2008年06月20日

木津川市の藤原百川の墓。

20080620-2.bmp

京都まで出掛けた。帰りは近鉄山田川駅で下車した。アル・プラザ木津で買い物を済ませた。山田川から歩いてみた。藤原百川の墓(京都府木津川市大字相楽小字城西)に立ち寄った。藤原百川は奈良時代後期の政治家。藤原不比等の三男・宇合にはじまる藤原式家の流れをくむ人物である。奈良時代の政治家といえば、いったい誰を思い浮かべるだろうか。藤原不比等であろうか。長屋王であろうか。それとも橘諸兄か。藤原仲麻呂か。百川の知名度は彼らに比べると決して高いものであるとはいえない。しかし、その功績はきわめて大きい。恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の後、称徳天皇は弓削道鏡を皇位につけようとたくらむ。道鏡事件である。百川は宇佐八幡宮へ勅使として遣わされた和気清麻呂を支援し、彼らの野望を防ぐ。称徳天皇の没後は白壁王(後に光仁天皇)の擁立を推し進め、皇統を百年振りに天武系から天智系へと転換させた。光仁天皇のあとを継いだ桓武天皇は長岡京・平安京への遷都を敢行。ここに奈良時代は幕を下ろす。百川は平安時代という新たな時代が切り開かれるきっかけを作った人物であったといえよう。779年(宝亀10)7月に死去。墳墓の前に立てられた説明版には「『日本後紀』延暦一六(七九七)年二月条には、相楽郡に墓地として二町六段の田を賜り、右大臣従二位が贈られたとある」「また、延長五(九二七)年一二月に撰定された『延喜式』の諸陵寮式には、太政大臣正一位が贈られ、夫人の墓も同所にあると記す」と記されている。敷地内には確かに小さな円墳が2基並んでいる。双方の距離はわずか数メートル。2基の円墳が互いに関連を持っていることは明らかである。しかし、ここからがいけない。説明版は次のように締め括られている。「その後墓地の所在は分からなくなったようで、明治二七(一八九四)年に至って、伝承や江戸時代の文献から藤原百川の墳墓の考証が行われ、当地を百川の墓と認定した。明治二八(一八九五)年の平安遷都一千一百年奉祝祭の際に、正式に当地に比定された。/ただし、残念ながら現在では、信用のおける文献を確認できず確定できないのが残念である」。説明版は「残念」を繰り返している。百川夫妻の墳墓であると確定することが出来ない。そのことをよほど苦々しく思っているのであろう。しかし、「残念である」はこちらのセリフである。百川夫妻の墳墓であると思って説明板を読み進めて来た観光客は最後の一節にがっくり来るはずだ。あるいは見事なオチであるというべきか。敷地内にはベンチや滑り台が設けられている。子どもたちの格好の遊び場である。墳丘の土砂もところどころ削り取られていた。
posted by 乾口達司 at 20:28| 奈良 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 散策 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック