2009年02月11日

祈りは世界に通じるか?

以前、読んだ書籍に「祈りは世界に通じる」といったような文言が断定口調で記されていた。全世界の人々が平和を願えば、地球上から戦争はなくなる。核兵器も廃絶される。人々の祈りが世界を変える。みなさん、平和な世界が築かれるように祈りましょう。こういった意味合いで使われていた。この趣の発言は他の書籍やメディアでもしばしば発せられる。ことさら宗教的な人物だけがそう発しているわけではない。宗教とは関わりのないような一般の人から発せられることもある。最近、特に目立つようになって来たような気がしないでもない。同様の論法はいわゆる差別問題でもしばしば使われる。人を差別してはいけません。自分のなかにある「差別する心」をなくしましょう。「差別する心」をなくすことが差別問題を解消する第一歩です、と。本当なのだろうかと思う。残酷なのであろうか。私は祈りが世界に通じることはないと思っている。もちろん、祈るという行為は崇高である。美しい。しかし、「祈り」で世界を安寧に導けるとは思えない。「祈り」によってアフガニスタンでの戦争が終結しただろうか。イラクにおける混乱が終息しただろうか。「差別する心」をなくして本当に差別問題が解消するであろうか。戦争とは政治上の一形態である。差別もまた差別するものと差別されるものとのあいだに横たわる現実的な諸関係から派生して来る。いわば、現実の所産そのものである。一方、「祈り」や「心」は内面の産物に過ぎない。現実の変革を内部世界の変革によって行使することにどれほどの意味や効果があるというのだろうか。私にはこういった「祈り」や「心」の押し付けが何やら思想統制のような傲慢で高圧的な行為に思われる。全体主義的でキナ臭いものに感じられて仕方がない。平和な世界が築かれるように祈りましょう、だと?自分のなかにある「差別する心」をなくしましょう、だと?他人になぜ自分の心のうちまで強制されなければならないのか。何をどう思おうと私の自由ではないか。もしかするとそれは戦争や差別といった現実の事象そのものから眼を背けさせるための方便に過ぎないのではないか。「祈り」や「心」の重視をとなえている人たちはそれぞれの思いとは裏腹に結果として現実の変革を阻害することに加担しているのではないか。穿った見方といわれるかも知れない。しかし、この種の発言を読んだり、耳にしたりするとしばしばそう思ってしまう。戦争や差別の廃絶は「祈り」や「心」の充実によっては果たし得ない。戦争や差別を誘発する現実上の要因を粘り強く一つ一つ具体的(現実的)に撲滅する。そして、戦争や差別を生まない物質的な諸条件を現実として構築してゆく。それ以外にあり得ないと思う。近年、「道徳心の復興」を掲げる政治家が多い。宗教家や教育者が「心」の問題に言及することには一定の理解が出来る。しかし、現実の諸問題に関与する政治家が卑しくも「心」について語るべきではない。「心」について声高に叫べば叫ぶほど、その裏には現実的且つ政治的な何らかの意図が隠されているはずだからだ。それはむしろ「祈り」や「心」の冒涜である。
posted by 乾口達司 at 00:15| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 想い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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