2008年05月17日

出雲紀行(稲佐の浜)

“かねや”を後にした。西の方へ歩いてみる。路地の両側には昔ながらの民家が建ち並んでいる。そのあいだをぬうようにして歩く。潮風が狭い路地を吹き抜ける。その勢いが一段と強まった。道の彼方に海が顔をのぞかせた。稲佐の浜である。『古事記』に記された「伊那佐の小濱」である。『古事記』は高天原から降臨した建御雷之男神が葦原中国を統治する大国主神に国譲りを迫ったことを記している。両者の会談の場となったのが稲佐の浜である。砂浜を踏みしめるようにして歩く。弁天島の前までやって来た。海と陸地とのあいだを引き裂くようにして屹立している。島というよりも巨大な岩だ。崖の上には小さな社殿と鳥居が建てられている。社殿は東を向いている。出雲大社の本殿内部に祀られた御神座は西を向いていた。弁天島の社殿と御神座とはちょうど対座するように向かい合っている。このことと国譲り神話とのあいだには何かの関わりがあるのだろうか。出雲への上陸に際して、高天原側が築いた橋頭堡。弁天島を見上げているとき、ふとそんなことを思いついた。稲佐の浜の沖には高天原の船団が停泊している。浜辺では建御名方神をはじめとする国津神の一団が武器をたずさえて控えている。おのおのが弁天島を見上げている。固唾を呑んで会談の行方を見守っている。島の上では建御雷之男神と大国主神とが対峙したままである。すでに長い沈黙の時間が流れている。十掬剣がさかさまに突き立てられている。十掬剣をあいだに挟んでお互いに次の一手を探り合っているところだ。寄せては返す荒波が高天原と葦原中国との予断を許さない交渉の行方を象徴している。弁天島はまさしく天と地とのはざまに位置する島だ。

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波打ち際に腰を下ろした。弁天島をぼんやり眺めていた。そこへ一人の中年女性がやって来た。中年女性は弁天島を仰ぎ見た。そして、崖の上の社殿に向かって手を合わせた。お祈りを済ませた女性は浜辺に打ち寄せられた木の棒を拾った。砂浜に何かを描いているようである。言葉のようだ。打ち寄せる波が彼女の綴った言葉をまたたく間に洗い流した。空を見上げた。沖の彼方から黒い雲の塊が流れて来る。雲の塊は次々と稲佐の浜に押し寄せる。そのたびに日差しがさえぎられる。しかし、明るさはまもなく取り戻される。雲は陸の奥地へと流れ去っている。その繰り返しである。雲のすきまから陽が差し込む。その一瞬、雲が光り輝く。実に神々しい。そのさまが“八雲之図”を思い起こさせた。“八雲”のうちの一つは海からの風に乗ってさらに遠くへ飛んでいったのかも知れない。行き先はどこだろう。意宇の神魂神社だろうか。それとも意宇よりもさらに奥まったところに鎮座する熊野神社だろうか。高天原との交渉で青柴垣のなかに引き籠もってしまった事代主神。その事代主神が鎮座する美保神社であろうか。めまぐるしく移り変わる空模様がただならぬ雰囲気をただよわせていた。風も強い。耳を澄ませば、往古、この浜にこだました神々の激しいやりとりまでも聞こえて来そうだ。気のせいである。このあたりに特有の気象現象に過ぎないのであろう。そんなことはわかっている。しかし、私には神秘的だった。弁天島に手を合わせていた中年女性の姿はもうどこにもなかった。島根県立古代出雲歴史博物館には、出雲や石見の各地から出土した遺物の数々が陳列されていた。加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸群も飾られていた。荒神谷遺跡から出た銅剣群も並べられていた。見応えのある内容だった。展示方法も秀逸である。しかし、稲佐の浜の魅力にはおよばなかった。何かを知り、何かを考えるとき、モノは確かに重要なアイテムではあろう。しかし、所詮、モノはモノに過ぎない。モノよりも風を感じよ。押し寄せる雲の流れに刮目せよ。寄せては返す荒波や八雲山の樹々のさざめきに耳を澄ませよ。そして、畏れよ。神話の世界を体感するということは、案外、そういうことなのかも知れない。本日の参拝でもたらされた謎の数々もそのような流れのなかでわかって来るような気がする。
posted by 乾口達司 at 22:23| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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