2008年07月11日

フィリップ・ロス『乳房になった男』

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フィリップ・ロスの『乳房になった男』(1974年2月/集英社刊)を購入した。大阪市内のとある古書店で見つけた。書架の片隅で埃をかぶっていた。懐かしい本である。学生時代の親友Yがロスの愛読者だった。Yに勧められて幾つかの小説を読んだ。そのなかに『乳房になった男』もあった。主人公は38歳のデイヴィッド・アラン・ケペシュ。ケペシュは比較文学科でゴーゴリやカフカ、スウィフトについて講義をしている大学教師である。物語はケペシュが下半身に異常をおぼえるところからはじまる。下半身の異常は急速に進行。ケペシュはまたたく間に一個の巨大な乳房に変身する。「一九七一年二月十八日午前零時から午前四時までの間」の出来事だった。

医者たちの話では、ぼくはいま全体としてはフットボールのような、飛行船のような形をした一個の有機体であると言う。体重は百五十ポンドで(もとは百六十二ポンドあったのだ)、体長は六フィートのままのスポンジまがいの密度のものになっているらしい。心臓血管組織や中枢神経組織は大部分が《異様》な形状に変形しながらもまだ残っているらしいが、それに排泄組織も《変形して原始化》しながら――ぼくはいまチューブで排泄しているのだ――また呼吸組織も体の中央部のちょっとうえにふたのついた臍状のものになって残っているらしいが、こうした人間的特徴の名残りを包みこんでいる組織の基本構造は、哺乳動物の雌の乳房のそれであるというのだ。(大津栄一郎訳)

「ホルモンの大量流入」「内分泌の病的大変動」「染色体の雌雄同体的破裂」。ロスはケペシュが乳房に変身した原因としてこれらを挙げている。しかし、さまざまな原因が挙げられるということは逆にその原因がはっきりしないことを指し示している。ゴーゴリの『鼻』は、朝、主人公のイワン・ヤーコウレヴィッチが目をさます場面から書きはじめられている。イワン・ヤーコウレヴィッチは自分の鼻が失われていることに驚く。しかし、イワン・ヤーコウレヴィッチの鼻がなぜ消え失せてしまったのか、ゴーゴリはその原因について一言も触れていない。カフカの『変身』もまたグレゴール・ザムザが目をさますところから書きはじめられている。グレゴール・ザムザは自分が「巨大な虫」に変身していることに気付く。しかし、グレゴール・ザムザがなぜ「巨大な虫」に変身してしまったのか、カフカもやはりその原因を書き記していない。『乳房になった男』も同じパターンを踏襲している。平凡な大学教師ケペシュがなぜ乳房に変身してしまったのか。その原因は最後まで明らかにされない。原因の探究は小説の主要なテーマとしては位置づけられていないのである。
滑稽なのはまわりの人々がケペシュの不可解な変身を意外に冷静に受け止めていることである。例えば、医師団が「異常な現象」と見なすのは、ケペシュが乳房に変身してしまったことではない。彼らの関心は変身前のケペシュの乳頭の色が「はっきりとしたブルーネット」であったにもかかわらず、変身後の乳頭の色が「ばら色がかったピンク色」に変化しているという一点に絞られている。ケペシュは「ぼくのこの変わりようの途方もなさに比べれば、それがとくに《異常》であるとはとても思われませんねとはっきりと言ってや」る。ケペシュにとっては「痛烈なウイットのつもりだった」。しかし、その「痛烈なウイット」もケペシュが単に「この新しい状況に、ある《適応》を示しかかっている証拠として受け取られた」に過ぎない。
父親もまたケペシュの思いを汲んではくれない。ケペシュは見舞いに訪れた父親に向かって「子供のようにぺらぺらしゃべりながら、カフカの傑作の主人公のグレゴール・ザムザがある朝目を覚まして自分が巨大な甲虫に変っているのを発見する話」や「ゴーゴリの主人公がある朝目を覚ましてみると鼻がなくなっていて、それを探しにペテルブルグじゅうを歩きまわり、返してくれと頼む広告を新聞に出し、『それ』が街を歩いているのを見かけ、そして最後にはなくなったときと同じようにわけも分らぬままふたたび顔に戻っているのを発見する話」を語り聞かせる。カフカの『変身』やゴーゴリの『鼻』を引き合いに出して熱弁をふるう乳房=ケペシュに対する父親の反応は次のようなものであった。「お前は大学でそんなくだらぬことを教えているのか?」。
ケペシュは絶望の果てにみずからが狂気におちいったと思い込む。自分は大学でカフカやゴーゴリについて教えて来た。その結果、気が触れてしまった。乳房に変身するという話はカフカやゴーゴリを教えて来たみずからの頭によって作り出された妄想に過ぎない。ケペシュはドクター・クリンガーにそのように告げる。それによってみずからの「異常な現象」から逃避しようと試みる。巨大な乳房よりも「精神病の患者」になってしまいたい。その方がよほどましである、と。ケペシュの解釈は何と歪んでいることだろう。何と奇妙な論理であることだろうか。しかし、ドクター・クリンガーの答えは冷静そのものだった。「君は気が狂っているんじゃない、君は幻想にとりつかれてるんでもないし、いままでもとりつかれたことはない。君の言う《精神分裂症的崩壊》にかかったこともないんだ。君は一箇の乳房なんだ、ある種の」。ケペシュはもはや「精神病の患者」にすらなれない。狂気におちいることすら許されない。「ドクター、ぼくたちの名前がみんな、あなたのも、ぼくのも、カフカのも、みんなKで始まっているのに気づいたことがありますか?それにまたクレアも――それにミス・クラークも」という一文からはケペシュがまさしく「K」=カフカの世界(フィクション)を現実に生きはじめようとしていることが読み取れる。物語が「お前は自分の生活を変えねばならないのだ」というリルケの詩句の引用によって締め括られる所以である。
われわれは本作からロスのどのようなメッセージを読み取るべきであろうか。そのヒントはケペシュの吐き出した次の言葉のなかに隠されている。「つまり、ぼくはけっきょくどこまでも一箇の冗談で終るというんですか?」。然りである。すべての物語が書き尽くされた現代においてなお「文学」があり得るとすれば、それはわれわれがカフカやゴーゴリの世界を現実に生きるところにしかない。虚構と現実との境界が取り払われてしまった現代社会において、身をもって『変身』や『鼻』の世界を生きること。「一箇の冗談」として生き続けること。その点にこそ現代文学に残された唯一の可能性がある。ロスはわれわれにそう訴えかけているかのようである。ロスの文学観=人生観が集約した一文である。そして、私のもっとも好きな一文でもある。ところで、ケペシュが乳房に変身した「一九七一年二月十八日午前零時から午前四時までの間」という日付には何か意味があるのだろうか。あるいはこれもまた「一箇の冗談」に過ぎないのであろうか。
posted by 乾口達司 at 18:52| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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