2012年08月22日

後藤明生を読む会(第11回)レジュメE

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■永興神社と永興天主教堂
後藤明生は植民地時代の旧朝鮮咸鏡南道永興郡永興邑(現在の朝鮮民主主義人民共和国金野郡)で生まれた。永興時代の少年時代を振り返ったものとしては1970年代に綴られた『挾み撃ち』『夢語り』『行き帰り』といった小説を挙げることが出来る。なかでも、それらの作品のなかで繰り返し語られているのが南山である。南山は、その名のとおり、永興邑の南側に広がる丘陵である。「永興では山といえば南山だった。南山は低い山だ。山というより丘陵かも知れない。実さい、どこが頂上なのかわからなかった。しかしその山裾は永興の東の端から西の端まで広がっていた」(『夢かたり』所収「南山」)。後藤明生の通っていた永興小学校が南山と隣接していたこともあり、南山は少年時代の後藤明生にとっては馴染みの深い山であったようである。後藤明生は南山に存在した施設として次のものを紹介している。「永興神社があるのも南山だった。日本人墓地があるのも、火葬場があるのも南山だった。ドイツ人神父のいる耶蘇教会があるのも南山だった。そして朝鮮人たちが大勢で泣きながら行列を作って登って行くのも、南山だったのである」(『夢かたり』所収「南山」)。「朝鮮人たちが大勢で泣きながら行列を作って登って行く」とは、朝鮮式の葬儀の様子を表している。ここからは南山には朝鮮人の墓地が「土まんじゅう」(土葬)としてあったことが読み取れる。ほかにも「射撃演習場」があったことが語られている。興味深いのは、当時、南山の丘陵上に「永興神社」「日本人墓地」「ドイツ人神父のいる耶蘇教会」「朝鮮人墓地」とが共存していたことである。その多国籍的でポリフォニックなありようが「楕円の世界」をキーワードとする後藤明生の作品世界に反映されているとも考えられる。

@永興神社について
永興神社は曽祖父が建てた神社だという。それはわたしもきいて知っていた。確かに曽祖父が朝鮮へ出かけたのは、『日韓併合』後の朝鮮に神社を作るためだろう。日本人の住む所、何よりもまず必要なのは神社だったに違いない。
                              ―後藤明生「南山」―

永興神社を建てた後藤明生の曽祖父・後藤徳次郎は1852年(嘉永5)3月13日生まれ。1939年(昭和14)1月28日午後2時30分に亡くなっている。享年88。『嘘のような日常』のなかで「教法寺の欄間の彫刻は曾祖父の作品だそうである。朝鮮に行く前の仕事らしい」と記されていることからもわかるように、徳次郎は青年時代より宮大工として活躍し、その後、朝鮮半島に渡ったようである。しかし、どういった経緯を経て永興に定住することになったのか、日韓併合後に建てられた神社建築のなかでどれだけの数の神社の建立に関わっていたのかを小説のなかから読み取ることは出来ない。永興神社の創建は1925年(大正14)。1915年(大正4)に発布された「布教規則」により、朝鮮では朝鮮総督府がキリスト教を含むあらゆる宗教および宗教団体に対する統制権を握ることとなり、神社の創建にも朝鮮総督府の許認可を受ける必要があった。したがって、その申請と許可の内容は朝鮮総督府の機関紙であった「朝鮮総督府官報」に逐一掲載されている。「朝鮮総督府官報」第3941号(1925年10月6日)所収の彙報欄「官庁事項―社寺、宗教」には「神祠設立許可」として「咸鏡南道永興郡洪仁面南山里ニ神明神祠設立ノ件小室千代吉外二十三名ヨリ出願ニ付九月二十四日之ヲ許可セリ」と記載されている。嵯峨井建監修・解題の『大陸神社大観』(大陸神道連盟/昭16・7)によると、祭神は天照大神・神武天皇・明治天皇。「神明神祠」とは、永興神社の本殿が伊勢神宮の本殿に代表されるような神明造の社殿であったことを指し示している。留意したいのは永興神社が「神祠」と称されていることである。朝鮮総督府令第82号(1915年8月16日)の「神社寺院規則」第3條では「神社ニハ神殿及ビ拝殿ヲ備フヘシ」と明記されている。1936年8月11日改正の朝鮮総督府令第76号「神社規則」第2條でも「神社ニハ神殿、玉垣、神饌所、拝殿、手水舎、鳥居及社務所ヲ備フヘシ」と記されている。すなわち、「神祠」とはこういった主要な施設をそろえていない簡便な奉斉施設のことを意味している。ここからは創建当初の永興神社にはささやかな「神殿」(本殿)くらいしか設置されていなかったことがうかがえる。他の施設が本格的に設置されたのは昭和十年代中頃におこなわれた紀元二千六百年記念事業まで待つしかなかったようである。『紀元二千六百年祝典記録』第10輯によると、永興における記念事業は「永興神社造営」であり、永興神社奉賛会が昭和14年度から17年度にかけて「一般ヨリ寄付ヲ金募リ面民及諸団体ノ労力奉仕ニ依り神殿其ノ他建物ノ造営、境内拡張及参道築造ヲ為」したとのこと。「神殿其ノ他建物ノ造営」という記述からは「神祠」がより立派な神殿に建て替えられた上に「拝殿」「玉垣、神饌所、拝殿、手水舎、鳥居及社務所」など「神社」に適合する施設が多数造営されたことが読み取れる。経費は61112円。しかし、一般の市民レベルでは、それ以前から「永興神社」と呼ばれていたようであり、そのことは「毎日申報」(北部版)1936年10月17日付の紙面に「永興神社例祭」と題された記事が掲載されていることからもうかがえる。例祭は10月14日から2日間にわたっておこなわれ、永興の市民総出で祭りを盛り上げたことが読み取れる。興味深いのは、南山の丘陵上に建てられた永興神社が、同じく南山という名称を持つ京城(ソウル)南方の丘陵地帯上に建てられた朝鮮神宮と歩調を合せるようにして創建されていることである。朝鮮神宮の前身は天照大神と明治天皇を祭神とする朝鮮神社。1919年7月に創設された朝鮮神社は、翌年、南山の頂にあった御用地20万坪、境内7000坪の地に殿舎が造営されはじめ、1925年年6月27日、朝鮮神宮に改称される。同年10月15日、鎮座の盛儀執行。朝鮮神宮の創建を知った永興の市民有志が「南山」という共通するキーワードを踏まえて永興神社の創建を構想・着手したことは充分に考えられる。ちなみに青井哲人の『植民地神社と帝国日本』(吉川弘文館/2005年)は建築学の立場から戦前の海外神社の創建が植民地都市の改造において重要な役割を占めていることを明らかにした論考であり、朝鮮神宮の創建が京城の都市計画に大きな影響を与えたことも語られている。『植民地神社と帝国日本』の指摘を踏まえると、参道の整備等、永興神社の創建も永興の街の改造や整備に深く関与したことが推察出来る。しかし、それ以上の具体的な内容を明らかにすることは資料不足のために出来なかった。
ラベル:後藤明生
posted by 乾口達司 at 21:42| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 自己 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする