2008年06月24日

ゴンチャロフ『日本渡航記』2

『日本渡航記』については6月18日の日記に記した。前回は会見に当たって、日ロ双方が「坐るか坐らぬか、立つか立たぬかの問題を、それから何の上にどんな風に腰を下ろすかといふやうな問題を、幾日も幾日も議論した」ことを紹介した。議論の結果、ロシア側は椅子に、日本側は畳の上に正座してそれぞれ会見にのぞんだという。そのことも記した。しかし、ロシア側を呆れさせたのは何も「坐るか坐らぬか、立つか立たぬか」「何の上にどんな風に腰を下ろすかといふやうな問題」だけに限らない。会見の当日、「中食の饗応」を受けるか、受けぬかでも彼らはさんざん議論したのである。ゴンチャロフは次のように記している。

『さても一つ』と彼等は頼んだ。『御奉行は皆様に中食の饗応を致したい思召しで、御受け願ひたいとのことです』
『よろこんでお受け致します』と提督は返事を命ぜられた。
『要談が終つたら』と吉兵衛は続けた。『御奉行は自室に引取つて休息致されるので、そちらでも別室に引取つて御休息願ひたい』と彼は椅子の上で身をゆすぶつて、ひきつるやうに笑ひながら、附け加へた。
『その上で……中食を召上つて戴きたい』『こちらだけですか』とこちらは訊ねた。『あなたは気でも狂つたのではありませんか。ヨーロッパではそんなことはしませんよ』
『ところが日本では甚だよくやつてゐることで』と彼等は云つた。『手前共はいつも左様に……』
だがこれは嘘らしい。彼等は提督の真似をしたかつたのだ。初めて日本人が艦に艇に来た時、提督は御検使達に食事を出し、私達に相伴させて、自分は出席されなかつたのだ。
おゝそれは大変な頼み方であり、拝みやうであつた。吉兵衛はせかせかと身をくねらして、両の頬に汗を流してゐた。龍太はぺこぺこと頭を下げて、見苦しい笑ひ方をした。あの厳格さうな定五郎まで、作り笑ひしてゐた。だが私達は屈しなかつた。通詞達は悲観して終つた。彼等は溜息をついて、別の問題に移るのであつた。(井上満訳)

その日の夕刻、彼らはふたたび艦艇に乗り込んで来る。「一体何度目だい、何しに来るのだらう」「やつぱり儀式のことだよ」というやりとりからは、日本側の執拗な要請に対していい加減うんざりしているロシア側の様子が良くうかがえよう。案の定、彼らの来訪は「儀式」に関わることだった。「中食の饗応」を是非とも受けて欲しい。彼らはまたもや同じことを懇願する。「『ロシアではそんな訳には行きません』と答へてやつた。で又拝み倒しが始まつた」。さらに「翌八日、又やつて来て、例の如く、中食の饗応を受けてくれとか、日本の艀で来てくれとか拝み倒そうとやつて見たが、物にならなかつた」。そればかりではない。彼らの「拝み倒し」は会見の当日にも繰り返されたのである。

例の休憩室を通る時、通詞達が私達を呼びとめた。彼等は行手をふさいで、食事をして行つてくれと云つた。その室には大きな卓をしつらへて、大小様々の皿や瓶や、マデラや、ボルドー酒なぞ、万端の支度が出来てゐた。しかも万事がヨーロッパ式であつた。きつと卓も、食器も、酒も、そして食物までも、オランダ人から借りて来たのだらう。提督は例の絶対条件、つまり奉行が食事に列席するといふ条件を繰返すやうに命ぜられた。吉兵衛はお辞儀をしたり、両手を広げたり、引きつるやうな笑ひ声を立てたりして、だんだん食卓の方に近づいて、躍起となつて私達を招じ入れるのであつた。他の者も吉兵衛におくれじと、笑つたり、膝を曲げたりしたが、何にもならなかつた。私達は食卓をちらと見やつたが、通詞達のいふことに耳をかさずに、断乎として通りすぎた。

何と涙ぐましい努力であろうか。何と滑稽な振る舞いであることか!苦いユーモアがただようエピソードである。さながらゴーゴリやドストエフスキーの小説を読んでいるかのようだ。さすがは『オブローモフ』の作者である。『オブローモフ』の作者・ゴンチャロフの真骨頂である。それで思い出したことがある。時代は一気に百五十年後の現代に飛ぶ。やはり外交にまつわるエピソードである。「中食の饗応」をめぐる議論はいわゆる“小泉訪朝”のときにも繰り返された。そのことを思い出した。1回目の“小泉訪朝”は2002年9月17日のこと。当日、会談にのぞんだ日本側はおにぎりと味噌汁を持参した。そして、北朝鮮側の要請した「中食の饗応」を辞退した。2004年5月22日におこなわれた2回目の“小泉訪朝”のときもやはり「中食の饗応」を辞退している。「中食の饗応」を辞退したことについて、日本国内でどのような反応があったのか。はっきりした記憶はない。辞退を支持する意見もあったことだろう。その一方、首脳会談らしからぬやり方を批判する意見も多かったに違いない。もちろん、辞退を支持するか、支持しないか、そんなことはどちらでも構わない。北朝鮮側からの「中食の饗応」を辞退した日本が、百五十年前の日ロ交渉の席上、ロシア側に対して執拗に「中食の饗応」を要求していた。その事実を書き残しておきたいだけである。記録とは恐ろしいものだ。日本人がかつて外交交渉の現場においてどのように振る舞ったのか、それが如何に苦いユーモアをただよわせる言動であったのかをあぶり出してしまうのであるから。かつてマルクスはこういった。歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。『日本渡航記』を読んであらためてマルクスの言葉を思い起こした。
posted by 乾口達司 at 22:36| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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