2020年02月27日
韓国・慶州紀行(三陵谷)
その後は南山の尾根筋を北上した。ここからは道に迷うことはなかった。下山コースは幾つかあった。私たちは、金鰲峰を経由して、三陵谷を下ることにした。途中、慶州の旧市街地を見下ろせる展望場所があった。こんもりとした大小たくさんの円墳が街のなかに累々と連なっている様子が見て取れた。慶州が古墳と共存している街であることをあらためて印象付けられたものである。三陵に下るまでにもさまざまな石仏を目にした。僧坊もあった。ここでもやはりお坊さんが暮らしていた。こういった光景は日本では意外とお目にかかれないのではなかろうか。道に迷いながらも、日の暮れる前に三陵まで下りて来ることが出来たのは、まことに幸いであった。さすがに足が笑っている。「三陵」の名は、阿達羅王・新徳王・景明王という新羅の三人の王を埋葬した円墳が一直線に並んでいることにちなむ。うねうねと上へと伸びる松の大群が生命力を感じさせ、何とも艶めかしかった。バス停の向かいのオシャレなカフェでコーヒーを飲み、しばし休んだ。内装が真新しく、近年、オープンしたお店のようだった。一匹の猫があたりを徘徊していた。バス停で市街地方面に向かうバスを待っている頃には夕闇となった。秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり。バス停からはまさしくそういった光景が見られた。慶州ってええところやなぁ。あらためてそう口にした。
2020年02月26日
大和八木で一杯。
2020年02月22日
韓国・慶州紀行(茸長寺跡三層石塔)
韓国・慶州紀行(茸長寺跡へ)

正規のルートに復帰した私たちは川にかかる橋をわたり、茸長寺跡を目指した。しかし、ここからの登りが厳しかった。神仙庵からは、一度、川沿いに下っている。そして、ふたたび急斜面を登っていくのである。膝がガクガクである。せめてトレッキングポールがあれば、と思った。統一殿から七仏庵に向かう道中で私たちの前を歩いていた韓国人女性たちが、それぞれトレッキングポールを手にしていた理由が、ここでようやくわかった。南山トレッキングを舐めてかかっていた自分がいかに浅はかであったかを痛切に思い知らされた。急斜面をしばらく登っていくと、やがて視界が開けた。そこからは岩場の連続であった。少し前、遊歩道として安全柵や階段が設置されたようだ。それまではロッククライミングのようにして岩場をよじ登っていくしかなかったようである。やがて目の前に首のない石仏が現われた。茸長寺にあった石仏の一つであるようだ。
2020年02月21日
韓国・慶州紀行(もう一度、道に迷う)
私たちはもと来た道を戻った。そして、間違える可能性のあった分岐点まで戻って来た。そして、ここでやはり道を間違っていたことを完全に理解した。それからはスムースであった。あらかじめ想定した分岐点を右に曲がり、ため池を左手に見て、川沿いを下流方面に沿って下った。しかし、ここで、もう一度、トラブルが発生した。道なりに進むと、河原に出たのである。河原を少し歩くと、完全に道がわからなくなってしまった。もうすぐ川にかかる橋が見えて来るはずである。したがって、そのまま川沿いを歩いても、やがては橋にぶつかるはずである。しかし、それとは別に川に沿って設けられた正規のルートがあるはずだった。また迷ったな。そういいながら、ふと足元を見ると、細長い紙片が石の上に置かれていた。紙片の上には重しとして小さな石が置かれていた。その紙片の先に目をやると、遊歩道らしきものが見つかった。これによって私たちは正規のルートに復帰することが出来たのである。どうやら、私たちと同じように河原に出てしまった迷子のために、誰かが親切にも紙片を置き、正規のルートへ復帰する方向を教えてくれていたのである。これは実に有難かった。親切な人がいるものである。しかし、正規のルートは川沿いのどこを通っていたのだろうか。私たちは道なりに進み、河原に出てしまったのである。それ以外に間違いなく分岐点などなかった。断言しても良い。私たちはどこでどう間違えて河原になど出てしまったのか。これはいまもって謎のままである。
2020年02月19日
韓国・慶州紀行(OK Google)
「最終兵器」とは、スマートフォンに搭載された機能の一つ「OK Google」である。相棒が「OK Google」を利用して私たちの現在の位置情報を確認してくれた。「OK Google、道に迷いました。いま、いる場所を教えて」。すると、「OK Google」は次のような回答を寄越した。「あなたはいま大阪市内にいます」。そんなはずはないやろ!いま一度、私たちは「OK Google」に訊ねた。「私はいま韓国にいます。山で道に迷いました。いま、いる場所を教えて」。すると、今度は私たちに韓国語教室を次々に案内しはじめた。何を教えとんねん!「OK Google」を叱りつけると、「OK Google」は次のように返答した。「お役に立てず申し訳ありません」。
韓国・慶州紀行(南山で道に迷う)
神仙庵からは、南山の尾根筋を目指した。次の目的地は茸長寺跡である。日本を出発する前、あらかじめ神仙庵からの最短ルートを調べておいた。どこの分岐点をどちらの方角へ進むか、そのあたりも調べておいた。そして、間違える可能性の高い分岐点もしっかり確認しておいた。しかし、私たちは、結局、その間違える可能性の高い分岐点でしっかり道を間違えてしまったようである。そのため、進めど進めど、事前に調べておいた分岐点が現れなかった。道を間違えたかも。そう思いはじめたのは、間違えた分岐点を20分ほど進んでからである。道を間違えたとはいえ、道は奥へ奥へと続いていた。道の両脇に小さな土盛りが幾つも見られた。どうやら地元民の墓地であるようだった。したがって、その道をさらに進んでもどこかの集落に出るはずであった。しかし、それでは茸長寺跡へは行けない。私たちはここであらかじめ準備しておいた「最終兵器」を使うことを決断した。
2020年02月18日
韓国・慶州紀行(神仙庵)
2020年02月17日
韓国・慶州紀行(七仏庵)
2020年02月15日
韓国・慶州紀行(七仏庵へ)
統一殿を起点にした私たちの南山トレッキングの最初の目的地は「七仏庵」であった。七仏庵までは1時間たらずであった。山道は綺麗に整備されていた。歩きながら気づいたのは、山道の両脇に自生している樹木の多くが松であることだった。私たちが訪れたのは11月の半ばであった。紅葉の季節である。南山では紅葉が綺麗なのではないか。慶州に向かう前はそういいあっていたが、実際には南山に紅葉はほとんど見られなかった。松、松、松である。それもそのはず、南山は松のような厳しい生育環境でも耐えられる樹木が大半を占める岩山であった。
2020年02月14日
韓国・慶州紀行(南山トレッキング)
統一殿でバスを降りたのは、南山トレッキングの基点とするためであった。統一殿からは南に向かった。集落を抜けると、やがて山道となった。
前方を女性二人が歩いていた。本格的な登山スタイルである。トレッキングポールまで手にしている。そんなに険しい山だと思っていなかった私たちとは、装いがまったく違っていた。大袈裟やな。そう思っていたが、南山のトレッキングにおいては女性たちのいでたちが正解であったことを、その後、痛烈に思い知らされることとなる。
前方を女性二人が歩いていた。本格的な登山スタイルである。トレッキングポールまで手にしている。そんなに険しい山だと思っていなかった私たちとは、装いがまったく違っていた。大袈裟やな。そう思っていたが、南山のトレッキングにおいては女性たちのいでたちが正解であったことを、その後、痛烈に思い知らされることとなる。
2020年02月13日
韓国・慶州紀行(統一殿)
統一殿は、1977年、朴正熙政権の時代に建立された施設である。朝鮮半島を統一した新羅時代の英雄たちを顕彰した施設であるようだ。それによって南北統一の機運を高めようとしたのであろう。しかし、あいにく私たちは足を踏み入れなかった。トイレを借りただけである。
2020年02月10日
某宅で一杯。
2020年02月09日
2020年02月07日
韓国・慶州紀行(バスの運転手)
慶州では、移動にしばしば路線バスを利用した。チャージ式の交通カードを使えば、乗車の際に現金を支払わなくて済んだが、交通カードがどこで販売されているのか、さっぱりわからなかった。とにかく現金を支払っていたのは、私たちだけであった。バスの運転手は日本では考えられないほどスピードを出した。それ自体は特に不快ではなかった。むしろ、早く目的地に着けるので有り難かったくらいである。しかし、一人だけ猛烈に運転の荒い運転手がいた。サングラスとマスクで顔を覆っており、どこかしら凶暴な印象を与える人物であった。あいつは現金を支払った私たちに最後までお釣りを寄越さなかった。走行中、別の乗客が立ち上がると、大声で「Sit!」と繰り返した。乗客を犬か何かのように見なして恫喝しているかのようであった。しかし、相手は乗客なのである。「Please, sit down」というべきだろう。世界中から観光客がやって来る慶州の路線バスには、まったくふさわしくない運転手であった。慶州で唯一残念な体験であった。そんな運転手のバスに揺られて、私たちは統一殿前で下車した。