2010年08月25日

伊藤和『伊藤和詩集』4

伊藤和『伊藤和詩集』1→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』2→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』3→こちら

大地に根を張って生きる農民として、自分たちに恵みをもたらす自然と調和しながら生きる。伊藤和の描く個はこのような存在である。それが労働を介して同じ農民やプロレタリアートと結びついたとき、「コップ酒屋にいる男の群」のような作品が生まれる。

町に行きコップ酒屋のノレンをくぐる
安い酒を一杯 注文する
土間をあらいざらい電灯が照らしている
しなびた瓜漬を噛んでは牛のように舌を出し醤油のジャミた唇を舐め
百姓の仲間がいる 土方の仲間がいる 馬車挽きの仲間がいる
おいらはみんな安い酒一杯二杯では酔わない唇をなめずる
なにしろ腹の虫がおさまらない
モウ一杯から 二杯となり五杯六杯とかさね酔ってくる
コップ酒屋にいる男の群!
おいらをヤクザ者と告げるお定まりのりんしょく共はここにはいない
あつい等はたぶん貯金をする話をし政府をほめながらあいつ等の家にいる
何も持たないヤクザ者には困るとあいつ等が云う、そしておいらはコップ酒屋の腰掛にいる

そうだ、ここにおいらが酔っている
馬のように達者で いくらでも呑みたい唇を舐めずり
空になるコップを冷笑し
また腕と腕が唸りミケンから血を流すそんな喧嘩もやり
おいらの眼はあいつらが震えるほどすわっている
全く それならば何が喧嘩をさせるのか、なんて理屈はヤボなことだ
喧嘩でもなんでもやるときはやる
胸がむかつく コップ酒
コップ酒屋に来て見て驚く奴には毒だ
おいらが酔っている
で、結局 血を拭ってまた呑み直しおいらは大いに笑う
(『伊藤和詩集』38〜40頁より)

語り手は伊藤和自身を連想させる「おいら」。「おいら」は「百姓」や「土方」や「馬車挽き」たちの様子を描きながら、彼らに交じってコップ酒をあおる。そして、「貯金をする話をし政府をほめ」る「あいつ等」に対して激しい憎悪を抱く。「血」や「喧嘩」という言葉からは、当該シーンが「あいつ等」を相手に闘い、傷ついた後のエピソードであることを暗示している。「あいつ等」との闘いはどうやら芳しい成果をあげるまでにはいたらなかったようである。そのことがみずからの怒りや遣る瀬無さを増幅する。その激しさがときには意味の通りにくい文章となって現れることもある。「おいらはみんな安い酒一杯二杯では酔わない唇をなめずる」という一文は「おいらはみんな」と同じように「安い酒一杯二杯では酔わない」、酔えないで「唇をなめず」っているといった意味であろうか。注目すべきは、「おいらはみんな」という部分が、「おいら」と「百姓」や「土方」や「馬車挽き」たちとを同質の存在として伝えていることである。「おいら」は筆者個人である。それとともに「百姓」や「土方」や「馬車挽き」でもある。すなわち、「おいら」は個であって同時に集団である。彼らを含めた被抑圧階級の集合的=象徴的な存在である。もちろん、「あいつ等」から蔑視される「おいら」(たち)は、彼らによって強権的に抑圧される対象であるがゆえに不安定な自己存在を強いられる。そのことが「おいらはみんな安い酒一杯二杯では酔わない唇をなめずる」という一文の意味の通りにくさや不安定さに表されているのであろう。しかし、伊藤和にとって、そのような存在はみずからの望むところであったはずだ。そうであるからこそ「おいら」は「そうだ、ここにおいらが酔っている」と力強く宣言しているのである。伊藤和は、いま一度、「おいらが酔っている」と宣言する。この言葉は酒に酔った「おいら」の状態を表したものであるとともに「あいつ等」と鋭く対峙するみずからの存在をあらためて見つめ、決意を強めたことの表われでもある。いいかえれば、客観であるとともに強烈な主観そのものである。
(続く)

伊藤和『伊藤和詩集』5→こちら
伊藤和『伊藤和詩集』6→こちら
ラベル:伊藤和
posted by 乾口達司 at 23:17| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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