2009年03月08日

東大寺二月堂と奈良国立博物館。

下痢はおさまったようである。今日は昼前から外出した。まずは東大寺へ詣でた。お水取り(修二会)の期間中である。二月堂の下の食堂ではお水取りに加わる練行衆が正午からの食堂作法にのぞんでいた。西の局(あまのぞき)に座り込む。六時の勤行のうちの「日中」を拝観。礼堂で繰り返される練行衆による五体投地を固唾を呑んで見守った。それにしても、お水取りの中身を知らない人が実に多い。「日中」の勤行にのぞんで「あの人たち、いったい何をしているの?」と囁き合う声があちらこちらから聞こえた。何をしているだと?お水取り(修二会)に決まっているではないか。そういえば、食堂作法を終えて食堂から出て来る練行衆たちが閼伽井屋(若狭井)の屋根に向けて生飯を投げる。その姿を一目見ようと食堂の脇で控えている人たちに目をやりながら「みんな、誰を待ってるの?」と自分の連れ合いに訊ねる女性もいた。誰を待っているって?ここはお水取り(修二会)期間中の東大寺二月堂なのである。坊主(練行衆)に決まっているではないか。「お水取り」といえば、午後7時から上げられる松明しか思いつかない人が圧倒的に多いこと、高名な割りにその実態が知られていないことに驚かされた。

二月堂を後にして向かったのは奈良国立博物館である。3月15日まで特別陳列『お水取り』が催されている。行政書士の脇阪亮氏に頂戴した招待券で観覧した。お水取りがおこなわれる時期になると、毎年、もよおされる企画である。数年前にも観覧したことがある。しかし、今回も堪能した。二月堂本尊・十一面観音菩薩立像(大観音)の光背に刻まれた観音菩薩の群れは優美である。惜しまれるのはバラバラにくだけていることである。光背がこのようにくだけてしまっているのである。その本体がいまどのような状態で二月堂の内陣にまつられているのか、気にかかる。気にかかるが、絶対の秘仏である以上、その現状を知ることは出来ない。『類秘抄』に記されたもう一体の本尊・十一面観音菩薩立像(小観音)の白描も興味深い。大観音と同様、こちらも絶対の秘仏である。小観音の様態を知る上で貴重な一品である。お水取りの前半は大観音を、後半は小観音をそれぞれ対象にした行事であるといわれる。しかし、なぜ2体の本尊が存在するのか。それも不思議な話である。実忠和尚によって難波の浜辺で拾われたとされる小観音の来歴も謎めいている。その上、いずれも絶対の秘仏である。謎を秘めた2体の仏像である。

平常展では国宝の『辟邪絵』『地獄草紙』『六道絵』に見入った。奈良博ではお馴染みの展示品である。聖衆来迎寺所蔵の『六道絵』は、今回、もっとも良く知られた『人道不浄相』が展示されていた。うら若き美貌の女人の死体が腐乱し、鳥獣や蛆虫に食われて朽ち果ててゆくさまが克明に描かれている。まさしく諸行無常である。「この身もまたしかなり。少かきより老に至るまで、ただこれ不浄なり。海水を傾けて洗ふとも、浄潔ならしむべからず。外には端厳の相を施すといへども、内にはただもろもろの不浄を裹むこと、猶し画ける瓶に糞穢を盛れるが如し」。そして、人が次第に朽ちてゆくさまを綴ってゆく『往生要集』の世界観に通じる図像である。しかし、私はここに本作を描いた画人の優しさを見る。死体のかたわらに立っているのは桜の木であろうか。風に舞い散る花びらが物悲しい。しかし、それは醜く朽ち果ててゆく死体が決して孤独ではないことを伝えている。死体とともに桜もまた花を散らしているではないか。諸行無常は人にだけ科せられた宿命ではない。森羅万象すべての宿命なのである。朽ち果ててゆく死体に寄り添うようにして描かれる桜の様態が見るものにそう訴えかけているかのようだ。しかも、枝にはところどころ青葉が芽吹きはじめている。風に花を散らす桜はその身にすでに新たな生命を宿しているのだ。この点にこそ本作をグロテスクな図像であるといって済ませることの出来ない魅力の一因があると思う。金工では西大寺所蔵の国宝・金銅透彫舎利容器の繊細な作りに魅了された。
posted by 乾口達司 at 23:36| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 散策 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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