2012年08月23日

後藤明生を読む会(第11回)レジュメF

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A永興天主教堂について
わたしが生まれてはじめて見た外国人はドイツ人だ。ドイツ人は、丘の上の耶蘇教会の神父で、すき透るようなばら色の高い鼻に銀ぶちの眼鏡をかけていた。彼はいつ見ても白いカラーのある黒い神父服に身をつつみ、うつむき加減の姿勢で歩いていた。わたしはドイツ人神父が黒い僧服のままうすいヴェールをかぶってかいがいしく蜜蜂の巣箱を手入れしているところを、なんどか見かけた。
                             ―後藤明生「異邦人」―

天主堂内の正面には十字架にかけられた男の像があった。窓は焼絵玻璃だった。壁には何枚も絵が掛けてあった。降誕から復活までの絵物語だったと思う。わたしたちは黙って中へ入り何度も見物した。堂内の床はぴかぴか光っていた。わたしたちはそこでよくスケートの真似をやった。しかし出来るだけ声は立てないようにした。声はたちまち堂全体に響き渡った。ある日、堂内でスケートの真似をやっているとドイツ人神父が入って来た。わたしたちは慌ててスケートを止めて会釈をした。ドイツ人神父は黙って会釈を返し、大股で奥へと歩いて行くと鐘を鳴らしはじめた。わたしたちはおどろいて表へとび出した。ドイツ人神父は両手で太い綱を握っていた。綱は堂の正面に向って左側の隅にぶらさがっていた。ドイツ人神父はその太い綱にぶらさがっているように見えた。鐘の音とともにドイツ人神父の体は大きく上下に揺れた。
                         ―後藤明生「二十万分の一」―

しかしドイツ人神父は、わたしの家へは一度もあらわれなかった。どこへも何も買いに行かなかった。何故だかも、わからない。ただ、ときどきオートバイに乗ってどこか遠くまで出かけて行ったようだ。黒い僧服姿でオートバイに跨っていた。
                     ―後藤明生「永興小学校の思い出」―

■朝鮮総督府官報にみる永興キリスト教系宗教団体の推移
@第1537号(1932・2・24)
 ・天主公教の進出⇒永興天主教堂 : 南山里(1931・12・18)
 ・天主公教の布教担任者⇒「グ、ステゲル」(1931・12・18)
A第1649号(1932・7・7)
 ・天主公教の布教担任者変更⇒「グ、ステゲル」に「カリスト、ヒーメル」が加わる(1932・5・3)
B第1829号(1933・2・15)
 ・天主公教の布教担任変更⇒「グ、ステゲル」から「カリストヒーメル」に(1932・11・15)
C第1856号(1933・3・18)
 ・東洋宣教会の進出⇒永興聖潔教会 : 南山里(1933・3・18)
D第1857号(1933・3・20)
 ・東洋宣教会の布教担任者⇒「申来G」(1933・1・25)
E第2856号(1936・7・21)
 ・天主公教の布教担任者変更⇒「カリストス、ヒーメル」が転出(1936・6・24)
F第2881号(1936・8・29)
 ・天主公教の布教担任者変更⇒「カリストスヒーメル」から「グ、ステゲル」へ(1936・7・22)
G第3087号(1937・5・4)
 ・東洋宣教会の撤退(1937・3・17)
H第3471号(1938・8・11)
 ・第七日安息日耶蘇再臨教の進出⇒永興礼拝所 : 都浪里37-1(1938・6・22)/布教担任者⇒「鄭東沈」(1938・6・22)
I第4024号(1940・6・21)
 ・イエス教会の進出/イエス教会の布教担任者⇒「劉文煥」(1934・3・3)
J第4038号(1940・7・8)
 ・イエス教会の進出⇒永興礼拝堂 : 南山里152(1934・3・3)
K第4043号(1940・7・13)
 ・イエス教会の撤退(1937・3・10)
L第4749号(1942・11・28)
 ・第七日安息日耶蘇再臨教の布教担任者変更⇒「鄭東沈」から「佐藤実」へ(1942・9・9)
M第4947号(1943・7・29)
 ・日本基督教朝鮮長老教団の撤退⇒都浪里教会 : 都浪里67(1943・6・1)
N第4969号(1943・8・24)
 ・日本基督教朝鮮長老教団の撤退⇒都浪里教会 : 都浪里67(1943・4・9)
O第5100号(1944・2・5)
 ・第七日安息日耶蘇再臨教の撤退(1943・12・28)
P第5148号(1944・4・5)
 ・東洋宣教会の撤退(1943・12・29)
Q第5354号(1944・12・8)
 ・天主公教の布教担任者変更⇒「クオット」が転出(1944・7・14)

朝鮮ではカトリック系統のキリスト教を「天主教」、プロテスタント系統のキリスト教を「基督教」と呼んで区別している。したがって、南山の丘陵上に教会が建てられていた天主公教はカトリック系の教団であったことがわかる。韓国基督教歴史研究所の『韓国キリスト教の受難と抵抗』(新教出版社/1995年)によると、ローマに総本山を置くカトリック教会は、朝鮮半島におけるキリスト教の布教をはかるため、地域ごとに異なる修道会の修道士たちを派遣する。永興を含む咸鏡南道および満州地域はベネディクト会が担当した。咸鏡南道では元山の元山教会や徳源に建立された徳源教会を中心に活動し、ザウアー司教の指導のもと、修道士たちが各都市に派遣された。@によると、永興に彼らが進出して来たのは1930年代初頭だったようである。「異邦人」において言及されている「白いカラーのある黒い神父服」は黒い修道服を着たことから「黒い修道士」とも呼ばれたベネディクト会士と一致する。@ABEFQにおける永興天主教堂内の異動を見ると、幼少年期に後藤明生が目にしたとされる修道士は「グ、ステゲル」であった可能性が高い。「グ、ステゲル」(Gregor Steger)は、1900年12月30日、ドイツ・レーゲンスブルク生まれ。1930年に朝鮮へと派遣され、永興で宣教活動をはじめる。1949年4月、北朝鮮によって逮捕され、1950年10月3日、ピョンヤン近郊の収容所内で処刑される。なお、『カトリック大辞典』第3巻(冨山房/1974年)によると、北朝鮮の成立後、徳源教会のように破壊された教会、殺害された関係者は多数にのぼる。
ラベル:後藤明生
posted by 乾口達司 at 21:59| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 自己 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする