2011年10月16日

後藤明生を読む会(第6回)

後藤明生を読む会(第5回)→こちら

昨日は後藤明生を読む会の第6回目がもよおされた。今回のテクストは「鰐か鯨か」(『謎の手紙をめぐる数通の手紙』集英社/1984・2)である。いつものように代表の発表者が基調報告をおこなった。今回の発表は私が担当した。その後、参加者で討議がおこなわれた。今回も話題となった事柄をアトランダムに列記しておこう。「講演」=「言」(口語)と「メモ」=「文」(文語)のズレをテーマにしている小説である、後の「禁煙問答」にはじまる「講演体小説」の前段階にある小説として読むことが出来る、講演という枠組みとその内容とが意識的に切断されている、講演という枠組みが必然的に強いる諸力を排除し、枠組みにとらわれないで自由に語りを展開されるために枠組みと内容との切断がはかられている、『白鯨』についての「わたし」の語りを「粗筋」「解説」「書誌情報」「分析」「薀蓄(本筋とは関わりのない)」「引用」「回想」「断わり」「冗談・諧謔」に腑分けする、『白鯨』の持つ超ジャンル性が「わたし」の語りそのものに反映されているということ、「鯨と鰐」という演題と「鰐か鯨か」という小説のタイトルとのズレ、「と」という並列=共存関係を指し示す助詞が二者択一的な選択を強いる「か」という助詞に変化していること、「と」という助詞に象徴されるような言葉の単純な並列=増殖だけでは小説ではあり得ない、そこに「か」という助詞に代表される「格闘」「戦い」としての対立関係が導入されてはじめて小説になり得ると後藤明生は考えていたのではないか、初出版・単行本版と文庫版における「わたし」の演題のズレ=2種類の「鰐か鯨か」の存在、「わたし」の語った講演の題名は「鯨と鰐」なのか、それとも「鰐と鯨」なのか、「鰐」と「鯨」のあいだで決定不能におちいっているのは「わたし」=作者だけでなく、読者もまた同様であること、『聖書』の持つ断片性、近代以前の『聖書』の扱われ方、「わたし」という人物の不透明な存在性について。次回の研究会は来年1月の予定。次回は『夢かたり』(中央公論社)について討議をする予定である。忘年会として年末には『しんとく問答』ゆかりの地を散策するというプランも持ち上がっている。こちらも楽しみである。
ラベル:後藤明生
posted by 乾口達司 at 21:22| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 自己 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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