
超昇寺は、835年、平城天皇の第三皇子であった高岳親王(真如法親王)によって創建された。現在でも超昇寺のあったとされる佐紀町には寺院を連想させる「門外」「寺畑」「衛門戸畑」といった小字名が残されている。平安末期以降、何度か兵火に遭うが、江戸時代、河辺左大臣の後裔であるとされる河辺家出身の高僧・隆光によって復興される。しかし、明治の廃仏毀釈で廃絶。山門は北新町の正行寺に、仏像の一部は二条町の歓喜寺にそれぞれ移された。超昇寺伝来の阿弥陀如来坐像は、昨年、奈良国立博物館に展示されたときにはじめて拝観した。かねてより拝観したかった仏像だけに対面を果たしたときは感動したものである。写真は佐紀神社の北方に位置する小さな森のなかに立つ板碑。超昇寺のあったとされる場所の大半は宅地化されており、当時をしのぶものといえば、この石碑と佐紀幼稚園の南側に立つ隆光の墓石くらいであろうか。超昇寺の被官が在地領主化して超昇寺氏となり、超昇寺城や佐紀城(ともに廃絶)を構えたことを知るものも少ないだろう。
ラベル:寺