2008年09月09日

挨拶について。

挨拶は対人関係の基本である。あらためて書くまでもない。当たり前のことである。しかし、その当たり前が出来ない。最近はそんな人が多いようだ。自分の仕事と関わりのある情報があれば教えて欲しい。同年輩の女性からそう頼まれた。昨年末のことである。それから1月ほど経ったある日のこと。たまたま彼女の仕事と関わりのある情報を入手した。彼女の言葉が咄嗟に思い浮かんだ。教えられたメールアドレスへ受け取った情報を送った。それから7ヶ月以上の歳月が流れている。彼女からはいまだに何の音沙汰もない。私が送った情報はどのように処理されたのだろうか。もちろん、この際、そんな瑣末なことはどうでも良い。寄せられた情報をどのように処理するか。彼女の立場に立てば、そんなことよりもまずは情報を受け取ったことを私に伝える。情報を寄せてくれて有難う。真っ先にそう返事をする。それが社会の常識というものではなかろうか。どうやら私の<常識>は彼女の<常識>とは大きく食い違っているようだ。私は何も私自身の自尊心をくすぐるような丁重な挨拶を欲しているわけではない。私の送った情報を是非とも活用すべきである。私の情報を活用しないとはけしからん。そんなことをいいたいわけでもない。彼女の仕事は他人から寄せられる情報を抜きにしてはあり得ない。寄せられる情報は彼女にとっては命そのものである。情報が命であるということは情報を寄せる他人もまたかけがえのない存在であることを意味する。それにもかかわらず、情報を寄せるものに対する配慮がない。そんないい加減な態度でこれから仕事を続けてゆけるのだろうか。私は彼女の先行きを心配しているのである。確かに仕事を続けてゆくことは出来るだろう。しかし、それは彼女の実力によったものではない。彼女の所属する組織のおかげである。組織の力に頼らずに自立してみるが良い。ろくに挨拶も出来ないような人物をいったい誰が信用するというのか。彼女はかつて私に次のように告げたものだ。自分はいま所属する部署の先輩を追い落としにかかっている、と。自分には先輩を乗り越える実力がある。先輩の追っているテーマは時代遅れである。いまはもう自分の時代である。そういったことを暗に誇示する発言に心の底から不快感をおぼえたものだ。しかし、まあ、それも良かろう。私には何の関わりもないことである。せいぜい追い落としをはかれば良い。「自分の時代」を謳歌すれば良いだろう。しかし、現実の彼女は他人に対して挨拶の一つも出来ない存在なのである。追い落としにかかるだと。自分の方が実力は上だと。滑稽千万、ちゃんちゃらおかしいとはまさしくこのことである。メールを受け取った。有難う。この一言がなぜいえないのか。有難う。おはよう。こんにちは。挨拶言葉は万国共通である。挨拶言葉はきわめて大胆に簡略化されている。簡略化によって言葉の意味そのものは凡庸で無意味なものに成り下がっている。したがって、言葉の意味を字義通り理解することにさしたる意義はない。しかし、注意すべきは、その大胆な簡略化が挨拶言葉に暗黙の意味を付け加える契機となっていることである。有難う。その凡庸な言葉の裏には相手の行為に対する一期一会の思いや感謝の念、今後も変わることのないお互いの絆をいま、ここであらためて確認し合いましょうといった無限の意味がこめられている。「おはよう」もしかり。「こんにちは」もまたしかり。われわれは大胆に簡略化された挨拶言葉が貧弱な字義通りの意味とは裏腹に圧倒的な存在感を誇っているという事実に驚かなければならない。すなわち、それは挨拶言葉にとって欠かすことの出来ない他者が凡庸でありながらも無限の存在を有していることにつながっている。言葉を畏れよ。他者という存在に瞠目せよ。彼女に対していいたいことはそれだけだ。
ラベル:他者 挨拶
posted by 乾口達司 at 23:07| 奈良 | Comment(0) | TrackBack(0) | 想い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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