2008年06月07日

押熊町の忍熊王子・香坂王子旧蹟地。

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仕事を終えた。実家へ向かった。今日は少し遠まわりすることにした。学園前を北上した。ならやま大通りに出た。ならやま大通り沿いに歩く。やがて押熊の集落に入った。押熊では八幡神社に詣でた。本殿は覆屋のなかに鎮座している。檜皮葺の流造である。境内には幾つかの社殿が点在している。かつては神宮寺(福成寺)もあったようだ。参拝後、すぐ近くの忍熊王子・香坂王子旧蹟地を訪ねた。忍熊王子・香坂王子旧蹟地は竹薮にかこまれた高台の上に位置している。セメント塀が敷地を取りかこんでいる。正面には「忍熊王子・香坂王子旧蹟地」と刻まれた立派な石標と鳥居が建てられている。敷地の中央には基壇がもうけられている。小さな石宝殿や石塔の残骸が基壇の上に安置されていた。私がはじめてこの地を訪れたのは中学生のときである。はじめて訪れたときにはこのような基壇はなかった。石宝殿や石塔の残骸があたりに点在しているだけだった。近年になって整備がおこなわれたようである。『平城村史』(昭和46年11月/平城村史編集委員会刊)には「境内は約二二〇平方メートル、径一六メートル、高さ二メートル余りの円墳で」「古老の話によると、この古墳は忍熊王子の古墳として往昔から奉斎して来たと伝えているが明かでない」と記されている。忍熊王とその兄・香坂王は仲哀天皇の皇子。三韓征伐を終え、誉田別皇子(後の応神天皇)とともに大和へと凱旋する神功皇后に叛旗をひるがえした人物である。出兵後、香坂王は赤猪に襲われて死亡。残党を率いる忍熊王は敗走を重ねる。最期は琵琶湖・瀬田の地で入水したという。『日本書紀』にはそう記されている。旧蹟地の脇に設けられた説明版では「この日本書紀の伝承にある忍熊王は、当時、この地域を支配していた実在性の高い人物・王の一人であったと考えられる」と解説されていた。一方、『平城村史』では「押熊という地名は古くは忍熊と書かれたが、民俗的な方面からすると、クマは隅をさす言葉である。この地は大和の国からいうと最北端の地で、大和平野の北の隅に当たる土地で、土地柄オシクマという地名が生れたと解したい。こうした地名と忍熊王子と結びつき、忍熊王子をここにまつるようになったのではあるまいか」と綴られている。いずれの見解が正しいのであろうか。もちろん、素人の私にわかるはずがない。永遠の謎である。午後7時過ぎ、実家にたどり着いた。
posted by 乾口達司 at 23:16| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 散策 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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