2012年08月29日

M氏追悼。

知人の文芸評論家M氏が亡くなった。亡くなったのは今月17日である。その日の昼頃、トイレで倒れ、救急車で近くの病院に運ばれたものの恢復せず、その日の夜に亡くなったとのこと。病名は急性骨髄性白血病である。私が訃報を知ったのは19日にとりおこなわれた葬儀の二日後のことであった。たまたまM氏に問い合わせたいことがあってM氏の携帯電話にメールを送ったところ、ご家族から返信があり、M氏の逝去を告げられたのであった。M氏の逝去はご家族にとってもあまりに急なことであり、逝去から葬儀にいたる一連の経緯のなかでいったい誰に連絡をとれば良いのかわからず、取り急ぎ、葬儀を終えられたという。あのとき、M氏に問い合わせのメールを送らなければ、私はM氏の逝去をまだ当分のあいだ知ることがなかったはずである。そう考えると何とも不思議である。M氏は大阪でもよおされている後藤明生を読む会の参加者の一人であった。12日におこなわれた第11回の会合にも出席されていた。会の終わりにはいつも有志で近くの酒場へとおもむき、反省会という名の懇親会をおこなう。M氏は酒をほとんど呑まない。しかし、ウーロン茶を片手にいつも私たちの反省会=懇親会に最後まで熱心に付き合ってくださっていた。しかし、12日だけは珍しく酒場におもむかれることはなかった。夏風邪をひいたようで体調がすぐれない。今夜は先に失礼します。そういって会の終わりとともに帰られた。それがM氏との最後の別れとなった。確かに調子は少し悪そうであった。口数も普段の会合のときに比べると少ない方であった。しかし、足取りはしっかりしており、重篤な病にかかっているようには見えなかった。会合が終わった直後、会場となった会議室にプロジェクターが備え付けられているのを私に教えてくださった。せっかくプロジェクターが備え付けられているのであるから、次回はこれを使いましょうともいっておられた。その言動には数日後の逝去を予感させるものはまったく見当たらなかった。それだけに突然の訃報はあまりに衝撃的であった。M氏自身、ご自身が白血病にかかっているとはご存知ではなかったようである。27日、有志で大阪市内にあるご自宅にお悔やみにうかがった。そして、ご家族からM氏の生前の御様子をいろいろうかがった。M氏が後藤明生を読む会をいつも楽しみにされていたという話は有り難かった。後藤明生に対する関心の高さを指し示すかのように、書架にはM氏が古書店で買い求められた数多くの後藤明生の著書が並べられていた。小林秀雄や九鬼周造について論文を書いているという話も以前にうかがっていた。書架には小林秀雄や九鬼周造の著書も並べられていた。「新潮」の新人賞(評論部門)を受賞されたのは何年前だっただろうか。これからますます活躍されるはずであっただけに残念である。合掌。
タグ:白血病
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2012年08月26日

平城京天平祭。

20120826-1.bmp

平城宮跡では24日から今日まで平城京天平祭がおこなわれていた。お馴染みの天平行列のほか、各種のイベントがもよおされた。写真は第一次大極殿前庭でもよおされた燈花会。空が晴れていたこともあってなかなか美しかった。OSK日本歌劇団によるステージも拝見したかったが、こちらは時間の都合で拝見が叶わなかった。今夜は婚活行列もおこなわれたらしい。20代・30代の独身男女が参加対象になっている。40代が対象からはずれているのは納得がいかなかった。そう思っているのは私だけではあるまい。
タグ: 平城宮跡
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2012年08月23日

後藤明生を読む会(第11回)レジュメF

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A永興天主教堂について
わたしが生まれてはじめて見た外国人はドイツ人だ。ドイツ人は、丘の上の耶蘇教会の神父で、すき透るようなばら色の高い鼻に銀ぶちの眼鏡をかけていた。彼はいつ見ても白いカラーのある黒い神父服に身をつつみ、うつむき加減の姿勢で歩いていた。わたしはドイツ人神父が黒い僧服のままうすいヴェールをかぶってかいがいしく蜜蜂の巣箱を手入れしているところを、なんどか見かけた。
                             ―後藤明生「異邦人」―

天主堂内の正面には十字架にかけられた男の像があった。窓は焼絵玻璃だった。壁には何枚も絵が掛けてあった。降誕から復活までの絵物語だったと思う。わたしたちは黙って中へ入り何度も見物した。堂内の床はぴかぴか光っていた。わたしたちはそこでよくスケートの真似をやった。しかし出来るだけ声は立てないようにした。声はたちまち堂全体に響き渡った。ある日、堂内でスケートの真似をやっているとドイツ人神父が入って来た。わたしたちは慌ててスケートを止めて会釈をした。ドイツ人神父は黙って会釈を返し、大股で奥へと歩いて行くと鐘を鳴らしはじめた。わたしたちはおどろいて表へとび出した。ドイツ人神父は両手で太い綱を握っていた。綱は堂の正面に向って左側の隅にぶらさがっていた。ドイツ人神父はその太い綱にぶらさがっているように見えた。鐘の音とともにドイツ人神父の体は大きく上下に揺れた。
                         ―後藤明生「二十万分の一」―

しかしドイツ人神父は、わたしの家へは一度もあらわれなかった。どこへも何も買いに行かなかった。何故だかも、わからない。ただ、ときどきオートバイに乗ってどこか遠くまで出かけて行ったようだ。黒い僧服姿でオートバイに跨っていた。
                     ―後藤明生「永興小学校の思い出」―

■朝鮮総督府官報にみる永興キリスト教系宗教団体の推移
@第1537号(1932・2・24)
 ・天主公教の進出⇒永興天主教堂 : 南山里(1931・12・18)
 ・天主公教の布教担任者⇒「グ、ステゲル」(1931・12・18)
A第1649号(1932・7・7)
 ・天主公教の布教担任者変更⇒「グ、ステゲル」に「カリスト、ヒーメル」が加わる(1932・5・3)
B第1829号(1933・2・15)
 ・天主公教の布教担任変更⇒「グ、ステゲル」から「カリストヒーメル」に(1932・11・15)
C第1856号(1933・3・18)
 ・東洋宣教会の進出⇒永興聖潔教会 : 南山里(1933・3・18)
D第1857号(1933・3・20)
 ・東洋宣教会の布教担任者⇒「申来G」(1933・1・25)
E第2856号(1936・7・21)
 ・天主公教の布教担任者変更⇒「カリストス、ヒーメル」が転出(1936・6・24)
F第2881号(1936・8・29)
 ・天主公教の布教担任者変更⇒「カリストスヒーメル」から「グ、ステゲル」へ(1936・7・22)
G第3087号(1937・5・4)
 ・東洋宣教会の撤退(1937・3・17)
H第3471号(1938・8・11)
 ・第七日安息日耶蘇再臨教の進出⇒永興礼拝所 : 都浪里37-1(1938・6・22)/布教担任者⇒「鄭東沈」(1938・6・22)
I第4024号(1940・6・21)
 ・イエス教会の進出/イエス教会の布教担任者⇒「劉文煥」(1934・3・3)
J第4038号(1940・7・8)
 ・イエス教会の進出⇒永興礼拝堂 : 南山里152(1934・3・3)
K第4043号(1940・7・13)
 ・イエス教会の撤退(1937・3・10)
L第4749号(1942・11・28)
 ・第七日安息日耶蘇再臨教の布教担任者変更⇒「鄭東沈」から「佐藤実」へ(1942・9・9)
M第4947号(1943・7・29)
 ・日本基督教朝鮮長老教団の撤退⇒都浪里教会 : 都浪里67(1943・6・1)
N第4969号(1943・8・24)
 ・日本基督教朝鮮長老教団の撤退⇒都浪里教会 : 都浪里67(1943・4・9)
O第5100号(1944・2・5)
 ・第七日安息日耶蘇再臨教の撤退(1943・12・28)
P第5148号(1944・4・5)
 ・東洋宣教会の撤退(1943・12・29)
Q第5354号(1944・12・8)
 ・天主公教の布教担任者変更⇒「クオット」が転出(1944・7・14)

朝鮮ではカトリック系統のキリスト教を「天主教」、プロテスタント系統のキリスト教を「基督教」と呼んで区別している。したがって、南山の丘陵上に教会が建てられていた天主公教はカトリック系の教団であったことがわかる。韓国基督教歴史研究所の『韓国キリスト教の受難と抵抗』(新教出版社/1995年)によると、ローマに総本山を置くカトリック教会は、朝鮮半島におけるキリスト教の布教をはかるため、地域ごとに異なる修道会の修道士たちを派遣する。永興を含む咸鏡南道および満州地域はベネディクト会が担当した。咸鏡南道では元山の元山教会や徳源に建立された徳源教会を中心に活動し、ザウアー司教の指導のもと、修道士たちが各都市に派遣された。@によると、永興に彼らが進出して来たのは1930年代初頭だったようである。「異邦人」において言及されている「白いカラーのある黒い神父服」は黒い修道服を着たことから「黒い修道士」とも呼ばれたベネディクト会士と一致する。@ABEFQにおける永興天主教堂内の異動を見ると、幼少年期に後藤明生が目にしたとされる修道士は「グ、ステゲル」であった可能性が高い。「グ、ステゲル」(Gregor Steger)は、1900年12月30日、ドイツ・レーゲンスブルク生まれ。1930年に朝鮮へと派遣され、永興で宣教活動をはじめる。1949年4月、北朝鮮によって逮捕され、1950年10月3日、ピョンヤン近郊の収容所内で処刑される。なお、『カトリック大辞典』第3巻(冨山房/1974年)によると、北朝鮮の成立後、徳源教会のように破壊された教会、殺害された関係者は多数にのぼる。
タグ:後藤明生
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2012年08月22日

後藤明生を読む会(第11回)レジュメE

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■永興神社と永興天主教堂
後藤明生は植民地時代の旧朝鮮咸鏡南道永興郡永興邑(現在の朝鮮民主主義人民共和国金野郡)で生まれた。永興時代の少年時代を振り返ったものとしては1970年代に綴られた『挾み撃ち』『夢語り』『行き帰り』といった小説を挙げることが出来る。なかでも、それらの作品のなかで繰り返し語られているのが南山である。南山は、その名のとおり、永興邑の南側に広がる丘陵である。「永興では山といえば南山だった。南山は低い山だ。山というより丘陵かも知れない。実さい、どこが頂上なのかわからなかった。しかしその山裾は永興の東の端から西の端まで広がっていた」(『夢かたり』所収「南山」)。後藤明生の通っていた永興小学校が南山と隣接していたこともあり、南山は少年時代の後藤明生にとっては馴染みの深い山であったようである。後藤明生は南山に存在した施設として次のものを紹介している。「永興神社があるのも南山だった。日本人墓地があるのも、火葬場があるのも南山だった。ドイツ人神父のいる耶蘇教会があるのも南山だった。そして朝鮮人たちが大勢で泣きながら行列を作って登って行くのも、南山だったのである」(『夢かたり』所収「南山」)。「朝鮮人たちが大勢で泣きながら行列を作って登って行く」とは、朝鮮式の葬儀の様子を表している。ここからは南山には朝鮮人の墓地が「土まんじゅう」(土葬)としてあったことが読み取れる。ほかにも「射撃演習場」があったことが語られている。興味深いのは、当時、南山の丘陵上に「永興神社」「日本人墓地」「ドイツ人神父のいる耶蘇教会」「朝鮮人墓地」とが共存していたことである。その多国籍的でポリフォニックなありようが「楕円の世界」をキーワードとする後藤明生の作品世界に反映されているとも考えられる。

@永興神社について
永興神社は曽祖父が建てた神社だという。それはわたしもきいて知っていた。確かに曽祖父が朝鮮へ出かけたのは、『日韓併合』後の朝鮮に神社を作るためだろう。日本人の住む所、何よりもまず必要なのは神社だったに違いない。
                              ―後藤明生「南山」―

永興神社を建てた後藤明生の曽祖父・後藤徳次郎は1852年(嘉永5)3月13日生まれ。1939年(昭和14)1月28日午後2時30分に亡くなっている。享年88。『嘘のような日常』のなかで「教法寺の欄間の彫刻は曾祖父の作品だそうである。朝鮮に行く前の仕事らしい」と記されていることからもわかるように、徳次郎は青年時代より宮大工として活躍し、その後、朝鮮半島に渡ったようである。しかし、どういった経緯を経て永興に定住することになったのか、日韓併合後に建てられた神社建築のなかでどれだけの数の神社の建立に関わっていたのかを小説のなかから読み取ることは出来ない。永興神社の創建は1925年(大正14)。1915年(大正4)に発布された「布教規則」により、朝鮮では朝鮮総督府がキリスト教を含むあらゆる宗教および宗教団体に対する統制権を握ることとなり、神社の創建にも朝鮮総督府の許認可を受ける必要があった。したがって、その申請と許可の内容は朝鮮総督府の機関紙であった「朝鮮総督府官報」に逐一掲載されている。「朝鮮総督府官報」第3941号(1925年10月6日)所収の彙報欄「官庁事項―社寺、宗教」には「神祠設立許可」として「咸鏡南道永興郡洪仁面南山里ニ神明神祠設立ノ件小室千代吉外二十三名ヨリ出願ニ付九月二十四日之ヲ許可セリ」と記載されている。嵯峨井建監修・解題の『大陸神社大観』(大陸神道連盟/昭16・7)によると、祭神は天照大神・神武天皇・明治天皇。「神明神祠」とは、永興神社の本殿が伊勢神宮の本殿に代表されるような神明造の社殿であったことを指し示している。留意したいのは永興神社が「神祠」と称されていることである。朝鮮総督府令第82号(1915年8月16日)の「神社寺院規則」第3條では「神社ニハ神殿及ビ拝殿ヲ備フヘシ」と明記されている。1936年8月11日改正の朝鮮総督府令第76号「神社規則」第2條でも「神社ニハ神殿、玉垣、神饌所、拝殿、手水舎、鳥居及社務所ヲ備フヘシ」と記されている。すなわち、「神祠」とはこういった主要な施設をそろえていない簡便な奉斉施設のことを意味している。ここからは創建当初の永興神社にはささやかな「神殿」(本殿)くらいしか設置されていなかったことがうかがえる。他の施設が本格的に設置されたのは昭和十年代中頃におこなわれた紀元二千六百年記念事業まで待つしかなかったようである。『紀元二千六百年祝典記録』第10輯によると、永興における記念事業は「永興神社造営」であり、永興神社奉賛会が昭和14年度から17年度にかけて「一般ヨリ寄付ヲ金募リ面民及諸団体ノ労力奉仕ニ依り神殿其ノ他建物ノ造営、境内拡張及参道築造ヲ為」したとのこと。「神殿其ノ他建物ノ造営」という記述からは「神祠」がより立派な神殿に建て替えられた上に「拝殿」「玉垣、神饌所、拝殿、手水舎、鳥居及社務所」など「神社」に適合する施設が多数造営されたことが読み取れる。経費は61112円。しかし、一般の市民レベルでは、それ以前から「永興神社」と呼ばれていたようであり、そのことは「毎日申報」(北部版)1936年10月17日付の紙面に「永興神社例祭」と題された記事が掲載されていることからもうかがえる。例祭は10月14日から2日間にわたっておこなわれ、永興の市民総出で祭りを盛り上げたことが読み取れる。興味深いのは、南山の丘陵上に建てられた永興神社が、同じく南山という名称を持つ京城(ソウル)南方の丘陵地帯上に建てられた朝鮮神宮と歩調を合せるようにして創建されていることである。朝鮮神宮の前身は天照大神と明治天皇を祭神とする朝鮮神社。1919年7月に創設された朝鮮神社は、翌年、南山の頂にあった御用地20万坪、境内7000坪の地に殿舎が造営されはじめ、1925年年6月27日、朝鮮神宮に改称される。同年10月15日、鎮座の盛儀執行。朝鮮神宮の創建を知った永興の市民有志が「南山」という共通するキーワードを踏まえて永興神社の創建を構想・着手したことは充分に考えられる。ちなみに青井哲人の『植民地神社と帝国日本』(吉川弘文館/2005年)は建築学の立場から戦前の海外神社の創建が植民地都市の改造において重要な役割を占めていることを明らかにした論考であり、朝鮮神宮の創建が京城の都市計画に大きな影響を与えたことも語られている。『植民地神社と帝国日本』の指摘を踏まえると、参道の整備等、永興神社の創建も永興の街の改造や整備に深く関与したことが推察出来る。しかし、それ以上の具体的な内容を明らかにすることは資料不足のために出来なかった。
タグ:後藤明生
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2012年08月20日

後藤明生を読む会(第11回)レジュメD

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E「口頭的構成法」―口語表現の特徴を文語表現に活かす=小説の可能性
『しんとく問答』が江戸時代に流行した名所図会の手法を取り入れた小説であることは「贋俊徳道名所図会」のような作品を読めば明らかである。実際、『しんとく問答』は現代版・大阪名所図会、パロディ版・大阪名所図会のような作品が仕上がっており、名所図会というかつて流行したジャンル、今風にいえば、一般の人にも馴染みのあるポピュラーな観光ガイドブックの形式を巧みに取り込み、パロディ化することで文学・小説の再生をはかっていこうという後藤明生の意図をうかがえる。それとは別に注目しておきたいのは、後藤明生が特に口語と文語、話し言葉と書き言葉との関わりに強い関心を持っていることである。そのことは「訳のわからない不思議な歌」について口語表現=「ダートー ベーイエイ」とそれを活字化した文語表現=「打倒米英」とを切断することで表現の多様性を確保しようとしていることからもうかがえる。「『芋粥』問答」や「贋俊徳道名所図会」は口語表現としての講演体形式で書かれている。作中には「タニヨン」「ウエロク」「ドーゲキ」といった口語表現がちりばめられている。さらに「しんとく問答」のなかでは山本吉左右の「説教節の語りと構造」や折口信夫「伝承文芸論」を引き合いに出しながら「口頭的構成法」に注目している。ここからは後藤明生がとかく文語表現よりも下位にあるものとして貶められがちに口語表現に注目し、その自由性・即興性を積極的に評価した上でそれらを現代の硬直化した文語表現に導入することで新たな日本語、新たな文学作品を創出したいと考えていたといえよう。「口頭的構成法」に対する積極的な評価は柳田國男の『昔話と文学』に言及した花田清輝の「柳田國男について」(『近代の超克』未来社/1959・12)からもいえる。「柳田國男について」は「口頭的構成法」(柳田のいうところの「説話の変化部分」「自由区域」)を、物語の受け手とその送り手とのダイナミックな相互変換の可能性にまで敷衍して語っている点において、「身毒丸が『信徳丸』を語る。『信徳丸』を語る身毒丸の誕生である。つまり『語り手』と『主役』の入れ替え=逆転である。『語られる信徳丸』と『語る信徳丸』の入れ替え=逆転である」と記す後藤明生の認識と共鳴している。さらに興味深いのは、口語表現の可能性が作者の意図を凌駕する形でとらえられていることである。そのことは「しんとく問答」の最後において「私」が「男の声」「女性の声」に翻弄されるシーンに表されている。「男」や「女性」という表記とは異なり、「男の声」「女性の声」という表記はあたかも発話の主体が「声」=口語そのものであるかのような印象を与える。「私」の相対化は組織=世界の迷宮性を表しているとともに作者の意図をもはるかに凌駕する「声」=口語の豊かさを表しているといえる。
タグ:後藤明生
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2012年08月19日

学園前で一杯。

今日は昼間から南登美ケ丘のエミ・エリ宅まで出掛けた。そして、昼間から酒を呑んだ。最初はビールで乾杯。ビールを何杯か呑んだ後は日本酒に移行した。日本酒はコップ酒で今西清兵衛商店の“春鹿”を呑んだ。昼間から呑むのは久し振りである。おかげで何杯目かのビールの時点で早くも酩酊してしまった。しかし、話の合間にたびたび春鹿を注いでいただいたこともあって自然に杯を重ね、結局、一本まるごとを呑み干してしまった。エミ・エリ宅を後にしたときはまだ空が明るかった。久し振りに気持ちの良い千鳥足で帰宅した。
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2012年08月18日

後藤明生を読む会(第11回)レジュメC

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D<時間>と<空間>の重層化―朝鮮半島・戦争・阪神大震災
『しんとく問答』が朝鮮半島との関わりを意識した小説であることは「KBS交響楽団」「大阪城/壬辰の倭乱」「四天王寺ワッソ」「韓国製FUJIフィルム」「韓国国旗と北朝鮮国旗」「平野川=百済川」「『統一マダン生野』のポスター」「しんとく丸=百済王の末裔説」などの文言から明らかである。他にも直接の言及はないものの、「しんとく問答」において「私」が降り立つ駅の名前となっている「服部川」という地名も金達寿の『日本のなかの朝鮮文化』(講談社/1972・1)によると「その『服部』というのは、高句麗の朝鮮語クレ(句麗)、すなわちくれ(呉)、呉服(くれは)ということからきたものだった」とのこと。しかし、別の<時間>も描かれている。目にとまるのは<戦争>をテーマにした<時間>である。「ダートー ベーイエイ」はその代表的な文言である。ほかにも、マーラーの音楽について、クルシェネクが解説した『グスタフ・マーラー/生涯と作品』のなかの一節には「マーラーの音楽の根本的な特徴は、凱旋の行列から葬儀のこもった響きまでの全音域にわたる、軍隊行進曲である」「しかも彼は闘士だったのである。印象的な象徴を用いる彼の性癖のために、彼が何度となく軍隊ラッパとドラムの好戦的なリズムをえらぶことになったのも不思議ではない」という文言が引用されている。「越中井」や細川ガラシャについて言及した部分は、関が原の合戦前夜に大坂で発生した騒乱=戦争を暗示している。「『芋粥』問答」では、冒頭から、敗戦後、芋粥ばかりを食べていたことが振り返られている。「十七枚の写真」では、宇野浩二が陸軍陸軍偕行社附属尋常小学校に通っていたことが語られている。難波宮跡公園の一画に建つ歩兵第八聯隊の碑文も紹介されている。「大阪城ワッソ」では「壬辰の倭乱」についての言及がある。「しんとく問答」では、菊老人が俊徳丸鏡塚の脇に住むことになったのは「昭和二十年三月の大阪大空襲後」であったと語られている。「私」は俊徳丸鏡塚を「防空壕のよう」なものとして見ている。『河内名所鑑』や『河内名所図会』に記されている「火の雨」も戦時中の空襲をイメージさせる。

待ちに待ちたる時は来た
腕が鳴る鳴る血が躍る
さあ来いアメリカさあ来い英国
正義の旗の輝くところ
ハワイの堅塁何者ぞ何者ぞ

降るよ火の雨鉄の雨
とうに覚悟は出来ている
さあ来い空襲さあ来い敵艦
一億生命を捧げるところ
烏合の敵勢何者ぞ何者ぞ

神の亜細亜を白人の
手から亜細亜を取り戻す
尊い使命だ光栄ある戦だ
八紘一宇理想の前に
汚れし米英何者ぞ何者ぞ
―霧島昇/奈良光枝『打倒米英』/作詞 : 西條八十 作曲 : 古賀政男(1942年)―

俊徳丸鏡塚を古代の古墳であると同時に戦時中の防空壕のようなものとしてとらえると、俊徳丸鏡塚の上に立つポールの存在も違った意味を持って来る。俊徳丸鏡塚を防空壕と見なすと、ラッパ型のスピーカーを取り付けたポールは空襲警報のサイレンということになる。『しんとく問答』が刊行された1995年(平成7年)が終戦から50年の節目の年であったことを思い起こしたい。8月にはいわゆる「村山談話」が発表されており、50年前の戦争を総括しようという動きが高まった時期である。その点を勘案すると、『しんとく問答』も細部において<戦争>を強く意識した作品であったということがわかる。しかし、1995年を代表する出来事は他にもある。阪神・淡路大震災とオウム事件である。オウム事件は、「しんとく問答」の発表後に発生しているため、直接、作中で意識されることはない。しかし、1月17日に発生した阪神大震災は明瞭に意識されている。事実、「しんとく問答」の執筆時に阪神大震災が発生している。

最後の『しんとく問答』を書いているとき、一月十七日の阪神大震災が起きた。大阪のマンションは七階建ての六階の3LDKで、私は午前三時頃まで仕事部屋で原稿を書き、寝酒を飲んでいつもの六畳の和室で眠った。突然のショックで目をさましたが、まだ半分酔払った状態でふらふらしていた。妻が玄関のドアをあけ、私は仕事部屋のドアをあけた。そしてびっくりした。部屋じゅうに本が散乱し、仕事机は本の瓦礫に埋っていた。もし仕事中だったら、頭と頚を直撃されていたかも知れない。テレビで見ていると余震が続くという。私は東京山の上ホテルに電話で部屋を予約した。そして瓦礫の下から書きかけの『しんとく問答』を引きずり出し、最小限必要な資料「名所図会四冊、ノート、書きかけの原稿だけをバッグに詰めて大阪のマンションを脱出した。すでに新幹線はストップ状態、近鉄の特急で名古屋まで行き、えんえん長蛇の列に混って「こだま」に乗車、東京に着いたのは夜十時近くだった。妻は長女のアパートへ行き、私はホテルの部屋で大酔した。そして翌日から悪戦苦闘、なんとか最終篇を書き上げることが出来た。
               ―後藤明生「五年がかりの『しんとく問答』」―

■ラッパ型のスピーカー付きポール
・過去=戦時中=空襲警報サイレン
・現在=阪神大震災=防災無線用のスピーカー

いいかえれば、「私」は過去と現在、<戦争>と<震災>に挟み撃ちにあっている。したがって、物語の最後で「私」が関係機関に問い合わせる際に発する「あれは何でしょうか?」という質問を単にその事物の正体に対する質問として受け止めてはいけない。誰が見てもすぐにそれが防災無線用のスピーカーであるとわかる以上、「あれは何でしょうか?」という問い掛けは、自分がいま平成の世を生きているのでしょうか、それとも戦時中に生きているのでしょうかという問い掛けと表裏一体の関係にあるものとしてとらえられるべきである。すなわち、「現在」=防災無線=阪神・淡路大震災と「過去」=空襲警報用サイレン=戦時体験(戦争)とのあいだで挟み撃ちにされた「私」は自分の立ち位置(時間・空間)を正しく判断することが出来なくなっているのである。そして、それは戦時中と戦前のイメージが分裂的に組み合わさった「訳のわからない不思議な歌」の構造とも対応しているといって良い。ちなみに、YouTube( http://www.youtube.com/ )によると、阪神・淡路大震災の発生時、震度7の揺れを観測した兵庫県淡路市津名町では、午後0時に鳴らされる防災行政無線チャイム(「ラッパ型のスピーカー」)から流れるメロディは『かねがなる』の原曲である「フレール・ジャック」である。「防災行政無線チャイム 兵庫県淡路市津名町 かねがなる」で検索するべし。
タグ:後藤明生
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2012年08月17日

後藤明生を読む会(第11回)レジュメB

後藤明生を読む会(第11回)レジュメ@→こちら
後藤明生を読む会(第11回)レジュメA→こちら

C「鏡」をモチーフとした『しんとく問答』
「しんとく問答」におけるキーワードとして「あべこべ」がある。「史跡の道」をめぐるエピソード、服部川駅へおもむく際、山本駅で電車を乗り換えるエピソード、服部川駅に降り立ったときのエピソード、俊徳丸鏡塚を見学した後、菊老人に呼び止められた「私」が「昔自分が勤めていた会社の後輩に余りよく似ている」という「○○さん」と間違えられるエピソードにそれが顕著に表れている。「あべこべ」であるということを敷衍すると、メタファーとしての「鏡」というテーマが浮かび上がる。俊徳丸とその父親との関係はずばり「五十歳の鏡像」と記されている。「鏡」は直接には「俊徳丸鏡塚」という名称によって触発されたと思われる。留意したいのは「あべこべ」の「鏡」のメタファーがちりばめられていながら、後藤明生の目はそれぞれの対象の一致よりもそのズレ=差異に向けられているということである。たとえば、「○○さん」と「私」とが「余りよく似ている」という文言に注目すると、「余りよく似ている」というのは差異があるということである。差異=ズレは、「四天王寺ワッソ」以降、俊徳丸を主人公にした同じ物語について言及している点からもうかがえる。すなわち、「四天王寺ワッソ」において、謡曲の『弱法師』と説経節の『信徳丸』の2つのテクストに対する言及からはじまった探究はやがて『河内名所鑑』における新徳丸に対する言及、俊徳道鏡塚の脇に立てられた案内板、折口信夫の『身毒丸』や『河内名所図会』における真徳麿に対する言及へと展開していく。その展開の過程はそれぞれが鏡像としてありながらも差異=ズレを引き起こしながら変化していく過程であるといえる。したがって、ここでいう「鏡」は鏡像に歪みをもたらす凹凸のある鏡(球面鏡)のようなものであるといって良い。重要なのはそれぞれのテクストのズレがそのまま言葉の増殖を生み出していることである。俊徳丸について言及したテクストに登場する主人公の名は「俊徳丸」「信徳丸」「新徳丸」「身毒丸」「真徳麿」と広がりを持ちはじめる。古墳の変遷について語った部分でも、前期の「円形、前方後円墳」が中期になると「応神、仁徳のあの壮大な陵墓」に発展し、後期になると、「陵墓の縮小化」の代わりに「従来の陵墓より規模も小さく、それに要する労力も経費も至って少な」い「横穴式墳が流行し、岡を越え谷を渡って累々と作られるに至」ると語られる。古墳もたま造型上の変容=差異を繰り返しながら爆発的に増殖していくのである。同様のことは、百済からの渡来人がやって来たことに際して、奈良時代の年号が「天平」「天平感宝」「天平勝宝」「天平宝字」「天平神護」「神護景雲」「宝亀」「天応」「延暦」と変化していく経緯を語った部分からもうかがえる。天平時代がこういった元号のズレ=差異をともないながら「天平」という言葉の増殖を誘発していることに留意したい。
タグ:後藤明生
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2012年08月16日

後藤明生を読む会(第11回)レジュメA

後藤明生を読む会(第11回)レジュメ@→こちら

B<穴>としての都市空間
『しんとく問答』には大阪府下にある公園や神社仏閣が数多く登場する。これらに共通する特徴は、郊外に見られるようなどこまでが公園でどこからが自然の野山であるのかわからないような空間とは異なり、高層ビルや住宅地にとりかこまれ、区画されていることである。それらは都市空間のなかにぽっかり空いた<穴>、都市空間のなかの別の空間といった属性をそなえている。「私」はその<穴>の内部や周辺を歩くことでさまざまな人や出来事と偶然に遭遇する。その意味でそれらは後藤明生の作品を特徴づける「とつぜん」という言葉を空間化したものであるといえる。後藤明生は<穴>を<穴>たらしめるためにその中心となるべき事物や出来事を排除する一方、マージナルな属性をそなえた人や事物を積極的に投入している。その代表格は俊徳丸である。

●言及されている場所→出典→描かれる人&モノ
・越中公園→「マーラーの夜」→大阪のディオゲネス
・難波宮跡公園→「十七枚の写真」→大阪城ワッソ・大阪のディオゲネス・鉄の骨組みだけの藤棚・大極殿跡の石舞台・歩兵第八聯隊碑文
・中大江公園→「十七枚の写真」→宇野浩二の文学碑・作業服に作業帽の男
・大阪城公園→「大阪城ワッソ」「四天王寺ワッソ」→屋台・韓国人・片足のないハト・ナツメロ剣舞・子供連れの夫婦・主婦・カップル・四天王寺ワッソの練習隊
・四天王寺→「四天王寺ワッソ」「俊徳道」→四天王寺ワッソを終えた演者たち・見物人の後頭部・大阪のディオゲネス・亀池の亀
・誓願寺→「俊徳道」→西鶴の墓・高校生か予備校生のカップル
・生国魂神社→「俊徳道」→西鶴の銅像・屋台の関係者・通りかかりのお婆さん
・寺田町公園→「贋俊徳道名所図会」→町内対抗の草野球チーム
・久保神社→「贋俊徳道名所図会」→ドーナツ石
・コウモリ傘とその下につながれた仔犬のいる空地→「贋俊徳道名所図会」→コウモリ傘とその下につながれた仔犬
・俊徳丸鏡塚→「しんとく問答」→老婦人・菊老人

<穴>は時間の裂け目も作っている。その代表的な例としてロッキングチェアにすわる「私」が火曜日の「私」と日曜日の「私」に分裂している「マーラーの夜」の一節をあげておく。ここからは時間もまた過去(火曜日)と現在(日曜日)とのあいだでぽっかり空いた<穴>を形成している。そして、それは「訳のわからない不思議な歌」のチグハグさとも対応している。「ダートー ベーイエイ」が戦時中の象徴だとすれば、それ以外の歌詞は平和が行き届いた戦後の象徴である。「訳のわからない不思議な歌」でも戦時中と戦後という複数の時間が統合されることなく、共存する形で一つの<穴>=亀裂を形成している。
タグ:後藤明生
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2012年08月15日

後藤明生を読む会(第11回)レジュメ@

昨日の日記にも記したように、今日から数回にわたって8月12日にもよおされた第11回後藤明生を読む会(テキスト:『しんとく問答』)のレジュメを公開する。なお、レジュメの末尾に添付した「朝鮮総督府官報」や「毎日申報」などの参考資料は割愛した。図表は当ブログの発表形態を鑑みて別の形式で表現した。ブログへの掲載にあたり、誤字脱字は修正した。

■『しんとく問答』を読む(発表 : 乾口達司/日時 : 2012年8月12日(日)午後1時〜/於 : 城北学習センター第2会議室)
@「私」の想起する「訳のわからない不思議な歌」について
個人の体験と深く結びついているはずの言葉が個人と乖離してしまっている。過去を回想する小説一般にありがちな歌詞と個人との親和的な結びつきはここにはない。言葉は不可解な他なるものとしてあり続けている。「私」はその言葉を制御するだけの力を持っていない。そのことで「ダートー ベーイエイ」とそれ以下の歌詞、葬送行進曲風のメロディとのちぐはぐな関係がそのまま浮き彫りにされている。チグハグさをチグハグなまま提示し、その真相の究明=合理化がなされていない点に特徴がある。

A「訳のわからない不思議な歌」と「かねがなる」
『交響曲第1番』 第3楽章のもとになったメロディとは、17世紀に作られたとされるフランス民謡の『フレール・ジャック』(Frère Jacques)である。日本では『フレール・ジャック』『かねがなる』『グーチョキパーでなにつくろう』といった邦題で知られている。「訳のわからない不思議な歌」の原典は『かねがなる』(勝承夫作詞/フランス民謡/1947年)である。

しずかなかねのね
町の空に 
ゆめのように
たかく ひくく
ゴンゴンゴン ゴンゴンゴン
しずかなゆうべに
心すんで
かねが ひびく
たかく ひくく
ゴンゴンゴン ゴンゴンゴン

「訳のわからない不思議な歌」の原典が「かねがなる」であることは明らかである。それだけに「ダートー ベーイエイ」という文言が際立つ。「ダートー ベーイエイ」という文言は敗戦後に発表された「かねがなる」の歌詞が持つ時代背景とは乖離している。戦後民主主義の象徴であるかのような「かねがなる」の世界が、軍国主義の亡霊というべき「ダートー ベーイエイ」という言葉によって崩され、作り変えられている。それにより、戦後の社会が「ユーメノ ヨーオーニ」すぐに壊れてしまうようなもの、すなわち、砂上の楼閣(虚構)であるかのような印象を与えている。戦後民主主義に対するアイロニーさえ読み取れる。
タグ:後藤明生
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2012年08月14日

後藤明生を読む会(第11回)

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後藤明生を読む会(第10回)→こちら

一昨日の12日は後藤明生を読む会の第11回がもよおされた。テクストは『しんとく問答』(講談社/1995年10月)である。いつものように代表の発表者が基調報告をおこなった。今回の基調報告は私が担当した。その後、参加者で討議がおこなわれた。『しんとく問答』はこれまでに何度も読み返している。読み返すたびに新たな発見がある。今回の発表に際してあらためて読み返したところ、やはり新たな発見があった。基調報告ではその点を中心にして1時間半ほど喋った。討議の後、第2部として「永興神社と永興天主教堂」というテーマであらためて喋った。幼少年期の朝鮮・永興時代の体験が記された『夢かたり』などの小説(朝鮮もの)において繰り返し語られている永興神社と永興天主教堂の起源や発展、消滅にいたる経緯について語った。後藤明生によると、永興神社を建立したのは後藤明生の曾祖父であるという。永興天主教堂は永興の南方に広がる南山の丘陵上に建てられていた教会である。そこにはドイツ人神父が暮らしており、幼少年期の後藤明生にとっては強い好奇心を喚起する存在であったようである。ブログでは、毎回、どのようなことを話し合ったのかを簡単に列挙している。しかし、今回は趣向を変えて、基調報告の際に配布したレジュメを部分的に公開する形で討議内容を明示したい。明日から数回にわたって公開してみよう。なお、次回の後藤明生を読む会(第12回)は11月3日を予定している。テキストは、今月、刊行されたばかりの『この人を見よ』(幻戯書房/2012年8月)である。
タグ:後藤明生
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2012年08月11日

高畑町の入江泰吉記念奈良市写真美術館。

今日の午前中は仕事に追われた。午後からは“入江泰吉記念奈良市写真美術館”(奈良市高畑町600-1)まで散歩をした。9月30日までのあいだ、特別展として「記紀・万葉プロジェクト『入江泰吉神宿る大和』」がもよおされている。『古事記』や『日本書紀』に題材をとった入江の作品が多数展示されていた。私が訪れたとき、学芸員による写真の解説がおこなわれていた。観覧後はハイビジョンギャラリーで入江の作品をゆっくり鑑賞した。節電対策のため、8月31日までは正午からは入館料が無料となる。暑さをしのぐ目的もあって当館を訪れてみたが、実際、館内は涼しく、暑さをしのぐのに格好のスポットであることを認識した。
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2012年08月09日

草稿作成。

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今日は今度の日曜日(12日)に予定されている後藤明生を読む会の発表草稿を作成した。当日、配布する資料はすでに作成している。しかし、草稿の方はなかなか作れなかった。手間取った理由は喋ろうと思っている内容があまりに多く、テーマの取捨選択に頭を抱えていたからにほかならない。テキストは『しんとく問答』(講談社)である。『しんとく問答』の分量は大したことがない。しかし、細部を読解するとあまりに過剰なテーマが盛り込まれており、いろいろなことをつい喋りたくなる。折口信夫の『伝承文芸論』や『身毒丸』あるいは『河内名所図会』や『摂津名所図会大成』などの関連するテクストに対する言及まで含めると、予定されている会の時間内には発表が終わらなくなるおそれがある。心を鬼にしてテーマを絞った。草稿は3時間ほどかけて出来上がった。これで準備は万全である。明日・あさってのうちに、もう一度、『しんとく問答』を読んで復習しておこうと思う。

日 時  8月12日(日)13:00〜17:00
場 所  大阪市立城北市民学習センター第2会議室(大阪府大阪市旭区高殿6-14-6)
最寄駅 谷町線・今里線→関目高殿駅/京阪電車→関目駅
      ・城北市民学習センターのホームページ→こちら
テキスト 後藤明生『しんとく問答』(講談社)
発表者  乾口達司
参加費用 500円程度(参加者数によって変動します)
その他  終了後、近くの酒場で懇親会をおこないます(会費は別途)
タグ:後藤明生
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2012年08月08日

プチトマト栽培3

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プチトマトを栽培していることは6月13日の日記にも記した。あれから2ヵ月近くがたった。トマトは順調に生育し、実をたくさんつけている。写真は先日収穫したものである。なかにはまだ青いものも含まれている。しかし、それもまた良い。炎天下、株がしおれはじめている。それにともなって実のつき具合も悪くなっている。そろそろ収穫も終わりだろう。
タグ:プチトマト
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2012年08月07日

ヒラタクワガタ捕獲。

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自宅の前でヒラタクワガタを捕獲した。歩いて十分ほどのところに広大な森が広がっているとはいえ、周囲は典型的な住宅地である。まさかこのような住宅地にヒラタクワガタが飛来するとは思わなかった。実家のように飼育用のケースがあるわけではない。餌となる昆虫ゼリーが用意されているわけでもない。とりあえず、見つけて来た適当な大きさの箱のなかにヒラタクワガタと餌の代わりとして砂糖水を含んだティッシュを小皿の上にのせて一緒に入れておいた。ヒラタクワガタは、夕方、甥っ子のユウにもらわれていった。
タグ:クワガタ
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2012年08月06日

雨でズブ濡れ。

夕方、外出先から歩いて帰っていると、西の空で雷鳴が轟いた。振り返ると、真っ黒い雲が近付いて来る。黒雲のあいだからは、時折、稲光も見える。大急ぎで帰宅したものの、途中から雨にやられた。おかげでズブ濡れである。夕立の季節である。朝、晴れていても午後から大気の状態が不安定になることがある。今朝、晴天であったのを油断して折りたたみの傘を持っていなかったのが失敗であった。外出時には注意をしよう。
タグ:夕立
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2012年08月05日

富雄で夕食。

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夕食に富雄の“ルーチェサンタルチア”生駒学園前店(奈良県生駒市上町5)を訪問した。はじめて訪れる店である。しかし、客がひっきりなしに入って来る。それほどの人気店なのかと驚いた。パスタやピザ、パエリア、バケッ塔などを注文。アルコールはビール・赤ワイン・カンパリソーダである。特段、美味しいというわけではない。かといって、その反対でもない。しかし、客がひっきりなしにやって来るということはそれだけ人を惹きつける何かがあるのであろう。ただ、支店名が「生駒学園前店」というのは如何なものか。「生駒」は、行政区分上、これで良いとしてもここを「学園前」と呼ぶのは無理がある。「学園前」というブランド名にあやかろうという心根はいただけない。目の前を富雄川が流れているのである。「富雄店」で良いではないか。
タグ:イタリアン
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2012年08月03日

何があったのか?(続き)

昨日の日記の続きである。昨夜は遅くになってから新聞記者の姿が消えた。今朝になると、新聞記者も野次馬の姿もなかった。警察官の姿も見当たらない。しかし、問題の現場の前には朝からずっと車がとまっていた。外からなかの様子をうかがうことが出来ない。車は夕方までとまっていた。車内では私服の警察官が張り込みを続けていたのであろう。今回の真相は詳細としては依然として不明のままである。しかし、おぼろげながら概要をつかむことだけは出来た。事件だろうか。はたまた事故か。それはいまのところわからない。
タグ:事件
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2012年08月02日

何があったのか?

ベランダで涼んでいると、自宅のすぐ近くに人だかりが出来ているのが見えた。野次馬に混じって警察官や新聞記者の姿も見える。何かの事件だろうか。しばらくしてから人だかりへ行って見た。人だかりの出来ているところのすぐ近くの家に警察官が出入りしている。野次馬の一人に何があったのかと訊ねてみた。しかし、野次馬は「何かあったみたいやね」というばかりで確かなことを教えてくれない。何があったのかを知っているのか、それとも、私と同様、何も知らないままやって来たのか。それもはっきりしなかった。警察官に訊ねても「御迷惑をおかけしています」というばかりでこちらの質問には答えてくれない。何か知っていると思われる新聞記者は別の野次馬に取材している最中であった。結局、何があったのかわからないまま帰宅。明日の新聞には何か掲載されるのだろうか。もやもやした気持ちのまま、いま、この記事を書いている。
タグ:事件
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2012年08月01日

三条通りで昼食。

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先日、はじめて“ひのき屋”(奈良市三条栄町4-8タダスビル1F)を訪問した。はじめての訪問である。何を注文して良いのかわからなかったため、オーソドックスに豚煮干し醤油中華そばを注文してみた。現在、期間限定のランチタイムメニューとして、ラーメンを注文すると、ごはん食べ放題、ラーメンの大盛り、替え玉のなかから一つを選ぶことが出来る。今回はラーメンの大盛りをお願いした。出て来たラーメンは煮干の味がしっかりしており、大盛りであるということもあって、食べ応えがあった。店内はエアコンがつけられておらず、汗をふきふき麺をすすった。たまにはこういうシュチエーションも良いだろう。次回は豚煮干し塩中華そばの方を注文してみようと思う。
タグ:ラーメン
posted by 乾口達司 at 21:01| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | グルメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする