2014年04月07日

後藤明生を読む会(第20回)

後藤明生を読む会(第19回)→こちら

昨日は後藤明生を読む会の第20回がもよおされた。今回のテキストは『汝の隣人』(河出書房新社/1983年11月)。いつものように代表の発表者が基調報告をおこなった。その後、参加者のあいだで討議がおこなわれた。今回も話題となった事柄をアトランダムに列記しておく。

・登場人物が「G」や「T」や「I」などさまざまなアルファベットのイニシャルによって表記されていること
・イニシャル表記は、「T」の実名は何か、といった詮索を読み手に誘発させるが、そのたくらみに見事に引っかかったのが所収の「対談」を「クローズド・ハピネス」と批判した批評家のI
・Iの事例からもうかがえるように、後藤明生の小説はそれを読んだもののレベルを逆に浮き彫りにしてしまう
・しかし、「Kの短篇小説」(p7)が小島信夫の「レオナルド・ダヴィンチの夜」であることなど、イニシャルを詮索しても本作を十全に読解することにはならない(詮索そのものの無意味さ)
・事実、「Gには、Sとは誰であるのか、読み終わってもわからなかった」「もう一度はじめの部分を読み返してみたが、やはり思い出せなかった。もちろん思い出さなくともKの小説には別に変りはない」(p32〜33)と記されており、イニシャルの詮索が作品の読解に役立たないことが自己言及的に示唆されている
・イニシャル表記は実名表記のオンパレードである「日本の小説家のK」=小島信夫の『別れる理由』の表記方法に対する批評か?
・実名表記が必然的に抱え込んでしまう付随事項(例:「小島信夫」といえば「『抱擁家族』や『別れる理由』の作者といった)がイニシャル表記への変換によってすべて削り取られてしまう
・イニシャル表記はアルファベットという同一平面上にそれぞれの登場人物を還元する。それにより、たとえば、「K」=先輩作家と「G」=後輩作家といった関係がもたらす時間的な隔たりを空間的な並列関係に転換するという役割を持つ(まさしく「汝の隣人」となる)
・「Kの短篇小説」=小島信夫「レオナルド・ダヴィンチの夜」は「新潮」1980年10月号発表。「九月のある夜更け」(p7)に後藤明生はそれを読み、「汝の隣人」を「文藝」同年11月号に発表していることを考えると、ほとんど同時進行的に読むことと書くことが実践されていることとなり、その即興の良さにはあきれてしまう
・プラトンの『饗宴』が物語の進行にともなって唐突に飛び出して来るような印象を受けるものの、「レオナルド・ダヴィンチの夜」には『饗宴』に対する言及が見られる
・その意味で本作は「Kの短篇小説」への注とその変奏の観を呈するが、『饗宴』そのものが他人の言葉の引用に満ち満ちていることからもわかるように、引用と注釈、そして、その変奏は言語動物たる人間にとっては普遍的な事態と見るべきである
・江中直紀の書評「空虚の饗宴」(「文藝」1994年3月号)に対する肯定的な見解と否定的な見解(あまり極端化すると、逆にIの批評文と裏表の関係になってしまいかねないのでは?)
・「対談」における「K女史」という表記について(現実世界では「K女史」は三枝和子を指し示しているにもかかわらず、なぜ、姓のイニシャルから「S女史」と表記しなかったのか?)
・同様のことは「Hの会」の「H」(寺田博)表記にもいえる
・これらはテキストと別のテキスト(現実の文脈)との対応関係が不安定になっていることの証
・「T教授」はGが構築する虚構の世界を虚構と知りつつも現実のものとして戯れるテキストの模作者であり、テキストの注をつけていく共作者でもあり、その意味でGの分身、取り替え可能な存在といえる
・コピーや本をT教授から借りたのか、「K書房のT」(p183)から借りたのか、混乱してしまうという事態(Gはテキストの表層を生きているため、Gにとって、TはT以外の何者でもない。したがって、勘違い、取り違えは必然的に起こって来る)
・「大川」をめぐる取り違え(芥川龍之介「大川の水」)との関わりから
・ほとんどがイニシャルで占められているなか、「檀(一雄)さん」(p228)など、ごく一部で見られる実名表記をどう考えるか
・Nの死をめぐるG夫人とのやりとりに顕著に見出されるように、わからないことそのものが顕在化されており、ソクラテスがいったとされる「無知の知」が小説世界のなかで活かされている
・笑いに満ちた作品である一方、Nや檀一雄、従弟など数々の死に対する言及が多い(『パイドーン』との関わりか?)
・GとT教授とが取り替え可能な分身関係であることを敷衍すれば、Gの知り合いのカメラマンの知り合いの知り合いである「新宿のバーの階段から落ちて死んだ人」(p260)はやはり「新宿御苑近くの小さな酒場」(p60)の階段から転落したGと変換可能な存在であるともいえる(G死亡説の観点から『汝の隣人』を読み返すのも面白いだろう)
・Kに対して「ルーツ式に話すのは止めようと思うんですよ」(p20)と語ることの意味
・また聞きのまた聞き方式について
・「東京の夕焼け」における道に迷うという行為について
・現実のM教授が「夢(例のトンネルのようなところをTと歩いて来る)に、ほとんどそっくり(!)」(p245)と記されていることについて。夢と現実との境界の「無化」(p237)が指し示されている
・「I・スミス」(p182)とはどのような画家か?

次回の研究会は7月頃、テキストは初期作品を予定している。
ラベル:後藤明生
posted by 乾口達司 at 13:46| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 自己 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする