2009年02月17日

大和郡山市の牛の宮。

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牛の宮の伝承を知ったのは小学生のときである。奈良県内の伝承や民話を紹介した冊子に掲載されていた。その内容はおおよそ次のとおりである。池之内の農家に少年が働きに来た。少年の年季は6年。少年は実に良く働いた。しかし、年季を3年ほど残したある日、少年は病にかかって他界してしまった。ある夜のことである。主人の夢枕に少年が立った。少年は年季をまっとうすることが出来なかったことを詫びた。そして、翌日、主人の家に牛が引かれて来ることを予言した。残りの年季3年は自分の代わりにこの牛を使役して欲しい。少年は主人にそう告げると姿を消した。翌日、少年のいうとおり、一頭の牛が主人の家の前に引かれて来た。主人はこれを買い求めた。牛は少年と同じく良く働いた。そして、少年の残した3年分の年季をまっとうすると死んでしまった。主人は塚を築いて牛を丁重に葬った。それが池ノ内に残されている牛の宮であるという。もちろん、その話が実話かどうかはわからない。同じような話が全国に残されているような気がする。取り立てて珍しい話でもなかろう。しかし、私はかねがね牛の宮を訊ねてみたいと思っていた。調べてみたところ、牛の宮は現在でも大和郡山市池ノ内町に実在するようである。電車に揺られてJR大和小泉駅まで足をのばした。地図を片手に奈良方面へしばらく戻る。線路沿いにてくてく歩いてゆく。大和中央道の高架下をくぐって農道を東へ進むとJR関西本線の踏切とぶつかる。踏切を越えて5分ほど歩くと左手に小さな森が見えて来る。これが牛の宮である。盛り土の上には「うしの宮」と記された真新しい石柱が立っている。「う」も「し」も曲線から成り立っている。そのせいだろうか。平仮名で表された「うし」のバランスが何となく悪い。そのぶん、ユーモアをたたえているともいえるだろうが、じっくり見れば見るほど、そのバランスの悪さがますます気になる。なぜ漢字で「牛」と書かなかったのか。なぜ平仮名で「うし」と表したのであろうか。謎は深まるばかりである。謎といえば、牛の宮がいったい何なのか、これまたさっぱりわからない。確かに何かを埋葬したような痕跡が認められる。しかし、本当に牛を埋葬したものかどうかはわからない。あるいは古墳の残骸なのであろうか。大和小泉のあたりには幾つかの古墳が点在している。代表的なものとしては小泉大塚古墳や六道山古墳などが挙げられる。本来、牛の宮もそういった古墳の一つであったのかも知れない。古墳の残骸ではなかろうか。その思いを証明しようと思って盛り土の上をウロウロしてみた。しかし、埴輪の破片などは見つからなかった。ウロウロしているとそのすぐ北側をJRの列車が猛烈なスピードで駆け抜けていった。
ラベル:古墳
posted by 乾口達司 at 20:42| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 散策 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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