2014年04月10日

後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」6)

後藤明生をめぐる旅(福岡篇・H氏と)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・朝倉高校)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」1)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」2)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」3)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」4)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」5)→こちら

以下は後日譚。旅から戻り、数日が経過したときのことである。今回の旅で一緒だった某出版社の編集者A氏と話をする機会があった。そのなかでA氏からまことに興味深い話をうかがった。すなわち、「五月の幻想」において言及されている「橋」は後藤明生の代表作『挾み撃ち』に登場するお茶の水の「橋」ではなかろうか、と。『挾み撃ち』の「わたし」は「国電お茶の水駅前」の「橋」の上にたたずみ、「この橋は何という名の橋だろう?お茶の水橋?たぶんそうだろう」と自問自答しながら、みずからの過去を振り返る。そして、自分がはじめてこの橋の上にやって来たのがいまから20年前であること、当時、この橋は「確かライオンという筆名を持ったさる高名な流行作家の、新聞連載小説のモデル」であったことなどを物語る。「ライオンという筆名を持ったさる高名な流行作家の、新聞連載小説」とは、1950年5月26日から12月11日まで「朝日新聞」に連載された獅子文六の『自由学校』のこと。「九州筑前の田舎町の新制高校生であったわたしは、たまたまその連載小説を読んでいた」という。そして、20年前、作中で「お金の水橋」と呼ばれていたこの橋の上にやって来たとき、橋の上から橋の下の情景を眺めたときのことが記されるが、注目すべきは、次の一節である。「国鉄お茶の水駅から地下鉄お茶の水駅の方へ向って右側の手摺りから眺めおろすと、濁った水流を挾んで右側が国電のプラットホームだ。もちろん当時はまだ赤い地下鉄は走っていなかった。その代わり、濁った水流を挾んで左側の土手には、ライオン氏の小説に書かれていた通りの、バタ屋部落が見えたのである。何不自由のない暮しをしているサラリーマンが、ある日とつぜん家出をする。その彼が自由を求めて転り込んだのが、『お金の水橋』下のバタ屋部落だった。なるほどこれが『お金の水橋』下のバタ屋部落か!わたしは外套のポケットに両手を突込んだまま、眺めおろした」。この一節を先に引用した「五月の幻想」の第2連と比較してみよう。「こんなところもあったのだ。/ボクが思はず立ち止って、再び歩き出した そこの、/あんこのしぼり汁みたいな水が底の方で、/三そうの、灰色の小舟をやっと支へてゐる/その川の橋のたもとは、/確かに有史以前の世界に、/しかも二千年後の、金属と、加工品と 原始林の自然よりも/もっと原色的な世界を、あのテレビジョンよりも/もっと易々と眺めながら暮してゐる一群の人々のパオだった」。「バタ屋部落」にあった掘っ建て小屋やそれに類する住居をモンゴル高原の民が使用する移動式住居「パオ」に見立てることが、果たして、適切であるかどうか。そのことはいまは問わない。しかし、その点に目をつぶれば、描写された情景の類似性から見て、「五月の幻想」における「その川の橋」が『挾み撃ち』に登場するお茶の水の「橋」と同一であると考えることは、可能であろう。もしも、それが正しいとなれば、「五月の孤独」はまさしく『挾み撃ち』の原点というべき詩篇であるということになる。(続く)
ラベル:後藤明生
posted by 乾口達司 at 20:56| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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