2013年10月07日

後藤明生を読む会(第17回)

後藤明生を読む会(第16回)→こちら

昨日は後藤明生を読む会の第17回がもよおされた。今回のテキストは『スケープゴート』(日本文芸社/1990・7月)。いつものように代表の発表者が基調報告をおこなった。その後、参加者のあいだで討議がおこなわれた。今回も話題となった事柄をアトランダムに列記しておく。

・『スケープゴート』収録の作品はすべてこれまでの後藤作品の変奏曲となっている
・たとえば、津軽シリーズの「サイギサイギ」や「変形」で想定されているニセ書簡の宛先は『夢かたり』所収の「従姉」に登場するS子(澄子)である
・「サイギサイギ」所収の「夢」と『夢かたり』所収の「夢かたり」に描かれる「夢」との共通性と差異(自分の欲望のために自分の立ち位置をあやうくしているかのような夢である)
・「サイギサイギ」において描かれる集合写真に対する説明箇所と『行き帰り』所収の写真の説明箇所との共通性と差異
・「ジャムの空瓶」が『蜂アカデミーへの報告』の変奏曲であること(その書き方は反対になっている)
・津軽シリーズにおいて言及される叔父はこれまでも語られている。しかも、あまり良い存在としては描かれて来なかったこともあって、叔父に対する屈折した意識が認められる
・もしかしたら、叔父をあえて描かない方法が考えられたかも知れない
・朝鮮時代の話ではこれまでは母親の影を背負っていた。その母親は叔父に対して快い印象を持っていない。それに対して、津軽シリーズでは母親の陰が抜けている。母親を介すると叔父との関係がこじれてしまうこともあって、あえて母親に対する言及を消したのか?
・全体のテーマは「人のおこないがしばしばその意図とは違った形で現われて来ることへの笑い」
・読みづらい小説になっている理由としては、時系列のエピソードをいったんバラバラに解体し、再構成することによって、一貫した流れをギクシャクしたものにしているため(そこにその他のエピソードも組み込まれているが、それぞれのエピソード自体も適宜切断されている)
・たとえば、なぜS子が「マイクロバス旅行(?)」に便乗したり、「蟹銀」に同席したりしているのか、わからない
・「サイギサイギ」の第一パラグラフに登場する「手紙」は「礼状」とは別ものか?
・講演体と書簡体の組み合わせ(太宰治の「佐渡」や「みみずく通信」なども意識されているか?)
・「子供地蔵」における対話形式について(話が前に進行しているように見えてまったく進行しない)
・その描き方自体が作中で言及される「後生車」や川倉地蔵の堂守の話=「数珠玉式」を実践している
・川倉地蔵の描き方について(川倉地蔵=庶民の悲劇の象徴というステレオタイプの描き方をいかに相対化するかという実践がなされている)
・「スケープゴート」で言及されている太宰治の「十二月八日」は実際に太宰の妻の名義で発表されている。したがって、後藤明生が指摘しているように、妻がスケープゴートにされている
・「XYZへの手紙」は食道癌手術の直前に書かれたこともあって、作者としては遺作となることを意識した形跡が見られる
・しかし、その一方で、遺作そのものを相対化するような奇怪な展開が終盤に待ち構えている
・p172・173における「傍線」の表記について(物語が生成していく過程が認められる)

次回の研究会は来年1月頃、テキストは『笑坂』(筑摩書房)を予定している。その前に毎年恒例の忘年会も予定している。詳細は、決定次第、ご案内します。
ラベル:後藤明生
posted by 乾口達司 at 21:30| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 自己 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする