2020年04月09日

無責任な非常事態宣言の先にあるものは。

非常事態宣言が出された。それにともない、対象地域も指定され、外出の自粛も要請されている。しかし、私は今日も通常どおり指定地域にある会社に出勤した。非常事態宣言が出される前と後とでは、電車に乗っている通勤者の数にそれほど変化は見られないようであった。この時期に出された非常事態宣言にどれだけの効果があるか、皆目、わからない。しかし、5月6日まで予定されている非常事態宣言によって、たとえ感染拡大が抑えられなかったとしても、発令した総理大臣は自分が責任をとるつもりはないと公言していた。公式の記者会見の場で語られたあの発言には、正直、驚いた。言質をとられないためにあえて責任の所在を濁すと思っていたからである。まあ、いままで数えきれないほどの不祥事を起こしながら、責任などというものを一度たりともとったことのない人物であるから―「消えた年金問題」のぶざまな対応で総理大臣を辞めたときは「お腹が痛い」という理由であり、責任をとったわけではない−当然といえば、当然の発言なのだろう。私の認識もつくづく甘いといわざるを得ない。しかし、その背景にはいったいどういった思惑があるのだろうか。多くのものが非常事態宣言を出せと要求して来たから仕方なく出してやったに過ぎない、自分が積極的に判断したわけではないからといったことだろうか。そんな調子では、非常事態宣言だけでは生ぬるい、感染拡大防止のためにこれまで以上に私権を制限せよといった無責任な声がますます高まるかも知れない。総理大臣の無責任発言は、あるいはそんな無責任な声を期待しての意図的な挑発だったのかも知れない。日本のような同調圧力の強いところでは、そういった事態に発展することが何よりも怖い。私が非常事態宣言の発令に反対するのは、それを危惧するからである。いつの世も為政者はわれわれの恐怖に付け込んで来る。ウイルスに対する恐怖が嵩じて思考や判断力を停止させてしまってはならない。恐怖に駆られたからといって、市民の側が自分から全権を行政府に差し出してしまってはならない。無責任な総理大臣の言葉にのせられて無責任な存在になってしまってはいけない。当たり前の日常を当たり前に生きることを忘れてはならない。
posted by 乾口達司 at 03:00| 奈良 ☀| Comment(0) | 想い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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