ラベル:正月
2012年12月30日
新年を迎えるに当たって。
明日は大晦日である。この一年を振り返るといろいろなことがあった。なかでも、痛恨の出来事だったのは、研究会の同志である文芸評論家の松井博之氏を急性白血病で失ったことである。松井氏とは亡くなる数日前に研究会で顔を合わせていた。それだけに訃報を聞いたときには現実感がまったくともなわなかったほどである。いつでも会うことが出来る。そう思っていても、ある日、突然、会えなくなることもある。しかも、永遠に。そんなことを考えさせられる年であった。来年はどんな年になるのだろうか。とりあえず、目下の仕事を片付けなければならない。明日の夕方には何とか無事にやり終えて、気持ち良く新年を迎えたいものである。来年も宜しくお願い申し上げます。
2012年12月29日
『ひょうご文化財散歩』と『旅の仏たち(3)』

2012年もあとわずか。年末は奈良に滞在し、残った仕事を仕上げるつもりである。しかし、年が明けてからふらりと旅に出る予定である。向かうは瀬戸内方面。今回は、旅の途中、兵庫県内にある地方仏を訪ねるつもりでいる。参考図書として、目下、仕事の合間にぱらぱらめくっているのが、神戸新聞社編『ひょうご文化財散歩』(神戸新聞出版センター刊/1981年6月)と丸山尚一の『旅の仏たち』第3巻(毎日新聞社刊/1987年11月)である。地元民でなければ知らないような神社仏閣やそこにまつられている仏像などが数多く紹介されている。これまでにも兵庫県内の仏像を拝観する際に参考にしている。今回もこれらに収録された仏像を見てまわりたいと思っている。
2012年12月28日
2012年12月27日
後藤明生を読む会(第14回)のお知らせ。

2009年の年末以来、大学時代の同窓生たちと内向の世代の小説家・後藤明生(1932年〜1999年)をめぐる勉強会を立ち上げようと話し合って来た。これまでに何度も会合を重ねた。そして、2010年8月29日に第1回の読書会をもよおすことが出来た。以後、勉強会を重ねて来ている。前回の勉強会(文学散歩&忘年会)のことは12月11日の日記に記したとおりである。参加は自由である。興味のある方はいらっしゃって下さい。
■第14回後藤明生を読む会の御案内
2009年の暮れから有志で集まり、内向の世代の文学者・後藤明生の評論集を制作・刊行してみようと話しあってまいりました。それに先立ち、後藤明生の文学をより深く理解するため、これまでに「後藤明生を読む会」を企画・運営し続けております。後藤作品について共同で討議をするなかでお互いの認識と協同性を高めあい、後藤明生論集を執筆・刊行してゆく道筋をつけていければと考えております。特に発表者と聞き手とが相互に入れ替わることで各人がテクストの読み手であると同時に書き手であるという相互変換的な存在へと成長していければと願っております。
さて、来る2013年1月19日、第14回の「後藤明生を読む会」をもよおします。参加資格などは一切ありません。万障お繰り合わせの上御出席下さいますよう御案内申し上げます。
日 時 2013年1月19日(土)13:00〜17:00
場 所 大阪市立城北市民学習センター第3会議室(大阪府大阪市旭区高殿6-14-6)
最寄駅 谷町線・今里線→関目高殿駅/京阪電車→関目駅
・城北市民学習センターのホームページ→こちら
テキスト 後藤明生『めぐり逢い』(集英社)
参加費用 500円程度(参加者数によって変動します)
その他 終了後、近くの酒場で懇親会をおこないます(会費は別途)
ラベル:後藤明生
2012年12月26日
仏像カレンダー。

仏像の写真が収録された壁掛け用のカレンダーを頂戴した。岡村印刷工業(奈良県高市郡高取町車木215)が製作する仏像カレンダーである。1955年の第1集以来、発行を重ね、今回、頂戴した最新版(2013年版)で第59集となる。表紙の写真は中宮寺の菩薩半跏像である。1・2月分には秋篠寺の伎芸天立像、3・4月分には薬師寺の日光菩薩立像、5・6月分には法輪寺の虚空蔵菩薩立像、7・8月分には東大寺の月光菩薩立像、9・10月分には中宮寺の菩薩半跏像、11・12月分には法隆寺の阿弥陀三尊像の写真がそれぞれ収められている。9・10月分の中宮寺菩薩半跏像は表紙の写真とは別の角度から撮影されたものである。いずれも有名な仏像ばかりである。撮影者は小川光三氏。開封後、早速、本棚の側面にかけてみた。
2012年12月25日
金山寺本堂全焼。
岡山市北区の金山寺本堂(国重文)が炎上しているというニュースを知ったのは、昨夜の十時過ぎである。今年の1月、岡山を訪れた折に私は法界院とあわせてお参りをしている。もちろん、今回、全焼した本堂も訪れている。それだけに昨夜の本堂全焼のニュースに対するショックは大きい。思い返すと、私がお参りした日は小雪のちらつく寒い日であった。修復作業中の仁王門をくぐり、石段をのぼっていくと、真正面に本堂が現れる。桃山時代に再建された本堂は桁行5間・梁間6間の入母屋造・本瓦葺。正面に1間の向拝がついた大堂である。内部は外陣と内陣とから成り、内陣には本尊の千手観音菩薩立像がまつられているという。私が訪れたとき、本尊がまつられていると思しき中央の仏壇には大きな曼荼羅がかけられていた。その両脇には弘法大師や阿弥陀如来とおぼしき坐像も安置されていた。阿弥陀如来坐像は俗に「頬焼き阿弥陀」と呼ばれる当寺ゆかりの仏像であったかも知れない。もしも、それが「頬焼き阿弥陀」であったとしたら、今回の一件で「頬焼き阿弥陀」も本堂ともども焼失してしまったかも知れない。堂内にも立ち入った。ほとんどの扉が締め切られていたこともあり、内部は薄暗かった。しかし、外陣の上にかけられた大虹梁や内壁に華やかな彩色がほどこされているのははっきり確認することが出来た。ニュースによると、普段、寺は境内に暮らす住職が一人で管理しているという。しかし、昨夜はあいにく留守であったとのこと。私がお参りをしたときも確かに人気はなかった。堂内も開放されているわりに誰もおらず、他人事ながら、盗難の心配をしたほどである。堂内にともされていたロウソクの火が何かの拍子に倒れて燃え広がったのか、それとも何者かによって故意に火を放たれたのか。いずれにせよ、残念である。ニュースで見る限り、本堂からさらに山手にある三重塔(天明8年建立)は被害を免れたようである。
2012年12月24日
クリスマスパーティ。

仕事が午前中までかかった。終了後、慌てて身支度をして家を出る。そして、クリスマスパーティに参加をした。ローストチキンは転害門前の“鳥良かしわ店”(奈良市今小路町18)で購入。ポテトサラダの他にはおでんが出た。クリスマスにおでんとは珍しい。おなかがいっぱいである。食事の後は手作りケーキ&シュークリームとコーヒーでくつろぐ。
ラベル:クリスマス
2012年12月22日
アンゲロプロス追悼特集。
忙しい日々が続いている。おかげで京都みなみ会館において15日〜昨日まで公開されていたテオ・アンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』を観る時間を持つことが出来なかった。先月では、久し振りに観たかった『アレクサンダー大王』(11月17日〜23日)を観ることも出来なかった。今日から28日までもよおされている『永遠と一日』も観る時間がとれそうにない。11月から続けられていたみなみ会館でのアンゲロプロス追悼特集も来週で終わりである。結局、一度も足を運べなかったことになる。やはりDVDを取り揃えるべきだろうか。
2012年12月21日
2012年12月20日
2012年12月19日
2012年12月17日
2012年12月16日
2012年12月15日
竜王町の島八幡神社宝塔。

島八幡神社(滋賀県蒲生郡竜王町島)は島集落の端に位置している。苗村神社(滋賀県蒲生郡竜王町大字綾戸467)からは徒歩10分弱といったところか。集落の西方、田畑の一角に一畳半ほどの島状の飛び地がある。島八幡神社の御旅所であるという。島八幡神社石造宝塔(国重文)は小さな石仏や石塔の残骸にとりかこまれるようにしてその飛び地=御旅所の中央に立っていた。一面の田畑のなかにぽつんと立つその姿は何とも不思議である。まわりが水田になる春から秋にかけての時期はなかなか近づきにくいのではなかろうか。高さは1.6メートル。台石に蓮の浮き彫りがしつらえられている。塔身に「正和五年 丙 辰 十月廿五日囗囗衆造立」の刻銘があることから、正和5年=1316年の作であることがわかる。相輪の部分は八輪から上が欠損しているのが惜しまれる。
ラベル:石塔
2012年12月14日
恩師に会いに。
仕事の合間に朝から小学時代の恩師Sとお会いした。小学時代の同窓生MがSのもとにうかがうというので同伴させていただいたのである。Sは小学校で副校長まで務めた後、現在は小学校と同じ敷地内にある大学の同窓会事務局に勤務されている。以前、同窓会事務局におうかがいしたのは5、6年前ではなかろうか。そのときはやはりクラスメートだったピアニストのHと一緒にうかがったように思う。談笑中、Sが今年の5月に心筋梗塞をわずらい、数日間、意識不明の状態が続いたということをうかがった。さいわい、病の再発はなく、数ヵ月後の再検査では患部の完治を告げられたということだった。あれだけお元気なSが心筋梗塞をわずらうとは意外である。事実、再検査の折、今年、73歳を迎えたはずのSの肉体は50代前半のままであると診断されたそうである。先生、お元気過ぎて逆に心筋梗塞を起こしたのではないですか。思わずそう冷やかしてしまったほどである。意識を恢復させた直後にいつまで俺をこんな病室に閉じ込めておくのだ、早く家に連れ戻せと暴れまくったという話、再検査の折、自分の方を向いて病状を説明しない若い医師を怒鳴りつけてやったという話、その次の検査の折には病院のスタッフが腫れ物に触るように親切に接してくれたという話は特に面白かった。学食で昼食(カツカレー)をご馳走になり、退散。近いうち、また昼飯をご馳走になりがてら、おうかがいしようと思う。
2012年12月12日
京橋で一杯。

月曜日は京橋で忘年会であった。京橋を訪れるのは久し振りである。私にとって、京橋といえば、やはり“京屋本店”(大阪市都島区東野田町3丁目4-15)である。特に先日のようにA氏と呑むときはいつもここである。A氏とは、何度、一緒に暖簾をくぐったことだろうか。生ビールを注文し、どて焼きや湯豆腐などをいただく。ビールの次はいつものように焼酎の水割りを注文。ここでは焼酎の原液と氷とミネラルウォーターが別々に出て来る。あなたのお好きな比率で混ぜあわせてくれということだろう。それにしても原液がたっぷり入っている。これ一杯だけでも、結構、酔いがまわる。結局、この夜は3時間ほど呑み続けた。
ラベル:焼酎
2012年12月11日
後藤明生を読む会(第13回)
後藤明生を読む会(第12回)→こちら
昨日は後藤明生を読む会の第13回がもよおされた。今回は趣向を変えて年末恒例の文学散歩および忘年会をもよおした。文学散歩のコースとして選んだのは後藤明生『しんとく問答』(講談社)ゆかりの森ノ宮・大阪城周辺である。午後2時、JR森ノ宮駅に有志が集合して「マーラーの夜」「十七枚の写真」「大阪城ワッソ」などで言及されたスポットをめぐった。しかし、作品の発表から20年近くが経過している。当然、時代の移り変わりを痛感するところも多かった。たとえば、「マーラーの夜」に登場した「レストランG」はすでに消滅していた。読み手に不気味な印象を与える聖マリア大聖堂の鐘も同様である。教会の関係者に取材したところ、阪神大震災で鐘楼が被災し、現在ではもう鐘を鳴らすことはなくなったとのことであった。「私のマンションの真裏すなわち北側に、そして難波宮跡公園の東隣に並んで」いた「市営住宅」の一群も一掃されていた。代わりに更地となった敷地の一角には新たに高層マンションが出現していた。もちろん、すべてのものが変わり果てたわけではない。なかでも、難波宮跡公園を根城にしている「大阪のディオゲネス」が健在であったことは感慨深かった。今回の大きな収穫は聖マリア大聖堂の内部に立ち入ることを許されたことである。内部の広大さもさることながら、ステンドグラスや堂本印象の筆による巨大な絵画、同じく巨大なパイプオルガンには圧倒された。大阪城公園を経由して京橋へ出た後は『この人を見よ』で描かれた「温泉マーク」と「ボンビキ氏」を探して風俗街を彷徨った。しかし、作中で言及されていた「戦後風俗史に残る、いまでは歴史的記号ともいうべき」「温泉マーク」を発見することは出来なかった。忘年会は京橋で挙行した。次回は通常の勉強会に戻る。来年1月、『めぐり逢い』をテキストにして話し合う予定である。
昨日は後藤明生を読む会の第13回がもよおされた。今回は趣向を変えて年末恒例の文学散歩および忘年会をもよおした。文学散歩のコースとして選んだのは後藤明生『しんとく問答』(講談社)ゆかりの森ノ宮・大阪城周辺である。午後2時、JR森ノ宮駅に有志が集合して「マーラーの夜」「十七枚の写真」「大阪城ワッソ」などで言及されたスポットをめぐった。しかし、作品の発表から20年近くが経過している。当然、時代の移り変わりを痛感するところも多かった。たとえば、「マーラーの夜」に登場した「レストランG」はすでに消滅していた。読み手に不気味な印象を与える聖マリア大聖堂の鐘も同様である。教会の関係者に取材したところ、阪神大震災で鐘楼が被災し、現在ではもう鐘を鳴らすことはなくなったとのことであった。「私のマンションの真裏すなわち北側に、そして難波宮跡公園の東隣に並んで」いた「市営住宅」の一群も一掃されていた。代わりに更地となった敷地の一角には新たに高層マンションが出現していた。もちろん、すべてのものが変わり果てたわけではない。なかでも、難波宮跡公園を根城にしている「大阪のディオゲネス」が健在であったことは感慨深かった。今回の大きな収穫は聖マリア大聖堂の内部に立ち入ることを許されたことである。内部の広大さもさることながら、ステンドグラスや堂本印象の筆による巨大な絵画、同じく巨大なパイプオルガンには圧倒された。大阪城公園を経由して京橋へ出た後は『この人を見よ』で描かれた「温泉マーク」と「ボンビキ氏」を探して風俗街を彷徨った。しかし、作中で言及されていた「戦後風俗史に残る、いまでは歴史的記号ともいうべき」「温泉マーク」を発見することは出来なかった。忘年会は京橋で挙行した。次回は通常の勉強会に戻る。来年1月、『めぐり逢い』をテキストにして話し合う予定である。
ラベル:後藤明生
2012年12月08日
明日は奈良マラソン2012。
明日は奈良マラソン2012がもよおされる。厳密には42.195キロのフルマラソンおよび10キロマラソンが明日の朝からもよおされる。今日は午後から会場となる鴻ノ池陸上競技場の敷地内をめぐる3キロコースのジョギングがもよおされていた。本日がエントリーの日であるということもあり、鴻ノ池陸上競技場へと続くやすらぎの道は高天の交差点からエントリーを済ませようとする参加者および車でゴッタ返していた。鴻ノ池陸上競技場には車の乗り入れが禁止されていることもあり、近くにあるスーパーの駐車場は買い物客以外の車でいっぱいであった。明日は近隣の道路で交通規制もおこなわれる。交通規制に引っかかる前に車で近くまで乗り入れることが出来るようなら、鴻ノ池陸上競技場の敷地内に設けられたグルメブースを覗いてみたいと思っている。どうなることやら。
ラベル:マラソン
2012年12月07日
竜王町の苗村神社(東本殿)

苗村神社(滋賀県蒲生郡竜王町大字綾戸467)には2つの本殿がある。一つは国宝に指定されている西本殿、もう一つは道路を挟んだ東側の敷地内に鎮座する東本殿(国重文)である。一間社流造・檜皮葺。向拝の蟇股などの意匠により、室町時代に建立されたと考えられている。西本殿の位置する西側とは異なり、木々が鬱蒼と生い茂る境内には東苗村古墳群と呼ばれる古墳群が存在している。6世紀後半の古墳群であるという。確かに林のなかには墳丘状のものが幾つか見られる。『日本書紀』には天日槍の来朝記事が収録されている。それによると、新羅から渡来して来た天日槍は「菟道河」をさかのぼり、近江国の「吾名邑」に入ってしばらく滞在したという。金達寿の『日本の中の朝鮮文化』第3巻(講談社/1972年)によると「この吾名というのは南部朝鮮(新羅)の古代小国家であった安羅(那)からきたもので、現在の竜王町綾戸の綾にしても、その安羅の転じたものなのである」とのこと。それを踏まえると「那牟羅彦神」と「那牟羅姫神」を祭神としてまつる苗村神社は渡来系の産土神を祭った神社であったかも知れない。少なくとも当地が古くから開けた土地であったということは間違いない。本殿の近くには宝篋印塔も置かれていた。
ラベル:神社
2012年12月06日
竜王町の苗村神社(西本殿・楼門)

日曜日に三井アウトレットパーク滋賀竜王(滋賀県蒲生郡竜王町大字薬師字砂山1178-694)へおもむいた。その折、ついでに近くの苗村神社(滋賀県蒲生郡竜王町大字綾戸467)まで足をのばした。苗村神社を訪れるのは何年振りだろう。前回の参拝からかれこれ10年近くなるかも知れない。そのときは正月の初詣で訪れた。正月ということもあり、普段は立ち入りを禁じられている1308年建立・三間社流造・檜皮葺の西本殿(国宝)の敷地内に立ち入ることも許された。本殿に供えられた米を分けていただいたように思う。もちろん、先日の参拝では西本殿は開放されていなかった。写真は楼門(国重文)である。ご覧のように、ボリュームのある茅葺の屋根が圧巻である。苗村神社といえば、真っ先に思い出すのが楼門である。楼門は以前の参拝のときと変わらずその場に立っていた。
ラベル:神社
2012年12月05日
竜王町で昼食。

三井アウトレットパーク滋賀竜王(滋賀県蒲生郡竜王町大字薬師字砂山1178-694)へおもむいたことは日曜日に記した。到着してしばらくしてからフードコートで早めの昼食をとった。“韓国料理bibim'”でスンドゥブセットを注文。“韓国料理bibim'”は各地に店舗があるものの、当地で食べるのははじめてであった。当日は寒かったこともあり、熱々で辛いスンドゥブは身体をあたためてくれた。その後、午後3時前におやつ代わりとして“KUA`AINA”へ。ビールを呑みながらベーコンバーガーを食べた。久し振りの“KUA`AINA”は思いのほかボリュームがあった。
2012年12月03日
2012年12月02日
竜王町の三井アウトレットパーク滋賀竜王。

朝から三井アウトレットパーク滋賀竜王(滋賀県蒲生郡竜王町大字薬師字砂山1178-694)へおもむく。午前10時の開店とともに入店。ボーナスが入った後の休日であること、年末のクリスマスセール期間中であるということで今日は開店早々から客の数が多かった。人の数は午後に入るとさらに増えて店内はゴッタ返していた。これからの休日はますます多くなるだろう。
ラベル:アウトレット