編では、奈良町以外の市内各町村が紹介されている。続々編の刊行は昭和63年7月であるという。私は続々編を所持していない。したがって、続々編がどのような内容であるのかわからない。しかし、これまでに続々編を所持していないことで困ったことは一度もない。奈良の隠れた魅力を知る上で欠かすことの出来ない一作である。
ラベル:奈良
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2008年06月24日

ゴンチャロフ『日本渡航記』2

『日本渡航記』については6月18日の日記に記した。前回は会見に当たって、日ロ双方が「坐るか坐らぬか、立つか立たぬかの問題を、それから何の上にどんな風に腰を下ろすかといふやうな問題を、幾日も幾日も議論した」ことを紹介した。議論の結果、ロシア側は椅子に、日本側は畳の上に正座してそれぞれ会見にのぞんだという。そのことも記した。しかし、ロシア側を呆れさせたのは何も「坐るか坐らぬか、立つか立たぬか」「何の上にどんな風に腰を下ろすかといふやうな問題」だけに限らない。会見の当日、「中食の饗応」を受けるか、受けぬかでも彼らはさんざん議論したのである。ゴンチャロフは次のように記している。

『さても一つ』と彼等は頼んだ。『御奉行は皆様に中食の饗応を致したい思召しで、御受け願ひたいとのことです』
『よろこんでお受け致します』と提督は返事を命ぜられた。
『要談が終つたら』と吉兵衛は続けた。『御奉行は自室に引取つて休息致されるので、そちらでも別室に引取つて御休息願ひたい』と彼は椅子の上で身をゆすぶつて、ひきつるやうに笑ひながら、附け加へた。
『その上で……中食を召上つて戴きたい』『こちらだけですか』とこちらは訊ねた。『あなたは気でも狂つたのではありませんか。ヨーロッパではそんなことはしませんよ』
『ところが日本では甚だよくやつてゐることで』と彼等は云つた。『手前共はいつも左様に……』
だがこれは嘘らしい。彼等は提督の真似をしたかつたのだ。初めて日本人が艦に艇に来た時、提督は御検使達に食事を出し、私達に相伴させて、自分は出席されなかつたのだ。
おゝそれは大変な頼み方であり、拝みやうであつた。吉兵衛はせかせかと身をくねらして、両の頬に汗を流してゐた。龍太はぺこぺこと頭を下げて、見苦しい笑ひ方をした。あの厳格さうな定五郎まで、作り笑ひしてゐた。だが私達は屈しなかつた。通詞達は悲観して終つた。彼等は溜息をついて、別の問題に移るのであつた。(井上満訳)

その日の夕刻、彼らはふたたび艦艇に乗り込んで来る。「一体何度目だい、何しに来るのだらう」「やつぱり儀式のことだよ」というやりとりからは、日本側の執拗な要請に対していい加減うんざりしているロシア側の様子が良くうかがえよう。案の定、彼らの来訪は「儀式」に関わることだった。「中食の饗応」を是非とも受けて欲しい。彼らはまたもや同じことを懇願する。「『ロシアではそんな訳には行きません』と答へてやつた。で又拝み倒しが始まつた」。さらに「翌八日、又やつて来て、例の如く、中食の饗応を受けてくれとか、日本の艀で来てくれとか拝み倒そうとやつて見たが、物にならなかつた」。そればかりではない。彼らの「拝み倒し」は会見の当日にも繰り返されたのである。

例の休憩室を通る時、通詞達が私達を呼びとめた。彼等は行手をふさいで、食事をして行つてくれと云つた。その室には大きな卓をしつらへて、大小様々の皿や瓶や、マデラや、ボルドー酒なぞ、万端の支度が出来てゐた。しかも万事がヨーロッパ式であつた。きつと卓も、食器も、酒も、そして食物までも、オランダ人から借りて来たのだらう。提督は例の絶対条件、つまり奉行が食事に列席するといふ条件を繰返すやうに命ぜられた。吉兵衛はお辞儀をしたり、両手を広げたり、引きつるやうな笑ひ声を立てたりして、だんだん食卓の方に近づいて、躍起となつて私達を招じ入れるのであつた。他の者も吉兵衛におくれじと、笑つたり、膝を曲げたりしたが、何にもならなかつた。私達は食卓をちらと見やつたが、通詞達のいふことに耳をかさずに、断乎として通りすぎた。

何と涙ぐましい努力であろうか。何と滑稽な振る舞いであることか!苦いユーモアがただようエピソードである。さながらゴーゴリやドストエフスキーの小説を読んでいるかのようだ。さすがは『オブローモフ』の作者である。『オブローモフ』の作者・ゴンチャロフの真骨頂である。それで思い出したことがある。時代は一気に百五十年後の現代に飛ぶ。やはり外交にまつわるエピソードである。「中食の饗応」をめぐる議論はいわゆる“小泉訪朝”のときにも繰り返された。そのことを思い出した。1回目の“小泉訪朝”は2002年9月17日のこと。当日、会談にのぞんだ日本側はおにぎりと味噌汁を持参した。そして、北朝鮮側の要請した「中食の饗応」を辞退した。2004年5月22日におこなわれた2回目の“小泉訪朝”のときもやはり「中食の饗応」を辞退している。「中食の饗応」を辞退したことについて、日本国内でどのような反応があったのか。はっきりした記憶はない。辞退を支持する意見もあったことだろう。その一方、首脳会談らしからぬやり方を批判する意見も多かったに違いない。もちろん、辞退を支持するか、支持しないか、そんなことはどちらでも構わない。北朝鮮側からの「中食の饗応」を辞退した日本が、百五十年前の日ロ交渉の席上、ロシア側に対して執拗に「中食の饗応」を要求していた。その事実を書き残しておきたいだけである。記録とは恐ろしいものだ。日本人がかつて外交交渉の現場においてどのように振る舞ったのか、それが如何に苦いユーモアをただよわせる言動であったのかをあぶり出してしまうのであるから。かつてマルクスはこういった。歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。『日本渡航記』を読んであらためてマルクスの言葉を思い起こした。
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2008年06月18日

ゴンチャロフ『日本渡航記』1

ゴンチャロフはロシアの作家である。ゴンチャロフといえば、誰もがその代表作として『オブローモフ』を思い浮かべるだろう。『オブローモフ』は大学生のときに読んだ。オブローモフのような人生を送りたい。当時は夢のようなことを思っていたものである。今回、必要に迫られて読み返したのは『オブローモフ』ではない。『日本渡航記』(岩波文庫/1941年11月/岩波書店刊)である。『オブローモフ』の作者は幕末の日本にやって来ていた。その事実を知るものは決して多くはないはずだ。ゴンチャロフが日本に開国要求を突きつけるプチャーチンの秘書官として日本にやって来たのは1853年。アメリカのペリー艦隊より遅れること1月半のことだった。プチャーチン艦隊は、7月、長崎に来航。年末にはふたたび来航し、幕府から派遣された筒井政憲・川路聖謨らと交渉を重ねる。『日本渡航記』では、交渉の具体的なやりとりはほとんど記されていない。代わりにゴンチャロフが日本滞在中に遭遇した出来事や所感がユーモアたっぷりに綴られている。開国要求に対する返答がなかなか届かない状況に「役人達は奉行に聞かねばならぬといひ、奉行は江戸の将軍に伺ひ、将軍はミヤコの天子ミカドに奏聞するといふ。いつになつたら返答が来るか、宜しく御想像を願ふ次第だ!」(井上満訳)と憤慨する一節などはカフカの世界を連想させておもしろい。ロシア人にとって遅々として進まない日本側との交渉はカフカ的な不条理そのものであったに違いない。不条理といえば、次のエピソードも興味深い。

九月の五、六、七日には毎日御検使がやつて来て、我々の訪問の儀式について打合せを行つた。こんな時諸君はヨーロッパでなら、行くか行かぬかといふことを交渉されるだらうが、ここでは我々は坐るか坐らぬか、立つか立たぬかの問題を、それから何の上にどんな風に腰を下ろすかといふやうな問題を、幾日も幾日も議論したのである。日本人達は、日本流に畳の上に足を曲げて坐ることを提議した。両膝を折つて、それから踵の上に尻を下ろす――これが日本式の坐り方である。やつて見たら、どんなに工合がよいかすぐ判る。とても五分ともてるものではない。ところが日本人は何時間でもさうして坐つてゐるのだ。私達はそんな風には坐れないが、奉行さんは我々の流儀で、安楽椅子におかけになつては如何です、と云つてやつた。だが日本人も我国流に腰をかけることは出来ないのだ。こんなやさしいことはないのに、慣れないために足が痺れるのである。

「開国」という大問題を前にして「坐るか坐らぬか、立つか立たぬか」「何の上にどんな風に腰を下ろすかといふやうな問題」を議論することは確かに不条理で滑稽であろう。しかし、「坐るか坐らぬか、立つか立たぬか」「何の上にどんな風に腰を下ろすかといふやうな問題」は文化や習俗あるいは価値観を異にする外国人と接するときには避けて通ることの出来ない問題である。その点ではゴンチャロフの批判はいささか一方的であるといわざるを得ない。ロシア人には「坐るか坐らぬか、立つか立たぬか」「何の上にどんな風に腰を下ろすかといふやうな問題」を延々議論する日本側の態度が不条理でバカバカしいものに見えただろう。しかし、日本人にはいきなり来航し、開国要求を突きつけるロシア人の態度こそ不条理なものに見えたはずだ。両者のズレは文化や習俗あるいは価値観を異にする他者と遭遇し、相対することがそもそも不条理で滑稽なことであることを透視している。当時の日本人が椅子に腰をかけると足が痺れたという指摘も興味を誘う。私の祖母もしばしば椅子の上で正座をする。正座をしながら食事をしたり、新聞を読んだりしている。椅子の上に正座をする方が足をだらりと垂らすよりも落ち着くのだという。プチャーチン艦隊の来航から百五十年。ゴンチャロフが祖母の坐り方を目撃したら、やはり不条理で滑稽なものと受け止めるのであろうか。結局、プチャーチンやゴンチャロフらは椅子に、日本側は畳の上にそれぞれ坐って会見にのぞんだようだ。上役の命令を「へ、へ、へ」と承る下級役人たちの様子も戯画化されている。通訳の吉兵衛は特にユーモアたっぷりに描かれている。実に愛すべきキャラクターである。
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2008年06月12日

小泉八雲『明治日本の面影』

『神々の国の首都』を読んだのは今月初旬だった。感想は6月4日の日記に記した。『明治日本の面影』(講談社学術文庫/1990年10月/講談社刊)も読んでみた。「日本海の浜辺で」や「伯耆から隠岐へ」は『神々の国の首都』を受け継いだ魅力的な紀行文である。「日本海の浜辺で」では「鳥取の布団」という昔話に感銘を受けた。内容は一種の怪談である。しかし、同時に物悲しい哀話でもある。怪談と哀話との組み合わせは日本独特のものなのであろうか。そんなことをふと思った。「伯耆から隠岐へ」では、隠岐へ向かう汽船“蒸気”の船内を描いたシーンがおもしろい。“蒸気”に乗り込んだハーンたち一行はハーンが「地獄の回廊」と呼ぶ「高さ四フィート幅二フィートほど」の「重苦しい天井の通路」をくぐり抜ける。「恐ろしくぎゅうぎゅう詰め」の「地獄の回廊」を抜けた先には一等船室が設けられていた。ところが、一等客室もすでに満杯である。乗客たちが床を埋め尽くすように身を横たえている。「船室の港側の扉が開いているのを見て、私は身体や手足がもつれあっている上を――そのなかに芸者の美しい足もあったが――一歩一歩跨ぎ越すとすぐ、屋根のあるもう一つの通路に出た」。しかし、「もう一つの通路」もまた天井まで高く積み上げられた「うごめく鰻を入れた籠」や「狂ったように鳴く、けたたましい声」の「不幸な雛鳥の入った籠」や大量の西瓜に占拠されている。さらに“蒸気”そのものが牙を剥く。

船が耳をつんざく汽笛を鳴らして動き出した。とたんに煙突が私の上に煤を雨と降らせ始めた。いわゆる一等船室はずって船尾にあって、煤が混った小さな燃え殻が飛んできた。燃え殻には時に赤く火がついていた。しかし私はしばらく、日に焼かれて、雛鳥を襲撃せずに位置を変える方法はないものかと思案していた。とうとうたまりかねて、この火山の風下へ行き着こうと決死の努力をしたが、やってみて初めて、この「蒸気」の特異なところを知ることになった。腰をおろそうと思ったものがひっくりかえるし、しっかり身体を支えるはずのものがすぐに頼りなく、決まって船外の方に横滑りをした。見たところかすがいで留め、締め金でしっかりと固定されているはずのものが、用心して試してみると、危っかしいほどぐらつく始末であった。西洋的な考えだと動いてもよさそうなものが、動かざる山のごとくびくともしない。あらゆる方向に綱や支索がのびていて、まさしくここは、いつだれを不幸な目に合わせても不思議はないところである。こうした試練の最中に、この恐るべき小船は揺れ始め、西瓜が一斉にごろごろ前後に転がり始めると、この「蒸気」は悪魔に設計建造されたとしか思われなかった。(平川祐弘訳)

「蛍」も興味深く読んだ。いまはまさしく蛍の季節である。「出雲再訪」はなくてはならない一篇である。出雲の老若男女や山川草木に日本の古き良き時代の姿を見た『神々の国の首都』所収の各篇と「しかし結局のところ、一度愛し棄て去った土地をふたたび訪ね、無傷でいることはできない。何かが失われていた。何か目に見えぬもの――その不在こそが、私の胸中の漠たる悲哀の源なのだ」「失われた魅力とは私自身の人生から消えうせてしまったもの――初めて心に焼きついた日本の幻影にまつわる何かなのだろうか」と記す「出雲再訪」とがお互いを相対化し合っている。それが西洋人=ラフカディオ・ハーンと日本人=小泉八雲という両義的な側面を浮かび上がらせる役割を果たしている。「英語教師の日記から」では、教え子たちがハーンのもとを訪れるシーンが印象に残った。師弟のあいだのこういった交流はいまではもう見られなくなったのではなかろうか。志田と横木が亡くなるシーンも忘れられない。医療の体制がいまだ整っていなかった時代である。そのレベルもまだまだ低い。病で命を落とす青年が現代では考えられぬほど多かった。そのことにあらためて強い衝撃を受けた。衝撃といえば、後註(41)の記述にも驚かされた。後註(41)にはこう記されている。「なおハーンが『本殿参入を許されたのは本当か?』については遠田勝氏が『神社新報』平成元年十二月六日号で疑義を呈している」。ハーンは出雲大社本殿への昇殿を許された。すっかりそう信じ込んでいた。「神社新報」を読んでみたいと思った。
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2008年06月04日

小泉八雲『神々の国の首都』

出雲を旅したのは先月中旬だった。そのときの様子は5月16日5月17日5月18日の日記にそれぞれ記した。その後は仕事に追われた。平穏な日常を取り戻したのは今月に入ってからである。小泉八雲の『神々の国の首都』(講談社学術文庫/1990年11月/講談社刊)を読んだ。小泉八雲=ラフカディオ・ハーンが松江に滞在したのは明治23年の8月末から翌年の11月まで。松江尋常中学校と尋常師範学校の英語教師として教鞭をとるかたわら、出雲各地の名所旧跡を訪ね歩いたようである。「杵築」「加賀の潜戸」「美保関」「八重垣神社」はそれぞれ出雲大社・加賀の潜戸・美保神社・美保関・八重垣神社を訪問したときの印象記である。「杵築」によると、ハーンは出雲大社本殿への昇殿を許されたようだ。なかでも、次のエピソードに興味を惹かれた。

徳川家康の孫で二百五十年にわたり出雲を支配した松平家の始祖直政侯がお国入りの時、杵築に詣で、ご神体を拝みたいので、ご神座のある内殿の扉を開けよと命じた。もとより不敬な願いであるから、両国造は口々にこれをお諌め申した。しかし、いかに止めても聴かぬばかりか、おのれ国主の命がきけぬのかと怒りだすので、国造もやむなく扉をお開けした。ご内殿の扉が開かれると、そこに九穴の大鮑が立ちはだかって、ご神座をおおい隠している。直政侯は畏れず、さらに近寄り中を窺おうとすると、たちまち、その大鮑が十尋の大蛇に変じ、内殿の戸口に黒々ととぐろを巻いた。それがまた、しゅうしゅうと燃えさかる炎のような音を口から出して、凄まじい様子なので、さすがの直政侯も、従臣ともども、ほうほうの体で逃げ帰り――結局、ご神体を拝することはできなかった。(平川祐弘訳)

「九穴の大鮑」がどれくらいの大きさであったのか、それはわからない。しかし、この世のものとは思えぬほど巨大でグロテスクな姿であったことはわかる。「九穴の大鮑」は「十尋の大蛇」に変化したという。「十尋」といえば、その全長は18メートル以上になる。とてつもなく大きい。しかし、なぜ「鮑」と「蛇」なのであろうか。「鮑」は海、「蛇」はしばしば語られるように鉄の象徴なのであろうか。あるいはそれぞれの形態を踏まえて「女陰」と「男根」すなわち陰と陽を象徴するものであったのだろうか。「鮑」と「蛇」の組み合わせは出雲大社に特有のものなのか。それとも日本各地に伝わる普遍的な民俗信仰の一形態なのか。興味の尽きないテーマである。「八重垣神社」では、鏡の池の恋占いのエピソードも記されている。先日、八重垣神社を訪れたときも若い女性たちが恋占いに興じていた。当時は「紙で小舟を折り、その上に一厘銅貨をのせて池に浮べ、その行方を見守るのが恋する男女のしきたりであ」ったという。私の目にした恋占いは和紙の上に五円玉をのせただけのものだった。占い方も少々異なる。小舟が銅銭とともに底へ沈んだ後、「そこでもし井守が近づいて銅銭にさわれば恋人たちは自分たちは神々の御心にかなって幸せになれるものと信ずることができる。しかし井守が近づかないとすると、占は凶である」。当時はイモリが占いの行方を左右していたようだ。「加賀の潜戸」では、名勝・加賀の潜戸の描写もさることながら、異人さんを一目見ようと集って来る数百人の村人に休憩先を取りかこまれるエピソードがおもしろい。「障子には穴がある。その下の方のどの穴からも弥次馬たちの眼が代りばんこにこちらを覗く。それで上の方の穴から私が外を覗いてみる」という一節では笑いを禁じ得なかった。ハーンが近づくと一目散に逃げてゆく子どもたちの姿も微笑ましい。「神々の国の首都」の文章には舌を巻いた。松江の街を彩るさまざまな「音」が本篇の主役である。その記述はいささか技巧的である。嫌味を感じる人もいるだろう。しかし、ハーンの才気が横溢した一篇であることは間違いない。「盆踊り」はもっとも好きな一篇である。
posted by 乾口達司 at 19:05| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月28日

後藤明生『挾み撃ち』

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今月末〆切りの原稿を仕上げた。書き上げたのは今日の昼過ぎだった。分量は決して多くはない。しかし、短いだけに必要事項を凝縮させるのに手間取った。午後から郵便局へ出掛けた。原稿を投函した。ホッとした。

ある日のことである。わたしはとつぜん一羽の鳥を思い出した。しかし、鳥とはいっても早起き鳥のことだ。ジ・アーリィ・バード・キャッチズ・ア・ウォーム。早起き鳥は虫をつかまえる。早起きは三文の得。わたしは、お茶の水の橋の上に立っていた。夕方だった。たぶん六時ちょっと前だろう。

後藤明生『挾み撃ち』(昭和48年10月/河出書房新社刊)の冒頭の一節である。今回、執筆を担当した作家の一人に後藤明生がいた。『挾み撃ち』の冒頭の一節を引用した。二十年前、身に纏っていた「カーキ色の外套」の行方をたずねて遍歴する「わたし」の一日を描いた小説である。不確定な抽象性をともなった「ある日」という言葉に因果関係の不明を意味する「とつぜん」という言葉が重なり合う。両者の重なり合いは物語が明確な輪郭の失われた日常のなかで進行してゆくことを暗示している。遍歴の途上、「わたし」はみずからの戦中・戦後体験を想起する。しかし、肝心の外套を見つけ出せずに終わるという結末は過去もまたその明確な輪郭を失い、不透明なものに変容してしまっていることを指し示している。「一羽の鳥」が「ジ・アーリィ・バード・キャッチズ・ア・ウォーム」「早起き鳥は虫をつかまえる」「早起きは三文の得」へと次々に変換=翻訳されることも興味深い。「鳥」は「早起き鳥」という言葉そのものである。そのことは「『外套』を翻訳中」であるという「わたし」の追い求める「カーキ色の外套」がゴーゴリの『外套』というテクストでもあったことに通じている。

『挾み撃ち』の書き出し部分で思い出すのは後藤明生の次の言葉である。「ある日のことである」という最初の一文は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の書き出しを真似たものである。後藤明生はかつてそう語っていた。どういうときに聞いたのだろうか。それは忘れた。しかし、『蜘蛛の糸』の話だけは良く憶えている。『蜘蛛の糸』は「ある日の事でございます」という一文から書きはじめられる。お釈迦さまは蜘蛛の糸を垂らして一人の男を地獄の底から救い出そうとする。しかし、その結末は誰もが知っているとおりである。お釈迦さまの垂らした蜘蛛の糸に導かれて、どうか最後まで書きとおすことが出来ますように。『挾み撃ち』を書きはじめるに当たって、自分はそう願いをかけた。その願いが「ある日のことである」という一文になったのである。他人からは必要のない一文ではないのか。そういわれたこともある。しかし、こういった事情から、自分にとっては必要不可欠な一文なのであった。後藤明生はそう語っていた。いまごろは後藤明生その人が極楽の蓮池のふちを一人でぶらぶらと散歩しているのかも知れない。ナムアミダブツ、ナムアミダブツ。
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2008年04月24日

古井由吉『円陣を組む女たち』

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昭和45年6月、中央公論社刊。内向の世代の作家・古井由吉の第一小説集である。今回、仕事の関係で読み返した。久し振りである。かれこれ十年振りではなかろうか。今朝、冒頭の一篇「木曜日に」を読み終えた。古井の処女作である。しかし、早くも古井の独特の世界が立ち現れていた。

鈍色にけぶる西の中空から、ひとすじの山稜が遠い入江のように浮び上がり、御越山の頂きを雷が越しきったと山麓の人々が眺めあう時、まだ雨雲の濃くわだかまる山ぶところの奥深く、幾重もの山ひだにつつまれて眠るあの溪間でも、夕立ち上りはそれと知られた。まだ暗さはほとんど変りがなかったが、いままで流れの上にのしかかっていた雨雲が険しい岩壁に沿ってほの明るく動き出し、岩肌に荒々しく根づいた痩木に曳裾を絡み取られて、真綿のような優しいものをところどころに残しながら、ゆっくりゆっくり引きずり上げられてゆく。そして雨音が静まり、溪川は息を吹きかえしたように賑わいはじめる。

「木曜日に」の書き出し部分である。夕立が過ぎ去った後、御越山がその勇姿を現してゆく過程が実に細やかに描かれてゆく。雨雲が山のいただきを目指して移動してゆく様子からはあたかも物語の幕が引き上げられてゆくような印象さえ受ける。作品のはじまりを告げる効果的な演出である。「真綿のような」「優しい」「ゆっくりゆっくり」など、その後の作品にしばしば登場する表現が見られることにも注意したい。

東京へ舞い戻った「私」は御越山で体験した記憶の一部が欠落していることに気付く。内部に巣食った「虚無」は「私」の存在感覚を不安定にしてゆく。そして、木曜日ごとに精神に変調が現れる。幻想的な「木目」のシーンはその典型である。御越山を覆っていた雨雲は散り散りになった。しかし、「私」の内部には依然として「真綿のような優しいもの」がこびりついたままである。「私」の内部に入り込んだ夕立の名残りは依然として「私」自身を脅かしているのである。そして、そのようななかでじわじわと迫って来るものこそ「――今日は何曜日」「――今日は木曜日」という呼びかけ(言葉)の生々しさである。

ところでいま気付いたことがある。「私」が精神に変調を来たすのは「木曜日」である。変調のなかで立ち現れるのは「木目」の幻想である。「木曜日」と「木目」。同じような字面を持った両者には何かの関わりがあるのだろうか。これもまた言葉の持つ奇怪さであろうか。無気味な小説である。
posted by 乾口達司 at 23:19| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする