2014年04月29日

たびねす掲載情報47

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前回、たびねすに第46回(「おかめ」のお面や人形がいっぱい!京都 大報恩寺(千本釈迦堂))を掲載したことは4月24日の日記に記しました。今回、新たな記事を掲載しました。今回のテーマは兵庫県三木市の三木合戦ゆかりの地です。ご覧下さい。

第47回「東播磨の雄・別所長治VS秀吉!三木合戦ゆかりの地をめぐる」

http://guide.travel.co.jp/article/3853/
タグ:三木 合戦
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2014年04月28日

後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「記念誌」2)

後藤明生をめぐる旅(福岡篇・H氏と)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・朝倉高校)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」1)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」2)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」3)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」4)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」5)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」6)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・後藤明生文庫)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・若き日の後藤明生)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・学生歌歌碑1)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・学生歌歌碑2)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・『福岡県立朝倉高等学校同窓生名簿』)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「記念誌」1)→こちら

もう一点、昭和24年3月20日発行の「記念誌」で注目したいのは、当時、後藤明生が所属していた文藝部の活動状況が「記念誌」のなかで報告されていることである。その内容は、終戦後、朝倉高校に文藝部が成立することになったいきさつが語られた上で主要な部員の活動を紹介するという形でまとめられている。後藤明生(後藤明正)のことは次のように紹介されている。「後藤の出現は、二十三年度の朝高文壇にとつて大きな収穫であつた。處女作“天職”に示した鋭い感覚と上手な技巧は、十七歳とも思えぬ様に秀れていて、小説では文藝部の最先端を行く第一人者である。彼は、技巧派、新感覚派、更にアプレゲール等の種々の良所を巧みに取り入れて自分の作品を秀れたものにした。始め“天職”“二人の乞食”といわゆる乞食物を描いたが、本誌掲載の“ある主義の青年”は、彼の力量を遺憾なく発揮した堂々四十二枚の力作である。現在、併中三年の彼が今度どう伸びるかは、大きな興味と期待を呼ぶものであらう」。(続く)
タグ:後藤明生
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2014年04月26日

後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「記念誌」1)

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後藤明生をめぐる旅(福岡篇・H氏と)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・朝倉高校)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」1)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」2)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」3)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」4)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」5)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」6)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・後藤明生文庫)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・若き日の後藤明生)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・学生歌歌碑1)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・学生歌歌碑2)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・『福岡県立朝倉高等学校同窓生名簿』)→こちら

T氏からはほかにも資料をお見せいただいた。「記念誌」は昭和24年3月1日印刷・昭和24年3月20日発行。発行所は福岡県立朝倉高等学校で編集者は朝高文藝部。発行人は大山半平。印刷所は吉岡総合印刷所(福岡市船町6番地)。80頁から88頁の創作欄には後藤明生が本名の後藤明正名儀で「或る主義の青年」という小説を発表している。「或る主義の青年」は後藤明生の朝倉中学・高校・早稲田大学時代の先輩H氏の示唆により、すでにその存在は昨年から知っていた。T氏からはそのコピーも頂戴していた。しかし、それが収録された「記念誌」の実物を拝見するのは、今回がはじめてである。作品の末尾には「二十三・十二・二十四脱稿」という記載が見られる。昭和23年12月24日に脱稿したということであろう。「後藤明正」の上には「文藝部併三」という記述が見られる。これは文藝部に所属している「併置中学校」の3年生という意味。「併置」という言葉が、後藤明生を含む当時の中学生が学制改革の真只中に置かれていたことを指し示している。さまざまな「主義」を混在させた一人の青年の言動を描きながら、当時の後藤明生がそのパロディ=相対化をはかろうとしていたことがうかがえる内容である。脱稿の半年前に起こった太宰治の自殺に感化されたのであろうか、人生に対する絶望という「主義」に殉じて遺書を残し、自殺したかに見えた青年―その名は太宰治の本名「津島修治」を連想させる「真壁修二」―が語り手たちの前にひょっこり姿を現し、「僕はこれから大いに生きますよ。僕は生きる。そして貯金を続けて行くのだ」と宣言するというドンデン返しはいささか作り物めいているが、なかなか面白い。(続く)
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2014年04月24日

たびねす掲載情報46

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前回、たびねすに第45回(千数百年の伝統!奈良県の工芸品を一堂に集めた『なら工藝館』)を掲載したことは4月21日の日記に記しました。今回、新たな記事を掲載しました。今回のテーマは京都・大報恩寺のおかめ像です。ご覧下さい。

第46回「「おかめ」のお面や人形がいっぱい!京都 大報恩寺(千本釈迦堂)」

http://guide.travel.co.jp/article/3785/
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2014年04月23日

後藤明生をめぐる旅(福岡篇・『福岡県立朝倉高等学校同窓生名簿』)

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後藤明生をめぐる旅(福岡篇・H氏と)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・朝倉高校)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」1)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」2)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」3)→こちら
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後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」5)→こちら
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後藤明生をめぐる旅(福岡篇・若き日の後藤明生)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・学生歌歌碑1)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・学生歌歌碑2)→こちら

私たちが次に向かったのは、朝倉高校の同窓会事務局である。同窓会事務局は朝倉高校の敷地とは道路を挟んだ向かいに位置している。出迎えてくださったのは事務局のT氏。T氏とは、これまで何度もメールのやりとりをして来たが、実際にお目にかかるのははじめてである。挨拶の後、幾つかの資料を拝見した。そのなかには写真の『福岡県立朝倉高等学校同窓生名簿』もふくまれていた。発行兼編輯者は朝倉会(福岡県立朝倉高等学校同窓会)。昭和28年3月31日印刷・発行の非売品である。表紙に「昭和二十八年一月現在」と記されているように、昭和28年1月時点での卒業生の消息が一覧表として掲載されている。そのなかには、当然のことながら、「後藤明正」の項目もあった。後藤明正の住所は「埼玉県北足立蕨町大門町」となっている。所属は「英語塾」。昭和28年1月といえば、その前年に朝倉高校を卒業した後藤明生が大学受験に失敗し、浪人生として、関東の地で暮らしていた時期に当たる。「埼玉県北足立蕨町大門町」は『挾み撃ち』のなかで描かれる、あの「蕨」の街である。「英語塾」は慶応外語学校のことであろう。『関係』(旺文社文庫/1975・6)の巻末に付載されている「自筆年譜」1952年(昭和27)の項目には次のように記されている。「半年ばかり英語勉強のつもりで慶応外語学校へ通った。はじめ上級へ入ったが、いきなり西脇順三郎教授が現われ、シェリーだったかキーツだったかの話がはじまったのでおどろき、中級へ移してもらった。ここで習ったH・E・ベイツの短篇集はいまでもおぼえている」。(続く)
タグ:後藤明生
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2014年04月21日

たびねす掲載情報45

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前回、たびねすに第44回(SLファン必見!懐かしのD51、石川県松任駅前に静態保存中!)を掲載したことは4月15日の日記に記しました。今回、新たな記事を掲載しました。今回のテーマは奈良県内の工芸品を展示した「なら工藝館」です。ご覧下さい。

第45回「千数百年の伝統!奈良県の工芸品を一堂に集めた『なら工藝館』」

http://guide.travel.co.jp/article/3750/
タグ: 人形
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2014年04月20日

後藤明生をめぐる旅(福岡篇・学生歌歌碑2)

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後藤明生をめぐる旅(福岡篇・H氏と)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・朝倉高校)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」1)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」2)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」3)→こちら
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後藤明正作詩・鞭幸枝作曲による朝倉高校学生歌の歌詞を採録しておこう。

一 耳納の山の朝明けや
  清冷の風混濁の
  闇を流しつ疾くゆきて
  しののめの雲かかるとき
  いざ眉上げむ我が友よ
  聲高らかに 呼ばむかな

二 紫紺にかすむ筑紫野の
  裏梅薫る学舎は
  幾俊英の揺籃ぞ
  蓋世の歌高らかに
  自由の剣右手にもち
  左手にかざせ愛の旗

三 南国の空いや碧く
  若人の意気いや高し
  赤き血燃ゆる我が友よ
  或は東又は西
  勇魚の波をゆくがごと
  青雲の果覇を遂げむ

四 業火の後に甦える
  若き理想と創造の
  幽遠の花求めつつ
  先駆の翼羽搏けば
  見よ筑紫野は風立ちて
  今九天に虹清し

五 ああ東に雲湧きて
  霊峰古処は魏々と立つ
  我が躍進の雄叫びは
  乱るる雲に似たるかな
  見よ潑溂のわが意気は
  飛鳥の舞に似たるかな
(続く)
タグ:後藤明生
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2014年04月19日

後藤明生をめぐる旅(福岡篇・学生歌歌碑1)

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後藤明生をめぐる旅(福岡篇・若き日の後藤明生)→こちら

朝倉高校の敷地内には昭和25年に制定された学生歌の歌碑が建立されている。学生歌は昭和23年度になされた校章の制定に次いで作られた。歌詞は生徒および教員から広く募り、数回の募集の末、当時、高校2年生であった後藤明生の歌詞が選ばれた。作曲者は朝倉高校の音楽の教員であった鞭幸枝氏である。後藤明生作詩の歌詞が刻まれた歌碑は横3メートルで本体・台座ともに総御影石。朝倉高校創立70周年を記念して、朝倉二七会会員の浄財などによって、昭和55年3月に建立されたものである。歌碑文の揮毫は後藤明生の同級生でもある佐野俊美氏である。(続く)
タグ:後藤明生
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2014年04月17日

後藤明生をめぐる旅(福岡篇・若き日の後藤明生)

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後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」2)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」3)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」4)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」5)→こちら
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後藤明生をめぐる旅(福岡篇・後藤明生文庫)→こちら

後藤明生文庫の脇には、若き日の後藤明生の写真も展示されている。ご覧のとおり、先生をかこんで14人の生徒が写っている。後藤明生は後列の一番右端。学生帽をかぶり、眼鏡をかけている。昭和26年頃の撮影というから、後藤明生が高校2年か3年生の頃の写真である。小説家として活躍することになる中年以降の写真しか見たことのないものには新鮮であろう。ちなみに、前列に写っている先生はO先生。O先生はいまだご健在である。朝倉高校を取材した日の午後、私たちはO先生のもとにおうかがいし、学生時代の後藤明生のこと、その他、いろいろなお話をうかがった。(続く)
タグ:後藤明生
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2014年04月15日

たびねす掲載情報44

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前回、たびねすに第43回(巨大な仏像群は圧巻!日本とインドが共存する高取町の古刹・壷阪寺)を掲載したことは4月12日の日記に記しました。今回、新たな記事を掲載しました。今回のテーマは石川県松任市に静態保存されているSL・D51です。ご覧下さい。

第44回「SLファン必見!懐かしのD51、石川県松任駅前に静態保存中!」

http://guide.travel.co.jp/article/3721/
タグ:sl
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2014年04月14日

後藤明生をめぐる旅(福岡篇・後藤明生文庫)

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後藤明生をめぐる旅(福岡篇・H氏と)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・朝倉高校)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」1)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」2)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」3)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」4)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」5)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」6)→こちら

後藤明生の母校・福岡県立朝倉高校には後藤明生文庫が設けられている。その設立母体は朝高二七会。後藤明生と同じく、昭和27年に朝倉高校を卒業した同窓生によって結成された同窓会である。後藤明生自身の協力のもと、朝倉高校に共著や編著をふくむ後藤明生の著書および研究文献の多くが寄贈されたのは、平成元年のこと。以来、朝高二七会の有志が中心となって書籍の蒐集や管理がおこなわれて来た。後藤明生の著書やそれに関連する研究文献などがこれだけまとまっているところは、個人の収集家を除けば、おそらくここだけであろう。13年前、はじめて朝倉高校にうかがったとき、後藤明生文庫は確か図書室の一室に設置されていたと思う。それが、数年前の校舎の建て替えにともない、今回の訪問時には図書室から資料室へ移されていた。朝倉高校といえば、近隣で発掘された石器や土器などの考古学史料の蒐集や研究でも知られる。後藤明生文庫は考古学史料を展示する資料室の内部に別途設けられた部屋に置かれていた。収蔵の図書は保存用と貸出用とに分けられており、同じ図書が基本的に2冊以上収蔵されている。貸出用の図書を利用すれば、朝倉高校の生徒が後藤明生の著書を実際に手にとることも可能である。(続く)
タグ:後藤明生
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2014年04月12日

たびねす掲載情報43

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前回、たびねすに第42回(伊賀市のシンボル・伊賀上野城!藤堂高虎から松尾芭蕉、伊賀忍者まで!)を掲載したことは4月1日の日記に記しました。今回、新たな記事を掲載しました。今回のテーマは奈良県高取町の壷阪寺です。ご覧下さい。

第43回「巨大な仏像群は圧巻!日本とインドが共存する高取町の古刹・壷阪寺」

http://guide.travel.co.jp/article/3683/
タグ:仏像
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2014年04月10日

後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」6)

後藤明生をめぐる旅(福岡篇・H氏と)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・朝倉高校)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」1)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」2)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」3)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」4)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」5)→こちら

以下は後日譚。旅から戻り、数日が経過したときのことである。今回の旅で一緒だった某出版社の編集者A氏と話をする機会があった。そのなかでA氏からまことに興味深い話をうかがった。すなわち、「五月の幻想」において言及されている「橋」は後藤明生の代表作『挾み撃ち』に登場するお茶の水の「橋」ではなかろうか、と。『挾み撃ち』の「わたし」は「国電お茶の水駅前」の「橋」の上にたたずみ、「この橋は何という名の橋だろう?お茶の水橋?たぶんそうだろう」と自問自答しながら、みずからの過去を振り返る。そして、自分がはじめてこの橋の上にやって来たのがいまから20年前であること、当時、この橋は「確かライオンという筆名を持ったさる高名な流行作家の、新聞連載小説のモデル」であったことなどを物語る。「ライオンという筆名を持ったさる高名な流行作家の、新聞連載小説」とは、1950年5月26日から12月11日まで「朝日新聞」に連載された獅子文六の『自由学校』のこと。「九州筑前の田舎町の新制高校生であったわたしは、たまたまその連載小説を読んでいた」という。そして、20年前、作中で「お金の水橋」と呼ばれていたこの橋の上にやって来たとき、橋の上から橋の下の情景を眺めたときのことが記されるが、注目すべきは、次の一節である。「国鉄お茶の水駅から地下鉄お茶の水駅の方へ向って右側の手摺りから眺めおろすと、濁った水流を挾んで右側が国電のプラットホームだ。もちろん当時はまだ赤い地下鉄は走っていなかった。その代わり、濁った水流を挾んで左側の土手には、ライオン氏の小説に書かれていた通りの、バタ屋部落が見えたのである。何不自由のない暮しをしているサラリーマンが、ある日とつぜん家出をする。その彼が自由を求めて転り込んだのが、『お金の水橋』下のバタ屋部落だった。なるほどこれが『お金の水橋』下のバタ屋部落か!わたしは外套のポケットに両手を突込んだまま、眺めおろした」。この一節を先に引用した「五月の幻想」の第2連と比較してみよう。「こんなところもあったのだ。/ボクが思はず立ち止って、再び歩き出した そこの、/あんこのしぼり汁みたいな水が底の方で、/三そうの、灰色の小舟をやっと支へてゐる/その川の橋のたもとは、/確かに有史以前の世界に、/しかも二千年後の、金属と、加工品と 原始林の自然よりも/もっと原色的な世界を、あのテレビジョンよりも/もっと易々と眺めながら暮してゐる一群の人々のパオだった」。「バタ屋部落」にあった掘っ建て小屋やそれに類する住居をモンゴル高原の民が使用する移動式住居「パオ」に見立てることが、果たして、適切であるかどうか。そのことはいまは問わない。しかし、その点に目をつぶれば、描写された情景の類似性から見て、「五月の幻想」における「その川の橋」が『挾み撃ち』に登場するお茶の水の「橋」と同一であると考えることは、可能であろう。もしも、それが正しいとなれば、「五月の孤独」はまさしく『挾み撃ち』の原点というべき詩篇であるということになる。(続く)
タグ:後藤明生
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2014年04月09日

後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」5)

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「五月の幻想」は「大東京」のなかに一人投げ出された「ボク」が語り手として設定されており、「ボク」の目に映る都会の様子が描かれている。「ボクは迷子だ」という文言からもうかがえるように、「大東京」は、「ボク」にとって、否定的な対象としてとらえられている。疲れ果てた「ボク」はやがて公園を訪れ、緑の樹木に覆われたそこを「昔、道に迷った旅人がさ迷ひ込んだ/奥深い森の様に素晴らしいのだ」と賞賛する。「ボク」は公園の「湿った土」「砂」「小さい木のベンチ」「つつじ」「三色菫」に次々に目をやりながら「鉄で出来た素朴な噴水」の前にいたる。「あゝ、 あの水の音はいいな……」という感慨は「水」から「海」へとただちにその連想を広げ、「そう、ほんとうに、もう幾月海を見ないだらう。/海の声。秩序正しい波の消長。/誰にもあの秩序は乱せないのだ」という文言が導き出される。そして、「海の声を聞」くため、しばしのあいだ、「眼をつぶ」ろうとするシーンで締め括られている。喧騒渦巻く大都会に疲れた主人公が自然と触れあい、心を癒される。率直といえば、何とも率直な詩である。まことに型どおりの内容であるともいえるだろう。しかし、それだけに見知らぬ大都会で生きることを強いられた青年時代の後藤明生の在りし日の姿が強く印象付けられる。後年、迷宮としての大都会そのものをモチーフにして数々の小説を発表していった後藤明生の原型がここにある。そう思わせる詩篇である。(続く)
タグ:後藤明生
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2014年04月08日

後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」4)

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後藤明生の本名である「後藤明正」の名義で綴られた「五月の幻想」の前半5連は次のようなものである。

大東京の真中、ボクは迷子だ。
西洋の古いお伽話の家を、
子供が無邪気に、積木細工で真似たような
緑色の屋根。
そして淋しいことに、やっぱりその可愛らしい家の周囲にも、
大きい、生々とした空がないのだ。

こんなところもあったのだ。
ボクが思はず立ち止って、再び歩き出した そこの、
あんこのしぼり汁みたいな水が底の方で、
三そうの、灰色の小舟をやっと支へてゐる
その川の橋のたもとは、
確かに有史以前の世界に、
しかも二千年後の、金属と、加工品と 原始林の自然よりも
もっと原色的な世界を、あのテレビジョンよりも
もっと易々と眺めながら暮してゐる一群の人々のパオだった。

五時半、
得意そうにピースの煙を燻らせながら、
でっぷりと肥えた××国税庁の守衛は
蟹の甲羅のように、広い、とげだらけのゲイトを止ざす。

空間の印象を、ぎざぎざに刻んだ
赤いビル、白いビル。
その迷路を抜け切らずに、
戸惑った犬のように澱んでゐる空気は、
もう灰色に染ってゐる。

比類なく孤独な太陽の最后の一滴まで、
執拗に吸い取ろうとする街路樹の緑の触手。
その細長い影を踏みながら、大股に歩いて行くボク。
エヂソンのように首をかしげて……。
  あの、窓ばかりみたいなビルが、見る間に苔生したローマの城塞に変り、
  大勢の兵士の雄叫びと共に、今にもあの屋上から、五本の、陰うつな銃口が
  現れそうではないか……。

(以下略)

1連目の「子供が無邪気に」と「積木細工で真似たような」のあいだには、何やら、小さな書き込みのようなものが見られる。しかし、判読不能である。何かの文字なのか、ペン先が不用意に紙の上をなぞったために出来たものなのか、判断がつかない。文字であるとしたら「も」と読むべきだろうか。2連目の「あんこ」には傍点がつけられている。3連目の「止ざす」は「ママ」。正確には「閉ざす」である。5連目の「あの、窓ばかりみたいなビルが」以下の3行分はその他の行よりも2字ほど下から書きはじめられている。(続く)
タグ:後藤明生
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2014年04月07日

後藤明生を読む会(第20回)

後藤明生を読む会(第19回)→こちら

昨日は後藤明生を読む会の第20回がもよおされた。今回のテキストは『汝の隣人』(河出書房新社/1983年11月)。いつものように代表の発表者が基調報告をおこなった。その後、参加者のあいだで討議がおこなわれた。今回も話題となった事柄をアトランダムに列記しておく。

・登場人物が「G」や「T」や「I」などさまざまなアルファベットのイニシャルによって表記されていること
・イニシャル表記は、「T」の実名は何か、といった詮索を読み手に誘発させるが、そのたくらみに見事に引っかかったのが所収の「対談」を「クローズド・ハピネス」と批判した批評家のI
・Iの事例からもうかがえるように、後藤明生の小説はそれを読んだもののレベルを逆に浮き彫りにしてしまう
・しかし、「Kの短篇小説」(p7)が小島信夫の「レオナルド・ダヴィンチの夜」であることなど、イニシャルを詮索しても本作を十全に読解することにはならない(詮索そのものの無意味さ)
・事実、「Gには、Sとは誰であるのか、読み終わってもわからなかった」「もう一度はじめの部分を読み返してみたが、やはり思い出せなかった。もちろん思い出さなくともKの小説には別に変りはない」(p32〜33)と記されており、イニシャルの詮索が作品の読解に役立たないことが自己言及的に示唆されている
・イニシャル表記は実名表記のオンパレードである「日本の小説家のK」=小島信夫の『別れる理由』の表記方法に対する批評か?
・実名表記が必然的に抱え込んでしまう付随事項(例:「小島信夫」といえば「『抱擁家族』や『別れる理由』の作者といった)がイニシャル表記への変換によってすべて削り取られてしまう
・イニシャル表記はアルファベットという同一平面上にそれぞれの登場人物を還元する。それにより、たとえば、「K」=先輩作家と「G」=後輩作家といった関係がもたらす時間的な隔たりを空間的な並列関係に転換するという役割を持つ(まさしく「汝の隣人」となる)
・「Kの短篇小説」=小島信夫「レオナルド・ダヴィンチの夜」は「新潮」1980年10月号発表。「九月のある夜更け」(p7)に後藤明生はそれを読み、「汝の隣人」を「文藝」同年11月号に発表していることを考えると、ほとんど同時進行的に読むことと書くことが実践されていることとなり、その即興の良さにはあきれてしまう
・プラトンの『饗宴』が物語の進行にともなって唐突に飛び出して来るような印象を受けるものの、「レオナルド・ダヴィンチの夜」には『饗宴』に対する言及が見られる
・その意味で本作は「Kの短篇小説」への注とその変奏の観を呈するが、『饗宴』そのものが他人の言葉の引用に満ち満ちていることからもわかるように、引用と注釈、そして、その変奏は言語動物たる人間にとっては普遍的な事態と見るべきである
・江中直紀の書評「空虚の饗宴」(「文藝」1994年3月号)に対する肯定的な見解と否定的な見解(あまり極端化すると、逆にIの批評文と裏表の関係になってしまいかねないのでは?)
・「対談」における「K女史」という表記について(現実世界では「K女史」は三枝和子を指し示しているにもかかわらず、なぜ、姓のイニシャルから「S女史」と表記しなかったのか?)
・同様のことは「Hの会」の「H」(寺田博)表記にもいえる
・これらはテキストと別のテキスト(現実の文脈)との対応関係が不安定になっていることの証
・「T教授」はGが構築する虚構の世界を虚構と知りつつも現実のものとして戯れるテキストの模作者であり、テキストの注をつけていく共作者でもあり、その意味でGの分身、取り替え可能な存在といえる
・コピーや本をT教授から借りたのか、「K書房のT」(p183)から借りたのか、混乱してしまうという事態(Gはテキストの表層を生きているため、Gにとって、TはT以外の何者でもない。したがって、勘違い、取り違えは必然的に起こって来る)
・「大川」をめぐる取り違え(芥川龍之介「大川の水」)との関わりから
・ほとんどがイニシャルで占められているなか、「檀(一雄)さん」(p228)など、ごく一部で見られる実名表記をどう考えるか
・Nの死をめぐるG夫人とのやりとりに顕著に見出されるように、わからないことそのものが顕在化されており、ソクラテスがいったとされる「無知の知」が小説世界のなかで活かされている
・笑いに満ちた作品である一方、Nや檀一雄、従弟など数々の死に対する言及が多い(『パイドーン』との関わりか?)
・GとT教授とが取り替え可能な分身関係であることを敷衍すれば、Gの知り合いのカメラマンの知り合いの知り合いである「新宿のバーの階段から落ちて死んだ人」(p260)はやはり「新宿御苑近くの小さな酒場」(p60)の階段から転落したGと変換可能な存在であるともいえる(G死亡説の観点から『汝の隣人』を読み返すのも面白いだろう)
・Kに対して「ルーツ式に話すのは止めようと思うんですよ」(p20)と語ることの意味
・また聞きのまた聞き方式について
・「東京の夕焼け」における道に迷うという行為について
・現実のM教授が「夢(例のトンネルのようなところをTと歩いて来る)に、ほとんどそっくり(!)」(p245)と記されていることについて。夢と現実との境界の「無化」(p237)が指し示されている
・「I・スミス」(p182)とはどのような画家か?

次回の研究会は7月頃、テキストは初期作品を予定している。
タグ:後藤明生
posted by 乾口達司 at 13:46| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 自己 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月05日

後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」3)

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後藤明生をめぐる旅(福岡篇・H氏と)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・朝倉高校)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」1)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」2)→こちら

私たちは撮影にとりかかった。撮影は額装のままの状態でおこなわれた。立派な額におさめられていることもあり、わざわざ額を取り外し、文面を撮影することは遠慮したのである。しかし、帰宅後、撮影した画像を確認すると、額にはめ込まれたガラス面の反射により、部分的に判読出来ない箇所が認められた。やはり、面倒でも額から外して撮影するか、その場でコピーをとっていただくか、お願いするべきであった。そう後悔している。判読の出来なかった箇所は数箇所。その他、句点なのか、読点なのか、単なる一字空きなのか、判断に迷う部分もある。後日、私と同様にデジタルカメラで撮影をしてくれた同行の有志や朝倉高校に問い合わせ、文面を確実に照合したいと思っている。今回はひとまず前半の5連だけを掲載し、「五月の幻想」がどのような詩なのか、その世界を理解していただこう。なお、著者名は「後藤明生」ではない。本名の「後藤明正」である。(続く)
タグ:後藤明生
posted by 乾口達司 at 18:37| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月04日

後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」2)

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後藤明生をめぐる旅(福岡篇・H氏と)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・朝倉高校)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」1)→こちら

注目したいのは、最後の行に記された日付である。そこには「一九五三・五・一三」と記されている。校長室で実物を拝見したとき、私は「一九五三」の部分を「一九五二」と判読した。インクが若干にじんでいることもあり、「三」が「二」に見えたのである。「一九五二」は昭和27年に当たる。この年の春、後藤明生は朝倉高校を卒業している。そして、東京外国語大学の受験に失敗したため、そのまま関東に踏みとどまり、浪人生活を送っている。その日付から推測して、本篇は、上京後、しばらくして執筆され、どういった経緯であるかは不明ながら、朝倉高校の校長室に飾られて来たものである。そのように考え、そのことを校長先生や事務局長にお話した。しかし、帰宅後、デジタルカメラで撮影して来た画像を確かめ、いまでは「一九五二」は「一九五三」の見誤りであったという考えに傾いている。使われている用紙は「工藝指導所」の専用便箋。「工藝指導所」とは、日本固有の工芸品の改善や発展をはかるため、1928年、商工省によって設置された機関である。その第一号は仙台に設置され、数ヶ月の短いあいだではあったものの、ドイツ出身の建築家ブルーノ・タウトも顧問を務めている。『関係』(旺文社文庫/1975・6)の巻末に付載されている「自筆年譜」1953年(昭和28)の項目には「福岡県出身の知人U氏の紹介で通産省産業工芸試験所図書室のアルバイトを三十年くらいまで続けた。その図書室でボッシュ、クレー、モンドリアンなどの絵を知り、刺戟を受け、興味を持った」(p329)という記述が見られる(ただし、1978年6月刊行の『筑摩現代文学大系96―古井由吉 李恢成 黒井千次 後藤明生』所収の自筆年譜では「福岡県の知人U氏の紹介で某国立試験所図書室で昭和三十年頃までアルバイトをした。そこでボッシュ、クレー、モンドリアン等の絵を知り、刺戟を受け、興味を持った」という記述が1952年の項目に記されている)。この時期、工藝指導所は産業工芸試験所へと名称や組織を改変しているが、便箋は工藝指導所名義のものが残っていたため、それが使われたのであろう。ちなみに、後藤明生は当所でR.C.Hiscock“LIGHT FITTING DESIGN PROBLEMS”の翻訳を長狂平と共同でおこなっている。その翻訳は「照明器具デザインの問題」という題名で「工芸ニュース」第21巻9号(1953年9月号)に掲載されている。(続く)
タグ:後藤明生
posted by 乾口達司 at 21:10| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月03日

後藤明生をめぐる旅(福岡篇・「五月の幻想」1)

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後藤明生をめぐる旅(福岡篇・H氏と)→こちら
後藤明生をめぐる旅(福岡篇・朝倉高校)→こちら

朝倉高校では、まず事務局長に出迎えていただいた。そして、うながされるまま、校長室に案内された。年度末の忙しい時期であったにもかかわらず、校長先生が私たちを歓待してくだった。茶菓の接待を受けながら、後藤明生について、校長先生や事務局長としばし歓談する。お話をうかがい、校長先生や事務局長が本校の卒業生である後藤明生を敬愛されていることがうかがえた。ショッキングなのは、その話の延長線上に次のような思いがけない展開が待ち構えていたことである。後藤明生さんは我が校出身の偉大な小説家であり、そのことを多くの人に知っていただきたいと思い、校長室に来られた方にはいつもこれをお見せしているのです。校長先生はそうおっしゃり、私たちのすぐ脇の棚に置かれている一つの額を指し示された。そこには額装された後藤明生の自筆原稿がおさめられていた。これには、有志一同、腰を抜かさんばかりに驚いた。タイトルは「五月の幻想」。63行から成る詩である。一般に小説家としてのイメージが強い後藤明生が、青年時代、詩を綴っていたということを意外に感じる人も多いだろう。生前、そのことを後藤明生本人からうかがったときは、私自身、意外に感じたものである。博報堂および平凡出版時代、アルバイトで女性週刊誌に無署名の詩を寄稿していた。その話は、早稲田大学を卒業後、就職もせず、福岡の街でくすぶっていた後藤明生に博報堂を紹介した朝倉高校の先輩H氏からうかがった。しかし、そういった話のわりに、後藤明生の綴った詩はこれまでなかなか発見出来ないでいた。それが思いがけず朝倉高校の校長室で見つかったのである。しかも、自筆の生原稿である。驚かないはずがなかろう。校長先生のお話によると、先代の校長先生から「これは非常に大切なものなので、くれぐれも丁重に取りあつかうように」といわれて来た代物であるという。いつ、どういった経緯で校長室に保存されるようになったのか、校長先生も事務局長もご存知ではなかった。(続く)
タグ: 後藤明生
posted by 乾口達司 at 20:35| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月01日

たびねす掲載情報42

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前回、たびねすに第41回(継体天皇?藤原鎌足?北摂地域の古代史に迫る高槻市・今城塚古代歴史館)を掲載したことは3月25日の日記に記しました。今回、新たな記事を掲載しました。今回のテーマは三重県伊賀市の伊賀上野城です。ご覧下さい。

第42回「伊賀市のシンボル・伊賀上野城!藤堂高虎から松尾芭蕉、伊賀忍者まで!」

http://guide.travel.co.jp/article/3571/
posted by 乾口達司 at 21:27| 奈良 | Comment(0) | TrackBack(0) | たびねす | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする