2014年04月04日

後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」2)

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後藤明生をめぐる旅(福岡篇・H氏と)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・朝倉高校)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」1)→こちら

注目したいのは、最後の行に記された日付である。そこには「一九五三・五・一三」と記されている。校長室で実物を拝見したとき、私は「一九五三」の部分を「一九五二」と判読した。インクが若干にじんでいることもあり、「三」が「二」に見えたのである。「一九五二」は昭和27年に当たる。この年の春、後藤明生は朝倉高校を卒業している。そして、東京外国語大学の受験に失敗したため、そのまま関東に踏みとどまり、浪人生活を送っている。その日付から推測して、本篇は、上京後、しばらくして執筆され、どういった経緯であるかは不明ながら、朝倉高校の校長室に飾られて来たものである。そのように考え、そのことを校長先生や事務局長にお話した。しかし、帰宅後、デジタルカメラで撮影して来た画像を確かめ、いまでは「一九五二」は「一九五三」の見誤りであったという考えに傾いている。使われている用紙は「工藝指導所」の専用便箋。「工藝指導所」とは、日本固有の工芸品の改善や発展をはかるため、1928年、商工省によって設置された機関である。その第一号は仙台に設置され、数ヶ月の短いあいだではあったものの、ドイツ出身の建築家ブルーノ・タウトも顧問を務めている。『関係』(旺文社文庫/1975・6)の巻末に付載されている「自筆年譜」1953年(昭和28)の項目には「福岡県出身の知人U氏の紹介で通産省産業工芸試験所図書室のアルバイトを三十年くらいまで続けた。その図書室でボッシュ、クレー、モンドリアンなどの絵を知り、刺戟を受け、興味を持った」(p329)という記述が見られる(ただし、1978年6月刊行の『筑摩現代文学大系96―古井由吉 李恢成 黒井千次 後藤明生』所収の自筆年譜では「福岡県の知人U氏の紹介で某国立試験所図書室で昭和三十年頃までアルバイトをした。そこでボッシュ、クレー、モンドリアン等の絵を知り、刺戟を受け、興味を持った」という記述が1952年の項目に記されている)。この時期、工藝指導所は産業工芸試験所へと名称や組織を改変しているが、便箋は工藝指導所名義のものが残っていたため、それが使われたのであろう。ちなみに、後藤明生は当所でR.C.Hiscock“LIGHT FITTING DESIGN PROBLEMS”の翻訳を長狂平と共同でおこなっている。その翻訳は「照明器具デザインの問題」という題名で「工芸ニュース」第21巻9号(1953年9月号)に掲載されている。(続く)
ラベル:後藤明生
posted by 乾口達司 at 21:10| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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