2008年10月29日

長尾五一『医薬と神仏』

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長尾五一の『病気と縁起』を紹介したのは10月17日の日記だった。それからふたたび「中二階」に潜り込んだ。そして、新たに『医薬と神仏』(昭和43年3月、長生会刊)を見つけた。『医薬と神仏』は「医薬」=真と「神仏」=信との関わりをさぐった論考である。「医薬の神々」「医薬の仏達」「新興宗教と医療」「医療に関する迷信・行事」「東洋の医神・医聖」「わが国の漢方医聖たち」「外国の医神・医聖たち」「洋方伝来の使徒たち」「洋医開拓の先駆者たち」「近代日本医学の先覚者たち」の計10章から成り立っている。「医薬の神々」では、人々が延寿長命を祈願に詣でる滋賀県の多賀大社や祇園御霊会を起源に持つ京都・八坂神社、我が国の神農・黄帝格の神々である大国主命と少彦名命を祀った奈良・大神神社や京都・鞍馬の由岐神社、各地の御霊神社、「デンボの神さま」として知られる大阪の石切神社、道修町の神農さんなどが紹介されている。「東洋の医神・医聖」ではおもに中国の「医神」「医聖」が紹介されている。東洋医学の歴史に詳しくない私のような門外漢でも耆婆・扁鵲・華陀といった名医の名前くらいは知っている。しかし、後漢の張仲継や隋の巣元方、明の李時珍といった人々については名前すらも知らなかった。それだけに大いに参考になった。参考になったといえば、同じ東洋医学でも古くより外科の発達したインドと「死者に対しては尊敬と恐怖の念を抱き、屍体の保存については慎重な手段を講じた」ために「解剖が発達せず、人体を哲学的観念的に観た」中国医学とを比較している点も同様である。長尾五一は次のように記している。

中国医学の欠陥は解剖学が殆ど無視された点にある。針灸を施すための人体表面における測定や骨の起伏を詳しく説くが、内部の構造では膵の存在を認めず、五臓は肝、心、脾、肺、腎とし、六腑では胃、小腸、大腸、胆、膀胱のほかに三焦(上焦は心と胃の間、中焦は胃の中、下焦は膀胱の上にあって排泄を司るという)を加えている。また腎臓の働きを誤解しており、そこで尿が出来ることは欧州の医学が伝わるまで知られなかった。神経、血管についての詳細な記述もなく、経路という想像的なものが入っている。

長尾五一によると、中国に西洋医学が本格的に入って来るのは清の時代になってからであるという。康熙帝はフランス人宣教師にフランス語の解剖書を満州語に翻訳させた。その成立時期は1720年頃のこと。しかし、ここでも中国は遅れをとってしまったようだ。そのことは次の一節からうかがえる。

これを漢文に訳し、出版する考えをやめ、三部だけ清書させ、自分の手元、宮中の書庫、熱河の離宮に保存した。特別の研究者には書庫で読むことを許したが、持出しや転写を禁じた。折角の飜訳も医学の革新を起こすことなく、皇帝ひとりの好学心を満足させるに止まったことは惜しまれる。結局中国に西洋の解剖書が入るのは、十九世紀の半ば頃で、マカオ医院の長であった英人ホプソンが一八五一年全体新論を出した以後である。

一方、誰もが良く知っているように、日本では杉田玄白たちが『解体新書』の翻訳を手がけた。その刊行は1774年のこと。『解体新書』の刊行が、明治以降、日本で西洋医学が急速に広まる原動力となったことは明らかであろう。長尾五一は「中国人には中華思想が根底にあるので、政治家の中には世界の趨勢と妥協しないところがあるように思われる。逆に日本人には外国崇拝の心があり、外国文化を取り入れることは急であるが、自ら創造する気概が乏しかったように見受けられる」と結んでいる。こういった点にも日本と中国とのお国柄が出ている。そのことを知ったのも収穫だった。『医薬と神仏』では他にも日本や西洋の名医が数多く紹介されている。そのほとんどがはじめて耳にする人物である。医学の歴史を知る上で格好の一冊である。
ラベル:神仏 医学
posted by 乾口達司 at 18:39| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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