2015年04月20日

後藤明生を読む会(第24回)

後藤明生を読む会(第23回)→こちら

昨日は後藤明生を読む会の第24回がもよおされた。今回のテキストは『挟み撃ち』(河出書房新社/1973年10月刊)。いつものように代表の発表者が基調報告をおこなった。その後、参加者のあいだで討議がおこなわれた。今回も話題となった事柄をアトランダムに列記しておく。

・「わたしの『外套』」(「新刊ニュース」第277号/1973年11月1日/『大いなる矛盾』所収)によると、河出書房新社が長篇小説の執筆を依頼したのは、1971年4月。同年8月、後藤明生はシベリア旅行に出ており、当初は帰国直後から執筆に着手する予定であった。しかし、他の締め切り原稿に対する対応など、諸事情により、執筆することが出来なかった。実際に執筆段階に入ったのは、1972年に入ってから。しかし、途中で作品の内容を変更したいという後藤明生自身の意向により、中断。当初の構想はシベリアを舞台にしたものであった
・以上の経緯を踏まえると、『四十歳のオブローモフ』(文藝春秋/1973年8月)のなかで語られている「シベリアを舞台にした小説」(p3)は『挾み撃ち』のプレテクスト的な作品であったことがうかがえる。ここからわかることは、1972年5月1日より「夕刊フクニチ」において連載がはじまった『四十歳のオブローモフ』(連載時のタイトルは「四十歳」)の開始時点では「シベリアを舞台にした小説」が河出書房新社から刊行が予定されていた長篇小説であったということである。同年8月31日まで連載された『四十歳のオブローモフ』の執筆期間中はさすがに「シベリアを舞台にした小説」を同時進行で執筆する余裕がなかったと考えられるため、逆に『四十歳のオブローモフ』の執筆が「シベリアを舞台にした小説」から後に『挾み撃ち』の題名で刊行されることとなる当該作品への転回をうながすきっかけになったことが考えられる
・では、『四十歳のオブローモフ』の連載中のいつの時点において、その転回で起こったのか。『四十歳のオブローモフ』の初出を詳細に検討していくことで、その転回のタイミングを確定することが出来るかも知れない。この点は今後の課題としたいが、そのタイミングを「誕生日の前後」という章題を持つパートの執筆時に求めるのも、一つの仮説としてあり得るかも知れない。主人公・本間宗介の誕生日の日のエピソードに触れた当該箇所では、『挾み撃ち』の冒頭において言及されている「早起き鳥」ならぬ「雀」(p96)が登場し、夜明けまで仕事をしていた宗介が、『挾み撃ち』の「わたし」と同様、珍しく朝から家族とやりとりをし、なお且つ、そのまま連れ立って散歩に出掛け、その途上、曽祖父から宗介にいたる「この一家の、四代に亘る年代記を」「いつか一大長篇に書き残したいものだと考えている」(p123)のである。これ以降、『挾み撃ち』と同様、みずからの過去を振り返るシーンが繰り返し登場する点も、その仮説を裏付ける証拠として挙げておきたい。そういった仮説を踏まえると、その後に描かれるシベリアおよびシベリア航路上の川口和子とのやりとりを描いた箇所は、宗介=後藤明生が、当初、構想した「シベリアを舞台にした小説」のなかに描かれる予定のエピソードであったという仮説の仮説も導き出せる
・「シベリアを舞台にした小説」からの転回を果たした『挾み撃ち』の小説内の時間が垣間見えるのは、1972年の秋。「もと日本兵」(p30)=横井庄一の結婚が1972年11月3日であり、「わたし」がその結婚に関する新聞報道を自宅のトイレットのなかで知るというエピソードを踏まえると、小説上の時間として設定されているのは、「もと日本兵」が結婚する直前あるいはその直後にあたる1972年10月〜11月頃(新聞報道という特性を踏まえると、その下限は11月4日になる)、すなわち、書籍としての『挾み撃ち』が刊行されるほぼ1年前である
・下限を11月4日としてみたとしても、「わたし」が外套を着て街中を歩き回るには、時期が少し早過ぎるのではないか?(「もと日本兵」の話や「外套」を「グァム島」と聞き間違えること、失われた外套の行方を探す主人公自身に外套を着させるという設定にどうしても持ち込みたかったからではないか)
・書き出し部分の重要性
・「ある日のことである」は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の書き出しを模倣(後藤明生の生前の談話)
・「わたしはとつぜん一羽の鳥を思い出した」の「とつぜん」は、作中、計115回登場し、もっとも多いのは第8章。全12章中、すべての章で登場する
・後藤明生自身の自己存在のありようを指し示した言葉として「とつぜん」がある
・「しかし、鳥とはいっても早起き鳥のことだ」における「早起き鳥」が鳥類としての鳥を直接指し示したものではなく、テクスト(言葉)であることに注意
・「大いなる矛盾」(「波」1973年11月号/『大いなる矛盾』所収)における「挾み撃ち」という言葉との関連(言葉=テクストと実体験との「挾み撃ち」)
・「早起き鳥」を踏まえた「早起き鳥橋」については、そのように名付けていながら、活用していない
・「ジ・アーリィ・バード・キャッチズ・ア・ウォーム。早起き鳥は虫をつかまえる。早起きは三文の得」では、同一の指示内容を表したそれぞれの言葉が一種の分身関係に置かれている
・しかも、「早起きは三文の得」という正解を導けなかったことにより、言葉の変換=流れが切断される(言葉の変容・増殖と切断という相反するベクトルが働く)
・「わたしは、お茶の水の橋の上に立っていた」のなかで語られる「お茶の水の橋」とは「お茶の水橋」のこと
・「お茶の水橋」の竣工は昭和6年(1931)5月で、明治24年(1891)、日本人設計士によってはじめて設計され、架けられた鉄橋(大正12年(1923)の関東大震災で焼失・破損し、現在の橋にかけかえられた
・「夕方だった。たぶん六時ちょっと前だろう」を「約束の六時ちょうどである」(p254)という一文とつなげると、物語のもっとも表層上で流れている時間はわずか数分に過ぎない
・なぜ「たぶん」なのか?
・作中ではさまざまな分身・分裂・鏡像関係が登場する
・「わたし」と山川も鏡像的な関係で描かれているという点、御茶ノ水駅を中心にしたお茶ノ水橋と聖橋との左右対称的な地理的関係を踏まえると、物語の終盤、「わたし」はお茶ノ水橋、山川は聖橋の上でお互いの橋の方向を眺めながら、それぞれの登場を待ちわびている(すなわち、今回も「わたし」と山川は出会えない)とも読めるのではないか
・「お茶の水の橋の上で山川を待つわたしの話」(数分)をもっとも表層的なエピソードとして、その下に「お茶の水の橋の上で山川を待つわたしが体験した今日一日の出来事(一日/正確には約8時間)」「お茶の水の橋の上で山川を待つわたしが体験した今日一日の出来事のなかで想起した過去の出来事(赤ん坊〜浪人・大学生までの約20年間)」「お茶の水の橋の上で山川を待つわたしが山川と会い損ねた一月前の出来事(1時間ほど)」「仮想のエピソード」が位階として構造化されている
・しかし「電車が停った。やっと上野だ」(p41)における語りの位置などを考えると、そのような構造を持ちながらも「わたし」の語りは現在の地点に立ってさまざまな過去の体験を回想するという形にはなっていない
・ある日の朝、「わたし」は自分がかつて着ていた外套のことを「とつぜん」思い出す一方、外套の行方がわからない上、山川がやって来るかどうかもわからないまま物語が終わる(発端=起源もなく、結末=終末もない話=小説)
・そればかりか、山川との関係をめぐって「わたし」の話はさらに別の物語を誘発し、増殖していく可能性を示唆している(未完結性)
・「ライオンという筆名を持ったさる高名な流行作家の、新聞連載小説」(p21)は獅子文六「自由学校」(「朝日新聞」/1950年5月26日〜12月11日連載」)
・「帝劇へエノケンのミュージカルを見物に出かけた。贋紫田舎源氏? たぶん、そんなふうなものだった。女優は誰だったのだろう?越路吹雪?笠置シズ子?」(p81)は『浮かれ源氏』のことと推定される(1952年3月1日〜4月17日)
・「しかし、あの伴淳、アチャコの二等兵物語は、果して二十年前の映画だっただろうか?」(p183)や「確か、昭和二十七、八年ごろ、つまりおれたちがこっちへ出て来た翌年ごろじゃないかと思ったんだがね。それとも、もう少しあとだったかなぁ?」(p192)と語られている『二等兵物語』(松竹)は昭和30年(1955)11月15日に公開された映画であり「おれたちがこっちへ出て来た翌年ごろ」に公開されたものではない
・「たぶん向う側が川上なのだろう」(p9)は正しくは「川下」
・「これは誰の声だろう? 兄の声? あるいは母だろうか? それとも、誰か見知らぬ他人だろうか?」(p165〜166)と語りながら、その直後に「いや、兄さん」と呼びかけている滑稽さ
・拓殖大学が「紅陵大学」に変更したことについて
・p66以降の仮想的な語りの持つ実験性(章ごとに語りの実験をしている?)
・ゴーゴリの作品を引用する手法と横田瑞穂の翻訳との関わりについて(横田訳が忠実に引用されているといえるだろうか?)
・「往還を往く人の屐歯」(p76/徳富蘆花『自然と人生』)のような文言が自然に出て来る特性
・軍歌や歌謡などの観点から考える
・「バカらしか、ち!」(p109)について
・「カーキ色の旧陸軍歩兵の外套」(p23)と『外套』の主人公である「アカーキー」との地口的関係
・「カーキ色」が「カレーライス色」(p196)に変化する自在さについて(語りの過程での憑依?)
・「カーキ色」を「カレーライス色」と表現していいものか?

次回は、7月頃、テキストは『行方不明』、その他を予定している。
ラベル:後藤明生
posted by 乾口達司 at 10:40| 奈良 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 自己 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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