2010年08月27日

伊藤和『伊藤和詩集』6

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一方、「すいか」を読むと、伊藤和の詩の放つ力強さが他者に対するあたたかな眼差しと表裏一体の関係にあることがうかがえる。

あせがながれる
かんかんてる

ガキらは どんなに たべたいであろう
しるのしたたる まっかなスイカにむしゃぶりついて
はらをてんてんたたくまで

はたけのなかに おおきくそだち
あっちに ごろり
こっちに ごろり
そのうえに つると はがかむさり
はなもたくさんついている

そして かんかんてりますから
スイカはあかくいろづいたろう
ひとつ ひとつ ゆびでつついて
はやくまっかにならないか
ああ おおきくなった はつなりとにばんなり
おおきい おおきい おつきさまのようだという
ガキらは よる そのゆめをみるだろう
そして
はたけのなかに はなとはなをむすばせながら
おおきい はつなりとにばんなり
おららとみんなと わけてたべたい

ガキらは
どこのガキらも おなじことです

けれど かってにたべてはならないど
かってにたべてしまってどうするか
おとなは ガキらを しからねばならない

ああ おとなは やっぱりかなしいだろう
おおきい はつなりとにばんなり
くるまにつんで とおくのまちへ
あせをながしてうりにゆく。
(『伊藤和詩集』83〜83頁より)

ここには伊藤和の優しさとともに現実批判としての眼差しも認められる。現実を批判する一方、すいかを「ガキら」に食べさせてやれないことに対する悲哀もにじみ出ている。いわば、人が社会で生きてゆくということに対する矛盾が総合的に表されている。それは人生そのものであるといって良い。しかし、そうであるからこそ思うのは、伊藤和が抱いた他者に対する信頼をいまの時代にここまでストレートに表現することが出来るであろうかということだ。人生の悲しみや怒りを西瓜に託してストレートに綴る。ある意味では幸せな時代であったと思う。「コップ酒屋にいる男の群」や「高神村事件のときの詩」のように、農村の荒廃が叫ばれ、農民と資本家や国家とを明晰な二分法で構造化することが出来なくなった現代から振り返ると、それらを単純に羨ましく思う。その意味では伊藤和の詩群は反復し得ない一回限りのものである。しかし、反復し得ないからこそ、伊藤和の志はいまもなお私の心を打つ。コップ酒を呑むとき、私は「コップ酒屋にいる男の群」を思い出すだろう。西瓜を食べるときには「けれど かってにたべてはならないど/かってにたべてしまってどうするか/おとなは ガキらを しからねばならない」という一節を思い浮かべることだろう。いまは西瓜の季節である。西瓜を食べながら「ああ おとなは やっぱりかなしいだろう/おおきい はつなりとにばんなり/くるまにつんで とおくのまちへ/あせをながしてうりにゆく」という一節を思い浮かべる。
(終わり)
ラベル:伊藤和
posted by 乾口達司 at 23:20| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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