2008年06月04日

小泉八雲『神々の国の首都』

出雲を旅したのは先月中旬だった。そのときの様子は5月16日5月17日5月18日の日記にそれぞれ記した。その後は仕事に追われた。平穏な日常を取り戻したのは今月に入ってからである。小泉八雲の『神々の国の首都』(講談社学術文庫/1990年11月/講談社刊)を読んだ。小泉八雲=ラフカディオ・ハーンが松江に滞在したのは明治23年の8月末から翌年の11月まで。松江尋常中学校と尋常師範学校の英語教師として教鞭をとるかたわら、出雲各地の名所旧跡を訪ね歩いたようである。「杵築」「加賀の潜戸」「美保関」「八重垣神社」はそれぞれ出雲大社・加賀の潜戸・美保神社・美保関・八重垣神社を訪問したときの印象記である。「杵築」によると、ハーンは出雲大社本殿への昇殿を許されたようだ。なかでも、次のエピソードに興味を惹かれた。

徳川家康の孫で二百五十年にわたり出雲を支配した松平家の始祖直政侯がお国入りの時、杵築に詣で、ご神体を拝みたいので、ご神座のある内殿の扉を開けよと命じた。もとより不敬な願いであるから、両国造は口々にこれをお諌め申した。しかし、いかに止めても聴かぬばかりか、おのれ国主の命がきけぬのかと怒りだすので、国造もやむなく扉をお開けした。ご内殿の扉が開かれると、そこに九穴の大鮑が立ちはだかって、ご神座をおおい隠している。直政侯は畏れず、さらに近寄り中を窺おうとすると、たちまち、その大鮑が十尋の大蛇に変じ、内殿の戸口に黒々ととぐろを巻いた。それがまた、しゅうしゅうと燃えさかる炎のような音を口から出して、凄まじい様子なので、さすがの直政侯も、従臣ともども、ほうほうの体で逃げ帰り――結局、ご神体を拝することはできなかった。(平川祐弘訳)

「九穴の大鮑」がどれくらいの大きさであったのか、それはわからない。しかし、この世のものとは思えぬほど巨大でグロテスクな姿であったことはわかる。「九穴の大鮑」は「十尋の大蛇」に変化したという。「十尋」といえば、その全長は18メートル以上になる。とてつもなく大きい。しかし、なぜ「鮑」と「蛇」なのであろうか。「鮑」は海、「蛇」はしばしば語られるように鉄の象徴なのであろうか。あるいはそれぞれの形態を踏まえて「女陰」と「男根」すなわち陰と陽を象徴するものであったのだろうか。「鮑」と「蛇」の組み合わせは出雲大社に特有のものなのか。それとも日本各地に伝わる普遍的な民俗信仰の一形態なのか。興味の尽きないテーマである。「八重垣神社」では、鏡の池の恋占いのエピソードも記されている。先日、八重垣神社を訪れたときも若い女性たちが恋占いに興じていた。当時は「紙で小舟を折り、その上に一厘銅貨をのせて池に浮べ、その行方を見守るのが恋する男女のしきたりであ」ったという。私の目にした恋占いは和紙の上に五円玉をのせただけのものだった。占い方も少々異なる。小舟が銅銭とともに底へ沈んだ後、「そこでもし井守が近づいて銅銭にさわれば恋人たちは自分たちは神々の御心にかなって幸せになれるものと信ずることができる。しかし井守が近づかないとすると、占は凶である」。当時はイモリが占いの行方を左右していたようだ。「加賀の潜戸」では、名勝・加賀の潜戸の描写もさることながら、異人さんを一目見ようと集って来る数百人の村人に休憩先を取りかこまれるエピソードがおもしろい。「障子には穴がある。その下の方のどの穴からも弥次馬たちの眼が代りばんこにこちらを覗く。それで上の方の穴から私が外を覗いてみる」という一節では笑いを禁じ得なかった。ハーンが近づくと一目散に逃げてゆく子どもたちの姿も微笑ましい。「神々の国の首都」の文章には舌を巻いた。松江の街を彩るさまざまな「音」が本篇の主役である。その記述はいささか技巧的である。嫌味を感じる人もいるだろう。しかし、ハーンの才気が横溢した一篇であることは間違いない。「盆踊り」はもっとも好きな一篇である。
posted by 乾口達司 at 19:05| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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