2013年01月25日

生駒市の神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑。

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「神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑」と刻まれた石碑が富雄川の東岸(生駒市上町)にある。裏面には「神武天皇戌午年十二月皇軍ヲ率ヰテ/長髄彦ノ軍ヲ御討伐アラセラレタリ/時ニ金鵄ノ瑞ヲ得サセ給ヒシ二因リ/時人其ノ邑ヲ鵄邑ト稱セリ聖蹟ハ此/ノ地方ナルヘシ」と刻まれている。建立は昭和15年。これまでに見て来た神武東征関連の石碑に比べると、はるかに巨大である。石碑を建立した有志の強い思いがうかがえる。もちろん、私は当地において実際に神武天皇率いる東征軍と長髄彦=登美毘古との戦いが繰り広げられたとは考えない。神話の類を史実としてとらえることには懐疑的である。確かに富雄川沿いには「鵄山」と呼ばれる丘陵が存在する。「鵄山」には「金鵄発祥之處」と刻まれた石碑が立つ。今回の探訪では訪れなかったものの、白庭台地区には「饒速日命墳墓」「長髄彦本拠」「鳥見白庭山」といった文言が刻まれた石碑も点在する。真弓地区には「真弓」の地名の由来となった真弓塚もある。これらは、池田勝太郎代表/池尾宥祥編輯『金鵄発祥史蹟考』(増補再版・第4版/金鵄会/1939・6 )において、いずれも神武東征神話と関わりのある史蹟として紹介されている。しかし、それらが富雄川の流域に存在しているからといって、東征神話が史実であったという証拠にはならない。何しろ、それらの石碑が建てられたのは『古事記』や『日本書紀』に記された神武天皇の時代からは2600年近くも後のことなのである。真弓塚もまた長弓寺の創建に関わる奈良時代の史蹟として伝えられているに過ぎない。私自身は、現在、生駒山地の一角にある「十三塚」を「とみづか」と読み、「十三塚は養老の『軍防令』の規定にならった古代の烽台跡ではなかろうか」(「十三塚」/『地名伝承論―大和古代地名辞典』所収/名著出版/1990・10)と考える池田末則の論考との関わりから、「トミ」の地名を持つ当地=登美=富雄の歴史をとらえてみたいと思っている。池田によると、「トビ」や「トミ」といった音をふくむ地名は古代の「烽」(飛火)にちなむという。すなわち、古代の「烽」にちなんだ当地が後代に東征神話と結びつき、あたかも長髄彦=登美毘古の本拠地であり、同時に東征軍との激戦の地であったかのように解釈されたのではないか、と。「時人其ノ邑ヲ鵄邑ト稱セリ聖蹟ハ此/ノ地方ナルヘシ」という文言の刻まれた巨大な石碑を前にして、あらためて神話と史実との違いについて考えた。
ラベル:神武天皇
posted by 乾口達司 at 19:53| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 散策 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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