2008年04月24日

古井由吉『円陣を組む女たち』

20080424-1.bmp

昭和45年6月、中央公論社刊。内向の世代の作家・古井由吉の第一小説集である。今回、仕事の関係で読み返した。久し振りである。かれこれ十年振りではなかろうか。今朝、冒頭の一篇「木曜日に」を読み終えた。古井の処女作である。しかし、早くも古井の独特の世界が立ち現れていた。

鈍色にけぶる西の中空から、ひとすじの山稜が遠い入江のように浮び上がり、御越山の頂きを雷が越しきったと山麓の人々が眺めあう時、まだ雨雲の濃くわだかまる山ぶところの奥深く、幾重もの山ひだにつつまれて眠るあの溪間でも、夕立ち上りはそれと知られた。まだ暗さはほとんど変りがなかったが、いままで流れの上にのしかかっていた雨雲が険しい岩壁に沿ってほの明るく動き出し、岩肌に荒々しく根づいた痩木に曳裾を絡み取られて、真綿のような優しいものをところどころに残しながら、ゆっくりゆっくり引きずり上げられてゆく。そして雨音が静まり、溪川は息を吹きかえしたように賑わいはじめる。

「木曜日に」の書き出し部分である。夕立が過ぎ去った後、御越山がその勇姿を現してゆく過程が実に細やかに描かれてゆく。雨雲が山のいただきを目指して移動してゆく様子からはあたかも物語の幕が引き上げられてゆくような印象さえ受ける。作品のはじまりを告げる効果的な演出である。「真綿のような」「優しい」「ゆっくりゆっくり」など、その後の作品にしばしば登場する表現が見られることにも注意したい。

東京へ舞い戻った「私」は御越山で体験した記憶の一部が欠落していることに気付く。内部に巣食った「虚無」は「私」の存在感覚を不安定にしてゆく。そして、木曜日ごとに精神に変調が現れる。幻想的な「木目」のシーンはその典型である。御越山を覆っていた雨雲は散り散りになった。しかし、「私」の内部には依然として「真綿のような優しいもの」がこびりついたままである。「私」の内部に入り込んだ夕立の名残りは依然として「私」自身を脅かしているのである。そして、そのようななかでじわじわと迫って来るものこそ「――今日は何曜日」「――今日は木曜日」という呼びかけ(言葉)の生々しさである。

ところでいま気付いたことがある。「私」が精神に変調を来たすのは「木曜日」である。変調のなかで立ち現れるのは「木目」の幻想である。「木曜日」と「木目」。同じような字面を持った両者には何かの関わりがあるのだろうか。これもまた言葉の持つ奇怪さであろうか。無気味な小説である。
posted by 乾口達司 at 23:19| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック