2008年04月06日

高畑町の俊寛塚。

20080406-1.bmp

所用で奈良の旧市街まで出掛けた。ついでに俊寛塚を見学しよう。突然、思い立った。興福寺の境内を横切った。五十二段を下った。なら土連会館へと向かう小道を左折した。緩やかな坂を道なりに上ってゆく。前方に荒池の堤防が見える。満開の桜が数本植わっている。小道は堤防の突き当たりで左に折れる。そのそばに小さな芯礎のようなものが残されている。かたわらには「俊寛塚」と刻まれたささやかな標石が立っている。お花見日和の一日だった。奈良には大勢の観光客が押しかけた。しかし、塚の周辺だけはひっそりと静まり返っていた。

俊寛は平安時代末期の僧。鹿ケ谷の変の首謀者の一人として知られている。平家打倒の密議は発覚。俊寛とその一味は捕縛された。鬼界ケ島へ流されたという。その顛末は『平家物語』に詳しく記されている。鬼界ケ島の候補地の一つに喜界島がある。いまは昔。喜界島へと渡った。街のなかを歩いた。俊寛の墓を見つけた。墓碑のかたわらにはブロンズ像が建てられていた。等身大の俊寛の坐像であった。同じく鹿児島県の硫黄島や長崎県の伊王島にも墓があるという。こちらもいつか見学したいものだ。

俊寛は鬼界ケ島で死んだ。それにもかかわらず、なにゆえ奈良に俊寛の塚があるのか。塚の脇に案内板が立っている。案内板によると、俊寛は弟子の有王によってひそかに鬼界ケ島から連れ戻された。そして、晩年をこの地で過ごしたという。江戸時代の南都案内書である『奈良名所八重桜』や『大和名所図会』ではそう伝えられている。その伝承により、当地は「鬼界島」「俊寛ケ辻」と呼ばれて来たという。俊寛は興福寺・興善院で勉学に励んだ後、京都・法勝寺に住した。興福寺との大縁がこういった伝承になったのだろう。案内板にはそう書き加えられていた。奈良教育大学の近くにも「俊寛田」という地名が残されている。そういう話を聞いたことがある。子どもの頃に読んだ本のなかに書いてあったのかも知れない。詳しい話は忘れた。所領でもあったのだろうか。奈良と俊寛。両者の関係は謎である。興味の尽きないテーマである。
posted by 乾口達司 at 22:47| 奈良 | Comment(0) | TrackBack(0) | 散策 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック