2013年02月27日

後藤明生を読む会(第15回)のお知らせ。

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2009年の年末以来、大学時代の同窓生たちと内向の世代の小説家・後藤明生(1932年〜1999年)をめぐる勉強会を立ち上げようと話し合って来た。これまでに何度も会合を重ねた。そして、2010年8月29日に第1回の読書会をもよおすことが出来た。以後、勉強会を重ねて来ている。前回の勉強会のことは1月20日の日記に記したとおりである。参加は自由である。興味のある方はいらっしゃって下さい。

■第15回後藤明生を読む会の御案内
2009年の暮れから有志で集まり、内向の世代の文学者・後藤明生の評論集を制作・刊行してみようと話しあってまいりました。それに先立ち、後藤明生の文学をより深く理解するため、これまでに「後藤明生を読む会」を企画・運営し続けております。後藤作品について共同で討議をするなかでお互いの認識と協同性を高めあい、後藤明生論集を執筆・刊行してゆく道筋をつけていければと考えております。特に発表者と聞き手とが相互に入れ替わることで各人がテクストの読み手であると同時に書き手であるという相互変換的な存在へと成長していければと願っております。
さて、来る3月24日、第15回の「後藤明生を読む会」をもよおします。参加資格などは一切ありません。万障お繰り合わせの上御出席下さいますよう御案内申し上げます。

日時  2013年3月24日(日)13:00〜17:00
場所  プレラにしのみや401集会室(西宮市高松町4-8)→こちら
最寄駅 阪急西宮北口駅
テキスト 後藤明生『首塚の上のアドバルーン』(講談社1989/講談社文芸文庫1999)
会費 500円程度(参加者数によって変動します)
その他  終了後、近くの酒場で懇親会をおこないます(会費は別途)
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2013年02月26日

京都市の真如堂・金戒光明寺。

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真如堂(京都市左京区浄土寺真如町82)と金戒光明寺(京都市左京区黒谷町121)を訪れるのは高校生のとき以来である。学校をさぼり、京都をぶらぶらしているときに訪れたのであった。当時の記憶はほとんどない。しかし、文殊塔の足元に立ち、京都の市街地を眺めたことだけはおぼえている。数十年振りの参詣に期待しながらまずは真如堂を訪れた。真如堂では広い本堂もさることながら、その近くに新長谷寺と呼ばれるお堂があることにはじめて気づいた。堂内には長谷式の十一面観音が安置されていた。三重塔があったこともすっかり失念していた。塔といえば、金戒光明寺・文殊塔の記憶が強かったせいだろう。真如堂の正式名が真正極楽寺ということも、今回、はじめて知った。本堂の脇から会津藩殉難者墓地の前を通り過ぎ、文殊塔を目指す。途中の西雲院の境内には会津小鉄の墓があった。これもはじめて知ったことである。かつて訪れたときには西雲院の境内などには足を踏み入れなかったのではなかろうか。文殊塔からの眺めはやはり素晴らしかった。あたりは墓石で埋め尽くされている。八橋検校など歴史上の著名人の墓や供養塔も多いと聞く。私が見つけたのは写真にあるように竹内栖鳳の墓くらいであった。石段の下には崇源院・徳川忠長親子および春日局の宝筺印塔もあった。崇源院の宝筺印塔は巨大な台座の上に乗っていることもあって確かに見上げるように大きかった。しかし、そのことがかえって権力者としての厭味を感じさせた。少しでも大きく見せようとしてかえって安定感が損なわれているようであった。
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2013年02月25日

龍谷ミュージアム企画展『若狭・多田寺の名宝』

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昨日は4月7日まで龍谷ミュージアム(京都市下京区堀川通り正面下る)でもよおされている企画展『若狭・多田寺の名宝』を鑑賞した。多田寺の仏といえば、以前、奈良国立博物館の特別展で本尊の薬師如来立像にお目にかかった。5、6年前のことではなかっただろうか。卵型の頭部、素朴でありながらインパクトのある面相、その面相とはギャップを感じさせる堂々たる体躯など、当時、強い感銘を受けたものである。今回はその本尊とともに脇侍としてまつられている日光菩薩=十一面観音立像と月光菩薩=菩薩立像もあわせて出展されていた。十一面観音立像は笑みを浮かべた柔和な面相であるのに対して、菩薩立像は鋭い目つきで面前を凝視している。対照的な表情である。本尊を含めていずれも奈良時代から平安時代初期に作られた古作であるという。意外だったのは像立年代にズレがあり、3体が三尊像としてセットで造られたものではないということであった。背面からじっくり観察することが出来たのも有り難かった。薬師三尊のほか、半丈六の阿弥陀如来坐像や四天王立像など、そのほかの宝物も出展されていた。そのことは事前に知っていた。しかし、多田寺のほか、竜前区の金銅薬師如来立像や諦応寺の木造・薬師如来立像、長慶院・如来立像や地蔵菩薩立像など、その周辺に点在する仏像も出展されているとは知らなかった。その点でも思いのほか見応えのある展覧会であった。今回の図録も購入した。後日、ゆっくり見てみようと思う。
タグ:仏像 展覧会
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2013年02月22日

兵庫・岡山紀行(若王子神社)

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兵庫・岡山紀行(仁豊野)→こちら
兵庫・岡山紀行(常福寺)→こちら
兵庫・岡山紀行(宮ノ前古墳群)→こちら
兵庫・岡山紀行(親王塚)→こちら
兵庫・岡山紀行(性海寺)→こちら
兵庫・岡山紀行(置塩城跡)→こちら
兵庫・岡山紀行(弥勒寺)→こちら
兵庫・岡山紀行(弥勒寺宝塔)→こちら

弥勒寺(姫路市夢前町寺1051)から小坪の集落に戻ると、川の対岸に神社があった。若王子神社(姫路市夢前町寺564)である。本殿は一間社・春日造。延宝7年(1680)の建立であるとのこと。弥勒寺には参詣のものが大勢いた。しかし、若王子神社に参拝するものはまったくいない。氏子の男性であろうか。男性が一人で境内の清掃に励んでいた。境内の木立も見上げるように高かった。
タグ:神社
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2013年02月21日

兵庫・岡山紀行(弥勒寺宝塔)

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兵庫・岡山紀行(仁豊野)→こちら
兵庫・岡山紀行(常福寺)→こちら
兵庫・岡山紀行(宮ノ前古墳群)→こちら
兵庫・岡山紀行(親王塚)→こちら
兵庫・岡山紀行(性海寺)→こちら
兵庫・岡山紀行(置塩城跡)→こちら
兵庫・岡山紀行(弥勒寺)→こちら

弥勒寺(姫路市夢前町寺1051)には石造の宝塔がある。高さは128センチメートルで鎌倉時代後期の作であるという。目を凝らすと搭身の正面には線刻で扉がしつらえられている。文字も刻まれているという。しかし、判読することは出来なかった。性空上人の供養塔であるということであった。
タグ:石塔
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2013年02月20日

雪の誕生日。

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今年は雪の誕生日となった。誕生日の前日は雨だった。日中、所用があって外出をしていた。所用を済ませた後は傘をさしながら奈良公園を散策した。片岡梅林の梅はまだ硬い蕾であった。雨は夜にはあがった。しかし、翌朝、目をさますと今度は雪が降っている。降り積もるような雪ではない。しかし、いつまでも降っている。結局、雪が止んだのは昼を過ぎてからだった。夜は誕生日恒例の赤飯を食べた。夕食の後はケーキも食べた。
タグ:誕生日
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2013年02月18日

兵庫・岡山紀行(弥勒寺)

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兵庫・岡山紀行(仁豊野)→こちら
兵庫・岡山紀行(常福寺)→こちら
兵庫・岡山紀行(宮ノ前古墳群)→こちら
兵庫・岡山紀行(親王塚)→こちら
兵庫・岡山紀行(性海寺)→こちら
兵庫・岡山紀行(置塩城跡)→こちら

弥勒寺(姫路市夢前町寺1051)では、正月3か日は本堂(国重文)の内部が公開されている。今回の旅の目的の一つに弥勒寺の本堂内部を拝観することも含まれていた。内陣には弥勒仏坐像および脇仏(立像)が安置されている。弥勒仏坐像は一木造り。像高93.5センチメートル。平安時代中期の作であるという。左手には宝塔をのせている。内部には他にも正月だけ公開されている子安地蔵立像なども安置されていた。今回、訪れてもっとも印象に残っているのは弥勒仏坐像を安置している本堂の天井であった。二重折上小組格天の繊細な造型には感銘を受けた。敷地内には他にも開山堂や護法堂などが点在していた。日本一大きな布袋像には圧倒された。
タグ: 仏像
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2013年02月17日

家呑み12

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前回、家呑みについて書いたのは2011年12月23日の日記であった。あれからも何度か家呑みを楽しんでいる。しかし、オンライン上に書くのは久し振りである。今日は昼前からエミ親子を交えての久し振りの家呑みであった。転害門前の“鳥良かしわ店”(奈良市今小路町18 )で購入した焼き鳥・唐揚げなどの鶏肉類、ポテトサラダ、自家製チャーシュー、カプレーゼ、ちらし寿司などを用意した。途中からはケーキも食した。10日ほど前に食あたりを起こして以来の酒である。がぶがぶ呑んで急に酔いがまわらないようにビールからはじめて焼酎のお湯割りをちびりちびり呑んだ。
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2013年02月15日

井上謙先生の思い出(4)

井上謙先生の思い出(1)→こちら
井上謙先生の思い出(2)→こちら
井上謙先生の思い出(3)→こちら

先生が講義で何を話されたのか、いまとなってはほとんど思い出せない。思い出すとすれば、「人生は邂逅である」という亀井勝一郎の言葉を引き合いに出して、人と人とのめぐり逢いの大切さを説いておられた場面くらいである。私の場合はむしろ講義以外の場でうかがったお話に思い出深いものが多い。なかでも、たびたび思い出すのは次の話である。まだ学部生だったときのことである。大学の近くにあった先生の行きつけの喫茶店で夕食をご馳走になっていた。きみは卒業論文のテーマに何を選ぶつもりなんだ。食事の合間に先生は不意にそう訊ねられた。私は宇野浩二・牧野信一・横光利一を一つの連続としてあつかうつもりであるとお答えした。先生は、そりゃあ、おもしれぇなと江戸っ子風におっしゃった後、しかし、研究者としての道を選ぶなら、ゆくゆくは研究対象を一人に絞った方がいいぞと忠告をされた。研究者になろうなどとは思っていなかった私は先生の忠告にどのようにお返事すれば良いのかわからなかった。私の戸惑っている様子を見て先生はさらに言葉を付け加えられた。一人の作家をとことん研究するんだよ。それを究めたら、あとは自分の好きなことをやって遊んでりゃあいいんだよ、呵呵大笑。先生の忠告が研究者における本来の姿勢なのかどうか。その判断はいまもってつかない。しかし、少なくとも先生が「一人の作家」=横光利一を「とことん研究」し、その後は森敦や向田邦子、有吉佐和子の研究、さらには市川猿之助のスーパー歌舞伎に対する関心、中国との文化交流などにも積極的に乗り出しておられたことは確かである。紅白歌合戦の審査員になりたいと切望し、そのことを私たちに熱く語っておられたのも、いまから思えば、「遊び」の一貫だったのであろう。

現在、私は先生の「遊び」の部分よりも「一人の作家をとことん研究」していたときの姿勢に関心を持つ。5、6年前だろうか。たまたま横光利一の遠縁に当たる女性のエッセイを読む機会に恵まれた。女性の名前は忘れた。確か伊賀上野の出身の方ではなかっただろうか。その女性のエッセイに若かりし日の先生の姿が描かれていた。当時、先生はまだ30代か40代ではなかったかと思う。ある日、横光利一の話を聞かせて欲しいといって女性宅に押し掛け、女性から横光利一のことを根掘り葉掘り聞いていかれたという。文章からは女性が先生の押しかけ取材を明らかに迷惑がっている様子が読み取れたが、見方を変えれば、横光利一をこよなく愛し、横光利一に関することであれば、何でも知りたい、記録しておきたいという先生のがむしゃらな姿勢がうかがえる内容であった。私が先生とお会いするようになったとき、先生はすでに横光利一研究の世界ではその第一人者となっておられた。したがって、先生の日常は「一人の作家をとことん研究」する時代からすでに「遊び」の時代に移行していた。それだけに女性のエッセイは「一人の作家をとことん研究」していた時代の先生の姿をしのぶには貴重な一文であったといえる。ちなみに、女性宅に取材に現われたとき、先生は背中に巨大な録音機を背負っておられたという。確かそう書かれていたと思う。巨大な録音機を背負った先生が女性にマイクを突きつける。女性は先生の押しかけ取材に対して明らかに迷惑な顔をしている。ときには迷惑であるということを遠まわしに語っていたかも知れない。しかし、横光利一をこよなく愛し、横光利一に関することであれば、何でも知りたい、記録しておきたいと考えておられる先生は女性の困惑などはお構いなしに次々に質問を投げ掛けられる。巨大な録音機とつながったマイクをあいだに挟み、先生と女性とが押し問答を続けている。そんな光景がありありと目に浮かぶ。先生の背負っておられたという巨大な録音機は、いま、どこでどうなっているのだろうか。もしも、ご自宅に保存されているのであれば、その巨大な録音機が先生の「とことん研究」時代を象徴する遺品の一つであるということになる。合掌。(終り)
タグ:井上謙
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2013年02月14日

井上謙先生の思い出(3)

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井上謙先生の思い出(2)→こちら
井上謙先生の思い出(4)→こちら

大学院に進学後、先生には修士論文の副査をつとめていただいた。修士論文の提出後、主査および副査による面接があった。先生はそのとき文中に引用された先行文献について訊ねられた。そして、良質の先行文献を引用していると褒めてくださった。あとは文中の誤字脱字を指摘されたくらいである。最後にはこれからもしっかりやりたまえと励ましてくださった。大学で働きはじめてからは雑務に追われ、かえって先生とゆっくりお話をする時間がとれなかった。それでもときどき構内で顔を合わせると、おい、元気かとご自分の方から声を掛けてくださった。今度、横光利一の事典を作るんだよ。きみ、協力してくれよ。そうおっしゃってくださったこともある。先生のお言葉に私ははっきりしたお返事をしなかったように思う。それでも、後年、『横光利一事典』(おうふう)の執筆者の末席に付け加えてくださった。先生が運営委員を務めておられた解釈学会の会員誌にも寄稿するように熱心に勧めていただいた。先生の後押しがなければ、「牧野信一における『私』の非同一性をめぐって−『或る日の運動』と『「或る日の運動」の続き』のはざまで」(「解釈」1999年8月)や「後藤明生『夢かたり』における『わたし』の過去と現在をめぐって−『煙』を中心にして」(「解釈」2002年2月)を書くことはなかっただろう。

先生が大学を退職されたのは1999年の春だったと思う。ご自宅のある関東に活動の拠点を移されたこともあり、退職後はお会いする機会がまったく失われた。退職後も文学散歩の講師などで精力的に活躍されているという話は風の便りで聞いた。年賀状は毎年お送りした。お送りする年賀状にはいつも近況をしたためた。近況やメッセージを書き込んだ年賀状でなければ、自分は受け取らない。以前、そうおっしゃっていたのを憶えていたからである。年賀状をお送りすると、いつもお返事を頂戴した。葉書には、毛筆で一言二言、メッセージが書き込まれていた。しかし、達筆過ぎて、何が書かれているのか、ほとんど判読出来なかった。退職されてから出された『有吉佐和子の世界』(翰林書房)などの著書も何冊か頂戴した。著書にはいつもお手紙が添えられていた。私のことを気遣ってくださっているのがうかがえる文面であった。いろいろ手伝ってもらいたいことがあるので、上京するようなことがあったら、自宅に遊びに来るように。そう記されていることもあった。しかし、上京する機会があっても、結局、お訪ねしなかった。先生からすれば、いつまでたっても水臭い奴だな、といったところだっただろう。(続く)
タグ:井上謙
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2013年02月13日

井上謙先生の思い出(2)

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先生から大阪の渡し船を調べて来るように命じられたのはいつだっただろうか。2年のときだっただろうか。それとも3年に入ってからだったか。とにかく私は、ある日曜日、同級生のOとともに大阪湾沿岸に見られる渡し船の現地調査におもむいたのであった。調査は、朝、JR芦原橋駅でOと合流するところからはじまった。木津川に沿って南下をはじめた私たちは木津川の両岸を数箇所でつなぐ渡し船に乗り込み、川の右岸に渡ったり、左岸に戻ったり、もう一度、右岸に渡ったりした。大正区に上陸した後は、一転、北上して港区へと向かった。港区へ渡る際にも渡し船を使った。最後はやはり渡し船を利用して天保山から対岸の桜島へと渡った。そして、線路沿いにJR西九条駅まで歩いて帰って来たように思う。結局、調査は一日がかりとなった。渡し船や渡し場の写真はOが撮影をした。詳しいメモをとったのもOである。私は何もしなかった。ただ、手ぶらでOの調査に同行したに過ぎない。休日の一日、自分とは縁もゆかりもない大阪湾沿岸一帯を歩きまわらなければならなくなったみずからの境遇を嘆き、愚痴をこぼすOの聞き役に徹していただけである。当日の報告書はOが提出したのであろう。私は報告書など提出しなかった。そして、そのことで先生から何か問い質されることもなかった。

『ノンキナトウサン』『只野凡児・人生勉強』で知られる漫画家・麻生豊の遺品や原画を調査するため、先生のお弟子さんに当たるS氏と大分県宇佐市にある麻生豊の実家へおもむくように命じられたこともあった。あのときは渡し船の調査を一緒におこなったOのほか、漫画研究会に所属していたもう一人のO、今回、訃報を寄越してくれたKとは別のKも同行した。それは渡し船調査の前だったか、後だったか。それもいまでははっきりしない。しかし、大阪・南港からフェリーに乗り込み、九州に上陸した後はOの自家用車で大分県内をめぐったこと、麻生豊の実家のほかにも宇佐八幡宮などを見学したこと、泊ったのがお化けでも出るのではないかと思うほど古ぼけた民宿であったこと、廊下に長大な流しが設けられていたこと、私たちはそこで歯を磨いたり、顔を洗ったりしたことなどははっきり憶えている。宇佐在住の方にお酒もご馳走になったように思う。その方は先生のお知り合いであったようである。そして、そのとき、宇佐が横光利一とも縁の深い土地であることを知った。ここでもまた横光利一である。しかし、麻生家における肝心の調査はさっぱりだった。資料の整理方法などを専門に学んだこともないような二十歳やそこらの若造どもに遺品や原画の整理など出来るはずがなかろう。調査といえば、お茶をご馳走になりながら、ご遺族に麻生豊のお話をうかがったくらいである。それも、麻生家におうかがいした折、ご遺族の方から思い出話をされたのをただぼんやり聞いていたに過ぎない。したがって、ご遺族が何を話されたのか、いまとなってはさっぱり憶えていない。しかし、そのときも、後日、先生からは調査の成果を訊ねられることはなかった。私の方から何かご報告した記憶もない。確かS氏がその後もたびたび宇佐を訪れ、麻生豊の遺品や資料の整理をやり遂げられたはずである。(続く)
タグ:井上謙
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2013年02月12日

井上謙先生の思い出(1)

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大学時代の恩師・井上謙先生が亡くなられた。葬儀は2月12日午前11時半から東京の麻布山善福寺でとりおこなわれた。訃報が届いたのは9日の夜のこと。大学時代の同級生Kからであった。訃報を受けたとき、私は仕事の最中であった。仕事の関係で前夜の通夜、当日の葬儀ともども参列が叶わない。しかし、Kはわざわざ上京し、参列の叶わない同級生たちになり代わり、当日の葬儀に参列してくれるという。みなさんに宜しくお伝えくださいとお願いをした。

私が先生とはじめてお会いしたのは大学に入学した平成元年のことである。今年が平成25年であるということから逆算をすると、はじめてお会いしてからもう25年の歳月が流れたことになる。先生の訃報を聞いてまず思ったのは25年という歳月の流れの早さであった。先生の講義は大学1年から受講をした。淀みなく語られる歯切れの良い話し振りには、毎回、圧倒された。いまでもその話し振りを昨日の出来事のようにありありと思い出すことが出来る。しかし、ありありと思い出されるその記憶がいまから25年前のものであるという事実にはまったく現実感がともなわない。これは正直な感想である。

入学して二ヶ月ほどたった頃だろうか。大学でエレベーターを待っていると、先生とばったり出くわした。会議に出られる途中だったのであろう。おいという掛け声に振り向くと、先生は片手をポケットに突っ込み、もう一方の手に書類の束をもって立っておられた。先生はすでに私の顔を憶えておられたようである。きみ、どこに住んでいるんだ。先生は大きな目玉で私の方を見て訊ねられた。私が奈良に住んでいますと答えると、すかさず、じゃあ、モリアツシを知っているか、と訊ねられた。当時、文学青年でも何でもなかった私は「モリアツシ」が何者なのか知らなかった。「モリアツシ」がどのような字を書くのかさえ瞬時に判断がつかなかったように思う。正直に知りませんと答えた。すると、先生は次のように私を叱られた。馬鹿! モリアツシは芥川賞作家だぞ。そんなことも知らないのか! その後、先生はモリアツシが横光利一の弟子であること、長年の放浪生活のなかで奈良にも一時暮らしていたことを話された。そして、最後に、今度、僕の研究室に遊びに来いよ、モリアツシのことも教えてやるから、と付け加えて、その場を立ち去られた。先生が横光利一の研究家であることはすでに講義のなかでうかがっていた。それだけに「横光利一」と「奈良」というキーワードから「モリアツシ」=森敦の名前が出て来たこともようやく理解することが出来た。先生が如何に横光利一とその薫陶を受けた文学者たちを敬愛されているかを実感したものである。しかし、研究室にはおうかがいしなかった。(続く)
タグ:井上謙
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2013年02月11日

北生駒で昼食。

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所用があって“きんのぶた”北生駒上町店(生駒市上町3414)で会食をした。今回は和豚もちぶたコースを注文。だしは7種類のなかから2種類を選ぶことが出来るという。味噌とんこつだしとすき焼き風だしの2種類を選択した。和豚もちぶたコースは2時間の制限内で決められた豚肉や麺類、ご飯類、一品料理などを食べ放題である。もちろん、豚肉も美味しかったが、意外だったのは鍋に投入する細切野菜が想像以上に美味しかったことである。だしに軽くひたす程度ですぐに引き上げても充分に美味しい。スープおこげあんかけまで食べたのでお腹がいっぱいになった。
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2013年02月10日

兵庫・岡山紀行(置塩城跡)

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兵庫・岡山紀行(常福寺)→こちら
兵庫・岡山紀行(宮ノ前古墳群)→こちら
兵庫・岡山紀行(親王塚)→こちら
兵庫・岡山紀行(性海寺)→こちら

置塩城は、中世、播磨国を支配した赤松氏の居城である。正確にいうと、嘉吉の変によって、一時、赤松氏が滅亡した後、赤松政則の代になって赤松氏は播磨の国主に返り咲く。置塩城はその時代に政則によって築城されたものである。城は標高370メートルの置塩山の山頂に築かれている。現在もその遺構が確認出来るという。今回の旅では、当初、実際に置塩山に登り、その遺構を見学するつもりであった。しかし、往復だけで2時間を要する置塩山登山を日程に組み込むと、その後のスケジュールが大幅に狂ってしまう。今回は見学を諦めざるを得なかった。ふもとから頂上付近を眺めただけである。頂上からの眺めはさぞ雄大であろう。次回、当地を訪れるときは置塩城見学をメインにしてスケジュールを組みたいと思う。
タグ: 赤松氏
posted by 乾口達司 at 22:59| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月09日

北小路町の慈眼寺2013

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今年の初午は本日2月9日である。仕事前、朝早くから厄除け祈願に出掛けた。訪れたのは厄除け発祥の寺であるとされる慈眼寺(奈良市北小路町7)である。慈眼寺は近鉄奈良駅前・高天の交差点からやすらぎの道を北へ5、6分のところにある。普段はひっそり静まり返っている。しかし、この日ばかりは参詣者でゴッタ返していた。受付で所定の用紙に名前と住所を記し、それを本堂の縁側に座り込んでいる担当者に祈祷料(5000円〜)と一緒に手渡す。あとは入堂して祈祷中の僧侶に自分の名前が読みあげてもらうのを待つだけである。参詣の時間が早かったため、名前を読まれるまでに十分もかからなかった。御札をいただいた後、本堂の横で配られているあめ湯をいただいて帰宅した。
タグ:厄除 初午
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2013年02月08日

兵庫・岡山紀行(性海寺)

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兵庫・岡山紀行(仁豊野)→こちら
兵庫・岡山紀行(常福寺)→こちら
兵庫・岡山紀行(宮ノ前古墳群)→こちら
兵庫・岡山紀行(親王塚)→こちら

暮坂峠をえっちらおっちら登る。峠に立つ地蔵の前でしばし休憩し、夢前町方面に道を下った。しばらく下ると、右手に特別養護老人ホームを併設した性海寺(姫路市夢前町宮置812)が現れる。当寺は、奈良時代、徳道上人によって開かれたという。現在の本堂は江戸時代の建立。内陣には本尊の十一面千手観音菩薩立像が安置されている。格子越しに遠目に眺めるしかないため、詳しい像高は不明ではあるものの、等身大以上の大きさを誇っているようである。赤松氏との関わりが深いほか、境内の奥には英賀城主・三木氏歴代の墓とされる墓石も並べられている。近年はいわゆる夢前七福神の一つとして知られているようだ。当寺でまつられているのは弁財天。お接待として用意された甘酒を頂戴しているあいだにも、夢前七福神めぐりの参詣者がひっきりなしにやって来ていた。
タグ: 仏像
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2013年02月07日

嘔吐その後。

賞味期限の切れたラーメンのスープを飲み干して猛烈な嘔吐をもよおしたことは昨日の日記に記した。昨日はあれからすぐに休んだ。就寝の時点で胃の内容物はほとんどすべて吐き出している。しかし、まだ胃にむかつきが残っていた。したがって、うつ伏せで眠る。夜中に突然の嘔吐に見舞われる可能性があるため、念のため、枕元にはゲロ袋を用意しておいた。しかし、その心配はなかった。今朝は快調に目が覚めた。しかし、胃のなかはまだ荒れているのであろう。少しばかり違和感があった。朝食は胃を慮ってお茶漬けにした。昼食には素うどんを食べた。午後になって本格的に恢復をした。資料の取り寄せも兼ねて奈良県立図書情報館(奈良市大安寺西1-1000)までぶらぶら出掛けた。夜は雑炊であった。
タグ:嘔吐
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2013年02月06日

嘔吐。

夕方、仕事が一段落したため、所用も兼ねて外出をした。その頃から胃のあたりに違和感があった。夕食後、胃のむかつきが強くなった。入浴後はじっとしていられないほどになり、やがてトイレに駆け込む始末となった。大量の嘔吐である。ノロウィルスか。一瞬、そう思ったが、ノロウィルスにあるべき下痢がない。以前、ノロウィルスにかかった経験から判断して、今回の嘔吐が感染性の胃腸炎の類ではないように思われた。思い当たるとすれば、昼に食べたラーメンである。今日は自宅でラーメンを食べた。麺は乾麺を使った。しかし、スープは以前の余りものを使った。液状のスープである。食後、開封した後のスープの袋を捨てようとして、袋に記載された賞味期限が先月中旬であることに気がついた。液状スープの場合、やはり油の劣化が激しい。今夜の嘔吐の原因はおそらくその劣化したスープの油にあったのだろう。内容物をすべて吐き出したせいで気分はすっかり良くなった。しかし、用心のため、今夜は早めに休もうと思う。
posted by 乾口達司 at 23:17| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 自己 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月05日

兵庫・岡山紀行(親王塚)

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兵庫・岡山紀行(仁豊野)→こちら
兵庫・岡山紀行(常福寺)→こちら
兵庫・岡山紀行(宮ノ前古墳群)→こちら

常福寺からは暮坂峠を目指した。田川神社方面と暮坂峠方面への分岐点の手前でふと左手の田畑を眺めると、なにやら石碑のようなものが建てられている。何だろうと思って近寄ってみた。石碑には「親王塚」と刻まれている。後日、調べてみると、どうやら後醍醐天皇の皇孫で大塔宮・護良親王の皇子であるとされる興良親王(陸良親王)の陵墓であるという伝承があるようだ。『太平記』巻34「銀嵩軍事付曹娥精衛事」によると、「吉野ノ新帝」=御村上天皇の即位後、征夷大将軍となった「吉野ノ将軍ノ宮」=興良親王は紀伊国における四条中納言の敗退を聞きつけ、みずから出陣を決意。兄弟間の不和が原因で南朝方に帰順していた赤松氏範に吉野十八郷の兵を副へて出陣することとなる。しかし、事態はここから意外な方向に展開する。「吉野ノ新帝ヲ亡シ奉テ、武家ノ為ニ忠ヲ致シテ、吉野十八郷ヲ一圓ニ管領セバヤ」と思い立った親王は北朝方の将軍・足利義詮と通じ、賀名生の奥にある銀嵩山にて兵を挙げる。そして、賀名生・黒木の内裏など、南朝方の館を焼き払ってしまう。親王の謀反を知った南朝は二条前関白を大将軍として追討の兵を差し向ける。南朝方の強硬な姿勢を知った吉野十八郷の兵たちはこれに驚き、散り散りに失せてしまう。勝ち目がないことを悟ったのであろう。氏範は親王を南都方面へ落ちのびさせ、みずからは降人となって本国・播州へと舞い戻ったという。『太平記』の作者は親王が謀反を思い立った理由を「何ナル物狂ハシキ御心ヤ著ケン」といぶかり、その結末までを含めて、「不思議ナリシ御謀反也」と締めくくっている。「物狂う」としかいい表せないほど、当時、南朝・北朝いずれにおいても繰り返されていた裏切りが原因不明で「不思議」=不条理な事態であったのであろう。「物狂う」は、当時、世のなかに蔓延していた時代の空気そのものだったのかも知れない。当地に興良親王のものと伝わる塚が残されているということは、南都方面に落ち延びた後、親王は相変わらず氏範を頼り、塚のある香寺町須加院地区を根城にして活躍していたということだろうか。
タグ: 太平記
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2013年02月04日

兵庫・岡山紀行(宮ノ前古墳群)

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兵庫・岡山紀行(仁豊野)→こちら
兵庫・岡山紀行(常福寺)→こちら

宮ノ前古墳群(姫路市香寺町中須加院)は常福寺のすぐ東側、若葉台保育園の向かいにある。1号墳の北側30メートルほどのところに2号墳がある。いずれも石室が開口・露出している。いずれも羨道がほとんど崩壊しているものの、玄室は良く残っている。特に1号墳の天井石は大きい。
posted by 乾口達司 at 22:23| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月03日

兵庫・岡山紀行(常福寺)

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兵庫・岡山紀行(仁豊野)→こちら

JR仁豊野駅から須加院地区へと足を踏み入れた。しばらく歩くと、常福寺(姫路市香寺町須加院420)に着いた。常福寺は、現在、黄檗宗の寺院となっている。しかし、中古・中世には日野資業によって建立された極楽寺という寺院が存在したという。江戸時代、常福寺の裏山からは極楽寺時代のものとされる瓦経や土製の小仏などが多数出土している。それらは一括して「播磨極楽寺経塚出土品」と呼ばれ、貴重な文化財として東京国立博物館に所蔵されているということであった。写真は常福寺のすぐ近くで見かけた小さな石塔である。
タグ: 石塔
posted by 乾口達司 at 21:34| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月02日

兵庫・岡山紀行(仁豊野)

正月に兵庫県と岡山県をめぐった。これからしばらくそのときのことを記録しておこうと思う。一日目は早朝に出発。近鉄線・JR線を乗り継いで兵庫県内に入った。降り立ったのは播但線のJR仁豊野駅である。仁豊野と書いて「にぶの」と読む。当駅に降り立つ前はてっきり「にとよの」だと思っていた。何となく古くから云われのありそうな駅名である。駅を降り立ち、須加院方面に向けて、国道を北上した。そして、歩きはじめてすぐに「春の来た日に/和辻哲郎/ここに生まれる」という四角形の石碑を見つけた。どうやら石碑の奥のお屋敷が和辻哲郎の生家であるようだ。和辻の著書は『古寺巡礼』『日本古代文化』『風土』など幾つも読んでいる。しかし、和辻自身が何処の生まれであるかなど、考えたこともなかった。そういえば、その作者の作品はたくさん読んでいても、その出身地を知らないケースは多いな。石碑を目にしながらそんなことを思った。
タグ:和辻哲郎
posted by 乾口達司 at 21:26| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月01日

咳と鼻水。

先月の下旬より風邪らしき症状を引きずったままである。体調は決して悪くはない。むしろいたって元気である。しかし、どういうわけか、咳だけが長く続いた。おとといくらいから咳がようやくおさまりかけて来たかと思うと、今度は鼻水である。単に風邪のなおりが悪いだけのか、それともいま話題の大陸からの汚染物質によるものだろうか。いずれにしても不思議な状態が続いている。
タグ:風邪
posted by 乾口達司 at 23:10| 奈良 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 自己 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする