2014年01月27日

後藤明生を読む会(第19回)

後藤明生を読む会(第18回)→こちら

昨日は後藤明生を読む会の第19回がもよおされた。今回のテキストは『笑坂』(筑摩書房/1977年5月)。いつものように代表の発表者が基調報告をおこなった。今回は私が基調発表を担当した。その後、参加者のあいだで討議がおこなわれた。今回も話題となった事柄をアトランダムに列記しておく。

・五街道の一つである中山道が信濃追分を含む軽井沢一帯通っていた関係で、江戸時代には、街道沿いに軽井沢宿・沓掛宿・追分宿という3つの宿場町が点在していた。しかし、明治時代に入ると、街道を往来する人の数が激減する。特に1884年(明治17)、後に国道18号線と呼ばれることとなる碓氷新道が開通したことで人や物資の流れが決定的に変わり、軽井沢の没落を決定づける
・1885年(明治18)、カナダ人宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーがリュウマチの静養を兼ねて軽井沢を訪れたことで、軽井沢に転機のときが訪れる。森林にかこまれた軽井沢の土地や風土に魅了されたショーは、1888年(明治21)、軽井沢に別荘を建てる。以後、軽井沢は外国人向けの避暑地としての名声を確立していくこととなる。注目すべきは、ショーが療養の目的で軽井沢を訪れ、その魅力を発見しているということである。この事実はその後の軽井沢のイメージを考えたとき、きわめて象徴的であるといえる。すなわち、ショーが療養目的で軽井沢を訪れたことにより、軽井沢は「癒しの空間」としての特権性を確保することが出来たのである。もちろん、「癒しの空間」のなかには「避暑」もふくまれる。「軽井沢的なもの」の代表として「癒し」がキーワードになるということをまずは念頭におく必要がある
・文学は「軽井沢的なもの」はより強化された形でそのイメージを大衆に植え付けていく。病や疲れからの回復を目的とした「癒しの空間」を物質的に条件付ける格好のトポスとして外国人に見出された「高原」が、柄谷行人『日本近代文学の起源』において語られる「風景の発見」の対象に含まれることは、明らかであろう。柄谷行人の指摘しているとおり、「風景の発見」は風景を眺める主体の発見、正確にいうと「内面の発見」も意味している。したがって、「癒しの空間」としての「高原」=軽井沢という観念がやがて日本の文学者に引き継がれ、「高原」=軽井沢との親和的で且つ内面的、ロマンティックな結びつき、そのなかで得られる自己恢復、自己再生の物語としての「高原文学」を開花させていったことは当然の軌跡であったといえよう。その代表的かつ典型的な作品として『美しい村』や『菜穂子』に代表される堀辰雄のロマネスク風の小説群をひとまず挙げておく
・「軽井沢的なもの」を強化した存在として、もう一つ、忘れてならないのは「皇室」である。なかでも、軽井沢と皇室との関わりを決定付けたものとして、軽井沢会テニスコートで繰り広げられたいわゆる「テニスコートの恋」を挙げることが出来る。現在の天皇と皇后にあたる2人の男女がテニスを通じて親交を深め、やがて結婚するにいたるというハッピーロマンスを提供した舞台として、軽井沢はいわゆる皇室マニアにとっても一種の聖地というべきところであるといえよう
・以上の点を踏まえると、『笑坂』が「軽井沢的なもの」から大きく逸脱しているということがいえる。その代表的な箇所として欅の大木が倒れているシーンや繰り返し登場する「崖」(穴)、皇太子や堀辰雄に対する無関心の表明部分などを挙げることが出来る
・「癒し」とはそぐわない不気味さが作品全体を覆っているのも「軽井沢的なもの」から『笑坂』を引き離している要因であるといえる。その代表的な作品としては「道」や「煙霊」を挙げることが出来る。特に「道」の花豆老人の存在
・「笑坂」の冒頭には「花豆老人が死んで一年経った。死んだのはお盆の少し前だった。追分のお盆は月遅れの八月である」と書かれている。しかし、「道」のなかで「わたし」が花豆老人と最後に二度遭遇するシーンを読み返してほしい。いずれも「わたし」が老人の姿を目撃するのはバス停である。そして、その目撃した日時は、「八月はまだ数日残っていた」という記述にもあるとおり、お盆が終わり、8月も終盤に入ってからなのである。したがって、「笑坂」の冒頭の一文が正しいとすれば、「わたし」がバス停で目撃した花豆老人は、すでにこの世のものではなかったということになる。つまり、「道」は怪談めいた雰囲気を漂わせた小説ではなく、れっきとした<怪談>にほかならない
・『笑坂』が「癒す」という言葉とそぐわない小説であることの理由として、もう一つ、「わたし」自身の抜群の行動力を挙げることが出来る。「わたし」はひたすら動く存在として描かれている。すなわち、癒す―癒されるという関係から喚起される静的なイメージとはおよそ掛け離れた主人公の抜群の行動力が「癒す」というイメージをたたえる「軽井沢的なもの」から本作を引き離している要因として挙げられる
・「分去れ」と『吉野大夫』の第1章を比較すると、実は「分去れ」において描かれる「十一月はじめのある日」は『吉野大夫』の第1章で描かれている日、すなわち、主人公の「わたし」が吉野大夫という遊女の墓を探しに行く日である
・小林幹也の研究によると、「ある日」とは、正確には1976年11月2日のこと。興味深いのは、「分去れ」=『笑坂』と『吉野大夫』が同じ日の同じシーンを描きながら、対照的な軌跡を描いていることである
・なかでも、決定的なのは、ドライブインの食堂を出た後、「分去れ」の「わたし」がバスに乗って帰宅の途につくことが暗示されているのに対して、『吉野大夫』の「わたし」はそのまま国道を東へと向かい、吉野大夫の墓を探しにさらに探索を続けている点である。この分裂した展開は、最近、流行りの言葉でいえば、パラレルワールドとしてとらえることが出来るだろう。実際、『吉野大夫』はパラレルワールドを明瞭に意識したテクストとして描かれている。たとえば、『吉野大夫』を締め括る「草道を下りながら、わたしは、いつだったかこのあたりでモンペの女を思い出したことを、思い出した。そして、首筋のあたりが、ぞくっとしたことも思い出した。すると、とつぜん背筋のあたりが、ぞくぞくっとした。いま、もう一人のわたしが、吉野坂を歩いているような気がしたのである」という一節は、その代表的な箇所であるといえる
・分去れは、追分に実在する三角地帯。北国街道と中山道とが分岐するポイント。つまり、北国街道と中山道との分岐はそのまま帰宅の途につく「わたし」とさらに吉野大夫の墓を探しにいく「わたし」の分裂と重なりあっている
・パラレルワールドを踏まえると、「分去れ」のなかで「いま自分がこの場所にいるのは何かの偶然ではなかろうか。そう思ったとたん、とつぜん不思議な気持になった。人間は誰でも常にどこかにいなければならない。同時にその場所は必ず一箇所でなければならない。この事実が平凡であるからこそ、不思議な気持になったのだと思う」という一文そのものが相対化されているともいえる
・『笑坂』は『吉野大夫』とパラレルワールドとしての楕円の世界を構成しているとともに、後に描かれる『吉野大夫』によって相対化=批評されたテクストであるといえる

次回の研究会は4月頃、テキストは『汝の隣人』(河出書房新社)を予定している。
posted by 乾口達司 at 20:59| 奈良 | Comment(0) | TrackBack(0) | 自己 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする