2014年05月10日

後藤明生をめぐる旅(福岡篇・旧将校町)

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後藤明生をめぐる旅(福岡篇・H氏と)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・朝倉高校)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」1)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」2)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」3)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」4)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」5)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」6)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・後藤明生文庫)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・若き日の後藤明生)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・学生歌歌碑1)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・学生歌歌碑2)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・『福岡県立朝倉高等学校同窓生名簿』)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「記念誌」1)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「記念誌」2)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「幻の故郷」)→こちら

朝倉高校の同窓会事務局を辞した後、H氏が案内してくださったのは、同窓会事務局の裏手に位置する旧将校町であった。終戦後、朝鮮半島から引揚げて来た後藤一家が身を寄せていたところである。『挾み撃ち』には旧将校町のことが次のように紹介されている。「わたしが住んでいたのは、戦争中は将校町と呼ばれた一角だった。三里ばかり離れたところに陸軍の太刀洗飛行場と高射砲連隊があって、そこの将校の家族たちが住んでいたらしい。らしい、というのは、わたしは敗戦の翌年に北朝鮮からそこへ引揚げてきたからである。母方の祖母と伯母の家族が住んでいる家へ転がり込んだわけだ。町名はもちろん変っていた。将校の家族たちもすでにいなかった。戦後は、中学、高校の教師が多かったようだ。国漢系が三人、物理、生物、英語、図工、書道、と周りは教師だらけだった。隣は地歴の教師。母の兄に当たる伯父はすでに死亡していたが、彼も兄やわたしが卒業した県立中学の物理、数学の教師だった。伯母も、同じ町の県立高女の国漢教師である。/もと将校町は、筑前の田舎町の中では落ち着いた住宅地といえた。伯母の家族との同居とはいえ、北朝鮮からの引揚者にはもったいないような場所だった。赤煉瓦造りの門があり、座敷の両側には幅一間の廊下と縁側があり、小さいながら野菜を作れる程度の庭もあった。学校へも走れば一分である。もっとも借家で、家主はブラジルだかハワイだかから帰って来たという老夫婦だった」。現在、かつての将校町には真新しい家屋がたくさん建てられている。普請中のものも幾つか見られた。何しろ、後藤明生が身を寄せていた時代から60年以上の歳月が流れているのである。事実、後藤明生の一家が身を寄せていた建物も存在しない。一家が身を寄せていた建物の跡地には、現在、「メゾン寿」というハイツが建てられている。写真の手前に見えるハイツが「メゾン寿」である。H氏によると、伯母の家には、もっとも多いときで3家族が身を寄せていたという。当然、めいめいが自分たちの専用の部屋を持つことなど許される状況ではない。後藤明生やその兄などは使用人が使う小部屋を使って、日夜、勉学にいそしんでいたという。(続く)
ラベル:後藤明生
posted by 乾口達司 at 10:47| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする