2020年03月13日

後藤明生を読む会(第43回)開催延期について思うB

学生時代、夏目漱石の「写生文」を読んだ。そこで漱石は「写生文」を次のように説いていた。

写生文家の人事に対する態度は貴人が賤者を視るの態度ではない。賢者が愚者を見るの態度でもない。君子が小人を視るの態度でもない。男が女を視、女が男を視るの態度でもない。つまり大人が小供を視るの態度である。両親が児童に対するの態度である。世人はそう思うておるまい。写生文家自身もそう思うておるまい。しかし解剖すればついにここに帰着してしまう。
小供はよく泣くものである。小供の泣くたびに泣く親は気違である。親と小供とは立場が違う。同じ平面に立って、同じ程度の感情に支配される以上は小供が泣くたびに親も泣かねばならぬ。普通の小説家はこれである。彼らは隣り近所の人間を自己と同程度のものと見做みなして、擦すったもんだの社会に吾われ自身も擦すったり揉もんだりして、あくまでも、その社会の一員であると云う態度で筆を執とる。したがって隣りの御嬢さんが泣く事をかく時は、当人自身も泣いている。自分が泣きながら、泣く人の事を叙述するのとわれは泣かずして、泣く人を覗のぞいているのとは記叙の題目そのものは同じでもその精神は大変違う。写生文家は泣かずして他の泣くを叙するものである。
 そんな不人情な立場に立って人を動かす事ができるかと聞くものがある。動かさんでもいいのである。隣りの御嬢さんも泣き、写す文章家も泣くから、読者は泣かねばならん仕儀となる。泣かなければ失敗の作となる。しかし筆者自身がぽろぽろ涙を落して書かぬ以上は御嬢さんが、どれほど泣かれても、読者がどれほど泣かれなくても失敗にはならん。小供が駄菓子を買いに出る。途中で犬に吠ほえられる。ワーと泣いて帰る。御母さんがいっしょになってワーと泣かぬ以上は、傍人ぼうじんが泣かんでも出来損いの御母さんとは云われぬ。御母さんは駄菓子を犬に取られるたびに泣き得るような平面に立って社会に生息していられるものではない。写生文家は思う。普通の小説家は泣かんでもの事を泣いている。世の中に泣くべき事がどれほどあると思う。隣りのお嬢さんが泣くのを拝見するのは面白い。これを記述するのも面白い。しかし同じように泣くのは御免蒙ごめんこうむりたい。だからある男が泣く様を文章にかいた時にたとい読者が泣いてくれんでも失敗したとは思わない。むやみに泣かせるなどは幼稚だと思う。
 それでは人間に同情がない作物を称して写生文家の文章というように思われる。しかしそう思うのは誤謬ごびゅうである。親は小児に対して無慈悲ではない、冷刻でもない。無論同情がある。同情はあるけれども駄菓子を落した小供と共に大声を揚あげて泣くような同情は持たぬのである。写生文家の人間に対する同情は叙述されたる人間と共に頑是がんぜなく煩悶はんもんし、無体に号泣し、直角に跳躍し、いっさんに狂奔きょうほんする底ていの同情ではない。傍はたから見て気の毒の念に堪たえぬ裏に微笑を包む同情である。冷刻ではない。世間と共にわめかないばかりである。

「写生文」をはじめて読んだとき、「文学」とはこういうものかということを思ったものである。以来、「写生文の精神」を念頭に置きながら、いろいろ書いて来た。そして、その精神をもって人生を送りたいと思って来た。文学に未来などないと考えているような私にとって、かろうじて文学の可能性があるとすれば、それは「写生文の精神」を生きるということだけである。もちろん、自分とは異なる価値観の持ち主である他者と共存することなくして生きていくことが出来ない以上、「写生文の精神」を維持していられないような場面に直面することもしばしばである。実際、漱石自身も「二十世紀の今日こんな立場のみに籠城して得意になって他を軽蔑けいべつするのは誤っている」とさえいっている。しかし、今般のように「非常時」ということが声高に叫ばれるような社会情勢であるときだからこそ、やはり「写生文の精神」を実践するべきではあるまいか。「写生文の精神」を、文字通り、生きるべきではないか。何しろ「写生文」の存在を私に教えてくれた存在こそ、研究会のテーマともなっている作家であるからだ。こういった思いもあったからこそ、私は開催にこだわったのである。後は各人が参加するか、「自粛」するかを自分の頭で考え、判断すれば良いだけのことである。文字通りの「自粛」である。今後も同様の事態が起こらないとは限らない。そういったときにどのように対応するか、次回の会合ではそのことも話し合わなければならない。
posted by 乾口達司 at 00:00| 奈良 ☔| Comment(0) | 想い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする