2013年02月05日

兵庫・岡山紀行(親王塚)

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兵庫・岡山紀行(仁豊野)→こちら
兵庫・岡山紀行(常福寺)→こちら
兵庫・岡山紀行(宮ノ前古墳群)→こちら

常福寺からは暮坂峠を目指した。田川神社方面と暮坂峠方面への分岐点の手前でふと左手の田畑を眺めると、なにやら石碑のようなものが建てられている。何だろうと思って近寄ってみた。石碑には「親王塚」と刻まれている。後日、調べてみると、どうやら後醍醐天皇の皇孫で大塔宮・護良親王の皇子であるとされる興良親王(陸良親王)の陵墓であるという伝承があるようだ。『太平記』巻34「銀嵩軍事付曹娥精衛事」によると、「吉野ノ新帝」=御村上天皇の即位後、征夷大将軍となった「吉野ノ将軍ノ宮」=興良親王は紀伊国における四条中納言の敗退を聞きつけ、みずから出陣を決意。兄弟間の不和が原因で南朝方に帰順していた赤松氏範に吉野十八郷の兵を副へて出陣することとなる。しかし、事態はここから意外な方向に展開する。「吉野ノ新帝ヲ亡シ奉テ、武家ノ為ニ忠ヲ致シテ、吉野十八郷ヲ一圓ニ管領セバヤ」と思い立った親王は北朝方の将軍・足利義詮と通じ、賀名生の奥にある銀嵩山にて兵を挙げる。そして、賀名生・黒木の内裏など、南朝方の館を焼き払ってしまう。親王の謀反を知った南朝は二条前関白を大将軍として追討の兵を差し向ける。南朝方の強硬な姿勢を知った吉野十八郷の兵たちはこれに驚き、散り散りに失せてしまう。勝ち目がないことを悟ったのであろう。氏範は親王を南都方面へ落ちのびさせ、みずからは降人となって本国・播州へと舞い戻ったという。『太平記』の作者は親王が謀反を思い立った理由を「何ナル物狂ハシキ御心ヤ著ケン」といぶかり、その結末までを含めて、「不思議ナリシ御謀反也」と締めくくっている。「物狂う」としかいい表せないほど、当時、南朝・北朝いずれにおいても繰り返されていた裏切りが原因不明で「不思議」=不条理な事態であったのであろう。「物狂う」は、当時、世のなかに蔓延していた時代の空気そのものだったのかも知れない。当地に興良親王のものと伝わる塚が残されているということは、南都方面に落ち延びた後、親王は相変わらず氏範を頼り、塚のある香寺町須加院地区を根城にして活躍していたということだろうか。
ラベル: 太平記
posted by 乾口達司 at 21:28| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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