後藤明生を読む会(第20回)→
こちら昨日は後藤明生を読む会の第21回がもよおされた。今回のテキストは「関係」(初出は「文藝」1962年3月号)。いつものように代表の発表者が基調報告をおこなった。その後、参加者のあいだで討議がおこなわれた。今回も話題となった事柄をアトランダムに列記しておく。
・「関係」は語り手である「わたし」(井上淳子)が西野とはじめて接吻してから1年半ほどを経て入院中に書かれたテクストとして提示されている
・あくまで「わたし」が書いたテクストであり、そこに書かれているものは「わたし」が見て来たと「わたし」みずからが称していることであり、「わたし」の見て来たことそのものではない
・「関係」の登場人物の相関図
・「わたし」や北村、西野に言及した箇所が多いものの、北村の妻やその子の「秀雄ちゃん」も関係の世界では彼らと等価な存在と見なすべきである
・書き出し部分(第一パラグラフ)の特異性(「わたしの考えでは」までは西野を視点人物且つ主人公とした三人称小説とも読めるが、それ以後、「わたし」を視点人物とした一人称小説であることが明らかになり、分裂している)
・何度も「読み取り」の修正をうながすテクスト
・テクストの書き手=「わたし」の「書くこと」に対する抵抗感
・テクスト内ではさまざまな類型が見出される
・R・ジラール『欲望の現象学』やレヴィ=ストロース『親族の基本構造』、E・K・セジウィック『男同士の絆』、J・バトラー『ジェンダー・トラブル』を踏まえて読む
・「わたし」はもはや(労働力且つ再生産力を持つという、レヴィ=ストロースがいったような意味で)価値がある存在ではなく、西野から北村へと移動する単なる記号といえる
・ホモソーシャルな関係を「女性」の視点から再構成して「転倒」を企図したテクストとしても読めるのではないか
・ほかならぬ西野が望んでいたはずの関係の成立を西野その人が知らないという事実
・西野や北村を利用して最終的に関係の支配者となる「わたし」
・支配はこれまでの経緯を「書く」という特権性と結びついている
・しかし、関係の支配者となった「わたし」の存在そのものが矛盾する(関係の世界においては、支配者もまた関係構造のなかで相対化される存在であるはずであり、それを「わたし」の支配化によって終わらせている点にこそ「関係」というテクストの弱点がある)
・書くことの特権性を保持した「わたし」を如何にして相対化し、関係のはらむ真の関係性を浮かび上がらせるか、それが「関係」以降の後藤明生の課題となった(「関係」を克服する作品として、たとえば、「笑う―笑われる」という関係性を徹底化させた「笑い地獄」がある)
・その点で後藤は常に語る/書く主体そのものが持つ特権性(権力)に自覚的であったといえる
・それぞれが無署名原稿執筆というアルバイトをしているという滑稽さ
・当時の原稿料の値段などが具体的に書かれている
・北村の格闘シーンが伝える滑稽さ
・岡田の意外な存在感
・最後のパラグラフによって「わたし」は西野や北村との関係を離れ、関係がさらに変転していくことが予見されている(「わたし」は今度は編集長に接近し、岡田―編集長―「わたし」という新たな三角関係を構築していくのであろうか)
・起源の消去と未完結性を伝える関係構造=後藤明生の考える小説そのもの
・田舎臭い北村と都会派の西野を類型化し、それぞれを相対化
・西野はみずからの求める関係を「二等辺三角形」と表現する(なぜ「正三角形」ではないのか)
・西野との別れ話で交わされる会話の不自然さ
・横光利一「機械」との関連性
・作中における「関係」という語の登場回数は通算88
次回の研究会は10月頃、テキストは「謎の手紙をめぐる数通の手紙」を予定している。
posted by 乾口達司 at 21:00| 奈良 ☀|
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