2008年02月23日

プロフィール4

大学時代のもっとも大きな収穫は、小説家の後藤明生とめぐり逢ったことだった。後藤明生もまた教員の一人として教壇に立っていたのである。近畿大学の文芸学部は、一般の教員や研究者に混じって、現役の作家や歌人、劇作家、芸術家が教鞭をとるというユニークな発想のもとに創設されていた。

大学1年のときのテキストは『首塚の上のアドバルーン』(講談社)だった。著者本人が自分の書いた小説をテキストにして文学論を語っていた。
ところが、当時、私は後藤明生の小説を一冊も読んでいなかった。“内向の世代”と呼ばれる作家の一人であることも知らなかった。正直に告白する。実は名前すら知らなかった。したがって、関心もなかった。講義に出るのは月に1回くらいだった。講義に出てもまともに話など聞いていなかった。

講義に顔を出すようになったのは2年生になってからである。2年の前期講義のテキストは宇野浩二の『蔵の中』。『蔵の中』の無類の面白さを通じて講義の楽しさを実感したように思う。
7月の終わりのこと。東京で後藤明生の講演会が開かれるという。日本近代文学館が主催する「夏の文学教室」の一環である。同級生のK丸・K林と一緒に出掛けた。講演の題材は田山花袋の『蒲団』についてであった。
その夜、はじめて酒を一緒に飲んだ。面と向かって、直接、会話を交わしたのもこのときがはじめてではなかっただろうか。K丸・K林との珍道中も愉快だった。

2年後期のテキストは芥川龍之介の『芋粥』だった。そろそろ所属するゼミを決めなければならない。個人的には誰のゼミに入りたいという希望はなかった。自分が何を研究したいのかというはっきりしたプランも持ち合わせていなかった。
ある日のこと。後藤研究室に招かれた。K林と一緒だった。後藤明生は神妙な顔をして控えている私たちの前に自著を差し出した。数ヶ月前に刊行された『メメント・モリ』(中央公論社)と『スケープゴート』(日本文芸社)である。突然、「えー、キミの下の名前は達司だったっけ?」と訊ねられた。はいと返事をした。後藤明生は見返しに毛筆で私の名前と「後藤明生」という文字を記した。K林に対しても同様だった。そして、サイン本を私たちに手渡した後、おもむろに「乾口くん、僕のゼミに来るんだろ?」と訊ねて来た。著者本人から直々にサイン本を2冊もいただいたのである。「いいえ、行きません」とは断れないだろう。その場で「それじゃあ、先生のところへ」と即答した。いまから思うと、なかなか巧みな戦略であったと感心する。
こうして私は後藤ゼミの一員となった。

それにしても良く呑んだ。ゼミや講義の後は必ず大学から歩いて7、8分の距離にある居酒屋Kへと出向いた。深夜未明になってからは、閉店間際の沖縄料理店Yを訪問した。マスターの機嫌をとりながら午前2時や3時まで呑んだ。そのあたりのいきさつは『日本近代文学との戦い―後藤明生遺稿集』(柳原出版)のあとがき(後藤明生と『日本近代文学との戦い』―あとがきに代えて)に書いた。

後藤明生との交流については今後も書いてゆきたい。
少なくともいえることがある。それは、後藤明生とめぐり逢わなければ、現在の私はなかったということだ。

(続く)
posted by 乾口達司 at 23:31| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 自己 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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