2008年10月10日

「週刊時事」編集部編『人と勲章』

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実家に「中二階」と呼ばれる十数畳分の細長い空間がある。1階の屋根裏に当たる空間である。しかし、1階からは階段でつながっていない。2階から下に降りるという形で連結している。1階と2階のあいだに位置している。そのために「中二階」と呼ばれている。「中二階」はおもに物置として使われている。いまでは使われなくなった日用雑貨や封すら開けていない贈答品、骨董、古道具などが積み重ねられている。子どもの頃はかくれんぼのための格好の隠れ場所だった。実家に遊びに来た同級生たちとしばしば「中二階」にもぐり込んだものである。来年、家屋の一部をリフォームする。その一環として「中二階」にも少し手を加える予定である。したがって、リフォームがはじまるまでに「中二階」に収納された物品を整理しなければならない。必要なものは残す。不要なものは廃棄する。現在、家人はその選別作業に追われている。私も実家に帰った折にはときどき作業に加わる。先日は古伊万里の蕎麦猪口を見つけた。唐招提寺・金堂の国宝・千手観音菩薩立像を撮影した畳一畳分ほどもある大判の写真パネルも発見した。骨董や古道具の発見はまだまだ続きそうである。

書籍類では「週刊時事」編集部編『人と勲章』(昭和44年4月、時事通信社刊)の発見に興奮した。さまざまな職業に従事する職人たちに取材をしたインタビュー集である。もちろん、インタビュー集そのものは有り触れている。特に貴重であるとはいえない。しかし、『人と勲章』は私にとってはかけがえのない一冊である。その理由は『人と勲章』が我が家の祖に当たる乾口与蔵のインタビューを収録しているからであった。家人のなかには『人と勲章』の存在を知っているものはいなかった。与蔵が「週刊時事」のインタビューを受けたことを記憶しているものもいなかった。タイトルは「製墨五十八年」。「奈良墨は千二百年の歴史に生きる古都奈良の伝統産業。その墨づくりに五十八年間打ち込み、昭和四十二年秋、勲七等に浴した人――それが日本製墨合資会社製造部職長で奈良市法蓮町に住む乾口与蔵氏(七二)である」という一節から書きはじめられている。与蔵は室町時代から続く奈良の名産品の一つ・奈良墨の職人だった。小学3年だったか。4年生のときだっただろうか。社会見学で墨工場を訪れた。見学先は与蔵の勤務していた日本製墨合資会社である。与蔵は見学の数年前に他界していた。しかし、与蔵の弟子が作業長屋で何人も働いていた。私とは顔見知りの職人もいた。しっかり勉強しているか。そう声を掛けられたことを憶えている。職人たちは胡坐をかいて真っ黒な墨をこねたり、丸めたりする作業を繰り返していた。単調な作業の連続である。しかし、墨作りの現場においてはその単調な作業にこそ熟練の技が求められる。今回、そのことをはじめて知った。『人と勲章』には次のように記されている。

墨の原料は種油または松ヤニを燃やしたスス。種油は専門家向けの上質もの用で、ほとんどの墨は松ヤニをつかう。作業は、ススにニカワをまぜて固まらせることからはじまる。/このまぜかたが職人の腕のみせどころ。いまは機械化が進んで、かくはん機が使われているが、最近までは手と足をつかっての重労働だった。よく練りあわせた墨のダンゴを型につめこむと、できあがり。一見、単純な作業に見えるが「五本の指で型に押し込むのですが、指の力のバランスがくずれると、内部に筋がはいってしまうし、できあがってからの形が、いびつになります」と乾口さんは説明する。/墨で黒光りした座ぶとんに、ずっとすわったままの労働である。五十年以上も座業の連続では、腰に異常をきたしはしないかと心配すると、乾口さんは「冗談じゃない。この年までカゼで寝込んだことが一度あるだけで、腰痛なんぞは考えたこともない」と、言下に打ち消す。

与蔵が見習い工として入ったのは明治43年のこと。当時は午前3時起床、4時から仕事に取り掛かったという。「雑役のような仕事をつづけること六年、やっと墨型を手にすることができた」という一節からは墨職人としての厳しさと誇りが伝わって来る。昭和十年頃の賃金は上物師が七円五十銭、安物師でも三円五十銭。「上物師は大工の三倍が通り相場だった」そうである。興味深いのは「大工さんの三倍もらっていた昭和十年、市内の全職人が親方衆に賃上げを要求して、あるお寺に一週間ほどろう城、ストライキをやったことがあります」という証言である。親方には絶対服従の徒弟制度のもとでストライキを起こすとは何とも勇ましい。「このように乾口さんは製墨業界の労働運動の先駆者であり、戦後結成された奈良県製墨労働組合の発足にも、ひと役買っている。現在、この社会に退職金制度や共済制度ができたのは、乾口さんの働きによるところが少なくない」。与蔵にこういう歴史があったことは知らなかった。晩年の与蔵しか知らない私には意外であった。人に歴史あり。その言葉をあらためて思い起こした。文中には与蔵の写真が掲載されている。真正面を見ず、右斜め前方に眼を向けている。禿頭姿が印象的である。写真は私の生まれる前のものである。しかし、その姿は私の知る与蔵そのものだった。
posted by 乾口達司 at 23:33| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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