2012年01月30日

岡山でテイクアウト。

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以前、岡山におもむいたとき、鶏肉専門のテイクアウトのお店を見つけた。“鳥周”(岡山市中区江並78-14)である。本店は牟佐にあるという。狭い店内にはテイクアウト用の鶏肉各種がずらりと並べられている。味見をさせてくれるのも有り難い。手羽やモモ肉などを購入。値段も安くて美味しい。ビールのあてに重宝した。岡山を訪れたときにはまた立ち寄るだろう。
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2012年01月29日

寒かった。

今日は早朝出勤であった。日中、仕事の合間に外へ出ると小雪がちらついていた。どおりで寒いはずである。しかし、風がないぶん、凍死するのではないかと思うほどの寒さではなかった。夕方、帰宅する頃には雪はもうやんでいた。明日も外出する予定。明日も雪が降るのだろうか。もうすぐ立春である。しかし、まだまだ寒そうだ。
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2012年01月27日

岡山紀行(宗忠神社)

岡山紀行(熊野神社)→こちら
岡山紀行(五流尊龍院)→こちら
岡山紀行(五流尊龍院石造宝塔)→こちら
岡山紀行(桜井塚)→こちら
岡山紀行(藤戸寺)→こちら
岡山紀行(法界院)→こちら
岡山紀行(金山寺)→こちら
岡山紀行(今村宮)→こちら

大元にある宗忠神社(岡山市北区上中野1-3-10)は黒住教の教祖・黒住宗忠をまつる神社である。教祖の生誕地であるということで神社が建てられたようである。印象深いのは拝殿に向かって右側に建つ武道館の館内に現代美術家・高橋秀の作品11点が展示されていることである。高橋が献納したものであるというが、神社と現代アートとの組み合わせ自体がシュルレアリスム風である。拝観は無料。私が訪れたとき、館内では高橋の作品にかこまれてママさんコーラスの練習がおこなわれていた。
タグ:神社
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2012年01月23日

岡山紀行(今村宮)

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岡山紀行(熊野神社)→こちら
岡山紀行(五流尊龍院)→こちら
岡山紀行(五流尊龍院石造宝塔)→こちら
岡山紀行(桜井塚)→こちら
岡山紀行(藤戸寺)→こちら
岡山紀行(法界院)→こちら
岡山紀行(金山寺)→こちら

今村宮(岡山市北区今4-3-5)は、その地名のとおり、今地区の村に鎮座する神社である。元和9年(1622)に再建された本殿(県指定文化財)は三間社流造・檜皮葺。正面には唐破風がつけられている。亀腹の上に立つ堂々たる建造物である。そして、さらに興味深いのは本殿裏手の摂社にまつられている狛犬である。備前焼で作られた陶製の狛犬であるが、その造型は犬というよりも狼そのものである。どういった意味があるのだろうか。不勉強にして皆目わからない。珍しいものを拝見させていただいた。
タグ:神社 狛犬
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2012年01月22日

後藤明生を読む会(第8回)

後藤明生を読む会(第7回)→こちら

昨日は後藤明生を読む会の第8回目がもよおされた。今回のテクストは『夢かたり』(中央公論社/1976・3)である。いつものように代表の発表者が基調報告をおこなった。その後、参加者で討議がおこなわれた。今回も話題となった事柄をアトランダムに列記しておく。「わたしが二十八年ぶりで山口と田中に再会したのは、二年前の秋だった」(p41)=1973年の秋のこと。以来、『夢かたり』のなかの記述や筆者の年譜を総合的に勘案し、それぞれのエピソードの時期を特定してゆく。山室さんの岡山県の自宅を訪ねるのが1975年10月頃。ここからは物語が後半に近づくにつれて次第に作品内のエピソードと実際の記述とが同時進行的になってゆくのがわかる。冒頭で言及される夏目漱石『夢十夜』との関わりについて。「運慶を漱石に、明治を昭和に、置き換えてみた」(p10)という記述からは「わたし」=後藤明生=漱石という図式になる。すなわち、オレこそ現代の漱石であるという後藤明生の強烈な自負が読み取れる。『夢かたり』のなかで「夢」が描かれるのは所収の第1篇「夢かたり」のなかで語られる本田君らとの交流を描いた部分のみ。しかも、ここでは夢の持つ特権性が拒絶されている。肝心の本田君のことがまるでわからない。わかっていることといえば、本田君の本籍地は島根県で咸興師範学校に進学したということだけである。最終章「鞍馬天狗」でも「本田自身は何をしているのかわからないらしかった」(p366)といたって素っ気無い。「パカチ頭」(p15)時代の夢かたりとは異質の本田君の夢への場違いな闖入は『夢かたり』に「外部」=他者性をもたらす「境界」となっているのであろう。実際、永興における本田君の文房具店=自宅は「謎のような朝鮮人たちの土地」(p17)との境界に位置している。第1章「夢かたり」末尾の「サイダーの空瓶」の脳天への一撃=原因も手段もわからない不意打ちは外部=他者としての本田君からの贈り物であろう。「マル仁校」(p21)は中国や朝鮮に見られた書堂(ソダン)のこと。「納豆雑煮」(p51)は、戦後、後藤明生が暮らした福岡県朝倉に近い日田で食されている。「京城博覧会」(p61)は「始政三十周年朝鮮大博覧会」のこと。その開催は1940年7月1日から8月31日。したがって、「その年の冬だったと思う」(p64)というのは何かの間違い。2月11日におこなわれたことが想定される皇紀2600年の式典類の何かと誤解しているのか?「初代朝鮮総督」(p82)は寺内正毅であって作中にあるように伊藤博文ではない。「わが詩は山岳に刻むべし/わが名は流水に流すべし」(p137)は後藤明生の創作か?実際の詩碑の文言は「汝は山河とともに生くるべし/汝の名は山岳に刻むべし/流に畫くべし」である。終戦後、朝鮮から持ち出すことに成功した「郵便貯金五冊」「金額は五冊で二十万円」(p241)を日銀の企業物価指数で計算すると約200倍である。したがって、今日に換算すると「二十万円」=4000万円。一説に500倍であるという。それにもとづくと1億円。朝鮮植民地時代の日本人の常として土地所有者であったと考えられるため、朝鮮時代の後藤家の資産は少なくとも数十億はあったのではないか。「永興事件」(p348)とは、飛田一雄の『日帝下の朝鮮農民運動』(未来社/1991年)によると、1931年10月21日に発生した事件。警察官が巡査部長を組合員と誤認して拳銃を発射し、致命傷を負わせたとのこと。蔡朱徹の逮捕は1931年11月20日。「わたし」の生まれが1932年であるため、すべて生まれる前の事件である。「昭和十二、三年ごろ」という「わたし」の記憶に符合する事件とは、1937年10月14日に発生し、翌年2月18日に関係者12名が送局された赤色火田組合検挙事件のことではあるまいか。雑多なものを雑多なものとして受け止める子どもの眼差しを持ち続けた作品であり、イデオロギーなどの「意味」付けが拒絶されている。「非意味」としての作品こそ後藤明生の考える小説である。一般的な読み手がもっとも読みたく思うシーン(ソ連軍の侵攻などの悲惨な体験や38度線越境体験など)はすべて削除されているか、はぐらかされているか、曖昧にぼかされている。「意味」を拒絶しようとする強烈な意志が読み取れる。言葉・テクスト・エクリチュールが「わたし」の記憶を誘発する。天狗鼻のアボジ・ナオナラ・キンソーナー・片脚を肩に乗せた男といったフリークス的な人物が数多く登場し、フェリーニの映画を連想させる。「丸に……」(p294〜295)の連続からは再現としての描写が拒絶されている。永興の規模が「邦里」として「一里半」四方というのはおかしい。6キロ四方の街は大き過ぎる。この部分は朝鮮里で計算するべきべきではないか。「ストーブ」(p315)という作文の持つ奇妙さが『夢かたり』ひいては後藤明生の作品世界を如実に表している。「歪められている永興地図」(p286)という考え方も奇妙であり、普通は「正確な永興地図」を求めるはずである。「絵に描いたような敗戦後の場面」(p157)に憧れる「わたし」。しかし、そんな「絵に描いたような」事態があったと考えていることがおかしい。そういった紋切型に憧れを抱く「わたし」は奇妙な現実感覚の持ち主である。次回の研究会は4月の予定。『嘘のような日常』について討議をする。
タグ:後藤明生
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2012年01月20日

大和郡山市の西岳院。

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西岳院(大和郡山市満願寺町691)は富雄川の西岸・慈光院の北方に位置する。聖徳太子が建立した46ケ寺のうちの満願寺の後裔である。最後に建てられた寺院であるという意味をこめて満願寺と呼ばれたという。いまではちょっとした高台に小さなお堂が一つ建っているだけである。しかし、堂内には小さなお堂には相応しくないほど立派な十一面千手観音菩薩立像(奈良県指定文化財)が安置されている。説明版には像高が「十尺」と記されている。「十尺」すなわち3メートルを超える大像である。平安時代の作であるという。お堂は締め切られているために内部の様子は正面の格子の隙間から覗くしかない。したがって、そのお姿は遠目に拝観するしかなく、細部まで確認することは出来なかった。無住の寺のようである。お堂の脇に建っている集会所めいた建物にも人気はなかった。何かの折にふたたび訪れ、堂内でじっくり拝観したいものである。
タグ:仏像
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2012年01月19日

散髪。

3ヶ月振りに理髪店におもむいた。仕事と先方の都合上、今月は今日しか時間を作ることが出来なかった。しかし、今日の奈良は午後からあいにくの雨だった。今日という日を逃すと、今月は出掛ける時間がもう取れない。雨のなか、傘をさして理髪店におもむいた。自宅から理髪店までは歩いて20分ほどの距離である。しかし、外は雨。おかげで身体中が濡れたまま理髪店にたどり着いた。特に足元はひどかった。帰りはもと来た道をやはり歩いて戻った。髪を切り、清々しい気分になったのも束の間、せっかくセットしてもらった髪も雨に祟られ、帰宅したときはすでに乱れていた。
タグ:散髪
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2012年01月18日

岡山紀行(金山寺)

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岡山紀行(熊野神社)→こちら
岡山紀行(五流尊龍院)→こちら
岡山紀行(五流尊龍院石造宝塔)→こちら
岡山紀行(桜井塚)→こちら
岡山紀行(藤戸寺)→こちら
岡山紀行(法界院)→こちら

奥深い山のなかを進むと、遠くに金山寺(岡山市北区金山寺)の三重塔が見える。三重塔が見えるとほっとした。寺伝によると、金山寺は、奈良時代、報恩大師によって創建された寺院である。康治元年(1142)に現在の地に移されるが、それまでは金山の主峰である妙見山の頂上付近に建てられていたとのこと。移転後、しばらくして栄西が住職となり、その頃、天台宗に改宗したようだ。文亀元年(1501)には備前国金川城主・松田左近将監に日蓮宗への改宗を迫られ、これを拒否したことで全山を焼き払われた。永禄4年(1561)に伯耆国・大山寺の法印圓智が来山し、伽藍の復興が推し進められた。その折に再建された本堂(国重文)は桁行5間・梁間6間の入母屋造・本瓦葺。正面に1間の向拝がつく。内部は外陣と内陣とから成り、内陣には本尊の千手観音菩薩立像がまつられているという。私が訪れたとき、本尊がまつられていると思しき中央の仏壇には大きな曼荼羅がかけられていた。その両脇には弘法大師や阿弥陀如来とおぼしき坐像が安置されていた。阿弥陀如来坐像は俗に「頬焼き阿弥陀」と呼ばれている当寺ゆかりの仏像であったかも知れない。しかし、堂内はあいにく薄暗く、坐像とかなりの距離があったこともあり、その姿をはっきり確認することは出来なかった。外陣の上にかけられた大虹梁などには彩色がほどこされており、薄暗い堂内にあっても華やいだ雰囲気だけは感じられた。本堂から三重塔まではさらに5分ばかり山道を登らなければならない。三重塔は天明8年(1788)の建立。高さは25メートルである。内部をのぞくと中央の須弥壇には大日如来が安置されている。三重塔とその周辺は10年ほど前に保存修理や整備がおこなわれたようである。草木も刈り込まれ、木々のなかに埋もれた本堂に比べて、抜群の存在感を有している。現在、修理・整備の対象は護摩堂に移されている。仁王門にも足場が組まれていた。
タグ: 仏像
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2012年01月17日

岡山紀行(法界院)

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岡山紀行(熊野神社)→こちら
岡山紀行(五流尊龍院)→こちら
岡山紀行(五流尊龍院石造宝塔)→こちら
岡山紀行(桜井塚)→こちら
岡山紀行(藤戸寺)→こちら

法界院(岡山市北区法界院6-1)の名を知ったのは数年前のことである。JR玉柏駅から列車に乗り込み、岡山方面に向かう列車に揺られていたときのこと。列車は法界院という名前の駅で停車をした。JR岡山駅の一つ手前の駅である。法界院という珍しい名前に惹かれて、後日、調べたところ、駅の近くに法界院という寺院が存在することを知ったのであった。奈良時代、報恩大師によって創建されたという。その後、たびたび火災に遭い、その都度、再建を果たす。したがって、往時をしのぶものは思いのほか少ない。往時をしのぶものの代表的な存在として本尊の聖観音菩薩立像(国重文)が挙げられる。像高は103.7センチメートル。檜の一木造で平安時代中期の作であるという。しかし、秘仏であるため、現在は収蔵庫に安置され、拝観することが出来ない。仏像では他に本堂内部の須弥壇の両脇に持国天・毘沙門天の2体の立像が安置されている。いずれも本尊と同じ時代の作であるという。脇田秀太郎の『岡山の仏たち』(日本文教出版)に「毘沙門天の胸当の笑面は珍奇に属しよう」と記されていることもあって是非とも拝観したいものであると思っていた。しかし、本堂の扉は閉じられており、外から遠めに拝観することしか出来ない。したがって、「珍奇」な「笑面」が具体的にどのようなものであるか、確認することは叶わなかった。別の機会にまた訪れてみようと思っている。本堂前の石段の脇に立つ道讃禅定門石燈籠には慶長3年(1598)の銘が刻まれている。像高は222センチメートル。基礎から中台までが平面円形で八面から成る火袋の一面に火口が設けられている。その反対側には宝珠形の窓が設けられており、それ以外の面には地蔵が刻まれている。笠は六角型で上には請花が置かれている。
タグ:仏像 石塔
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大和西大寺で一杯。

仕事仲間のUと呑んだ。呑んだのは“光亭西華”(奈良市西大寺東町1-4-46アマービレ秋篠1F)である。Uと2人で呑むのは一昨年以来である。仕事をはじめとして文学やオカルト話、グルメネタ、人生論的な真面目な話、その他、さまざまな話に興じた。最初はビールを注文。乾口さんは焼酎のお湯割りを良く注文しますよね。Uにそう指摘されたこともあって趣向を変えて日本酒の熱燗を注文した。普段、仕事の前日は日本酒を呑むのを極力控えている。しかし、今日はUの誘いに乗って日本酒を呑んでしまった。鯛の煮付けやチャーハン、焼きそばなどを注文した。2人で延々呑んでしまった。
タグ: ビール
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2012年01月15日

矢田丘陵縦走40

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体調が恢復した。鈍った身体をときほぐすため、矢田丘陵を歩いて来た。前回、矢田丘陵を歩いたことは1月10日の日記に記した。今回も同じように子供の森から尾根筋へと駆け上がり、松尾寺・法隆寺を経由した。休日ということもあって今回は多くのハイカーとすれ違った。写真は尾根筋に立っている石碑の一つである。石碑は小笹の辻からまほろば展望休憩所にいたる道筋に立っている。私の読解力が乏しいせいもあり、石碑に刻まれた文字ははっきりしているにもかかわらず、完全に判読することが出来ない。写真に写っている部分の裏面からは「乙田村奥田弥……」や「施主…」といった文字がかろうじて読み取れる。どうやら乙田村(現在の生駒市萩の台付近)に住んでいた奥田某によって建立された石碑のようである。石碑が立っているところはささやかな辻になっている。尾根筋のハイキングコースを左右から貫くように両脇に小道が走っている。尾根筋を横から貫くこの道は古くからの街道であったのであろう。奈良市側からの小道は矢田寺と東明寺の中間付近から矢田丘陵を登りはじめる道であるようだ。生駒側へ下る道がどこにつながるのか、はっきりしない。石碑を建立した人物が乙田村の住人であったことを勘案すると、やはり萩の台方面に下りてゆくのであろう。辻から生駒側へ50メートルほど進むと真新しい車止めが設けられている。真新しい車止めが設置されているということはいまでも利用されているということだろう。
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2012年01月14日

岡山紀行(藤戸寺)

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岡山紀行(熊野神社)→こちら
岡山紀行(五流尊龍院)→こちら
岡山紀行(五流尊龍院石造宝塔)→こちら
岡山紀行(桜井塚)→こちら

藤戸寺(倉敷市藤戸町藤戸)は佐々木盛綱の活躍した藤戸合戦の地に建っている。本尊は千手観音菩薩。本堂脇の裏手には石造五重塔が建っている。総高355センチメートル。寛元元年(1243)十月十八日の銘が残されており、初重軸部の四面にはそれぞれ坐像が刻まれている。相輪は後補。笠の一つが大きく欠損していたり、塔身に亀裂が見られたりと損傷が目立つ。しかし、これも長年の風雪に耐えて来た証である。藤戸合戦の逸話からもうかがえるように、中世はこのあたりまで海が迫っていたようだ。破損の要因として海からの潮風なども考えられるのではあるまいか。藤戸の地には藤戸合戦の遺構がまだまだ残されているという。日を改めて集中的に見てまわりたい。
タグ: 石塔
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岡山紀行(桜井塚)

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岡山紀行(熊野神社)→こちら
岡山紀行(五流尊龍院)→こちら
岡山紀行(五流尊龍院石造宝塔)→こちら

桜井塚は後鳥羽上皇の皇子で五流尊龍院と深い関わりを持つ桜井宮覚仁法親王の陵墓であるとされる。しかし、宮内庁によって正式に定められているわけではないようだ。あくまで寺伝によるということだろうか。塚は石塔として熊野神社の境内にある池の出島に建っている。写真は石塔の横に立つ十三重石塔の初重軸部である。損傷が激しいため、軸部以外は近代に入ってから再建されたものである。総高は約5メートル。軸部だけが創建当初のもので鎌倉時代中期の造立であるという。1辺が50センチ前後で四面いずれにも坐像が刻まれている。塚本体の石塔と十三重塔の他にも等身大の石造燈籠が立っている。火袋の外面には仏像が刻まれている。
タグ:石塔
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岡山紀行(五流尊龍院石造宝塔)

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岡山紀行(熊野神社)→こちら
岡山紀行(五流尊龍院)→こちら

五流尊龍院の石造宝塔は熊野神社の境内から道路を挟んだ南側に建つ。総高は375・5センチメートルで仁治元年(1240)の建立。後鳥羽上皇の一周忌供養のために息子である頼仁親王と覚仁親王によって建立された供養塔である。塔身の正面には坐像が刻まれている。しかし、摩滅が激しく詳細は不明である。首部中央を帯状の出っ張りがめぐっており、その下部には飛天が薄肉彫りされているという。しかし、こちらもはっきりと確認することが難しい。調査の結果、内部からは火葬骨・歯牙・香木などが発見されている。寺では上皇の死に際して分骨がなされたといういい伝えが残されているという。塔身もさることながら、壇上積みの基壇が重厚で立派である。吉井の石造宝塔(岡山市吉井)といい、五流尊龍院の石造宝塔といい、後鳥羽上皇ゆかりの石塔が岡山に残されていることが印象に残った。
タグ: 石塔
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2012年01月13日

岡山紀行(五流尊龍院)

岡山紀行(熊野神社)→こちら

熊野神社を参拝したことは1月11日の日記に記した。参拝の折、興味を持ったのは、神社の境内に三重塔や鐘楼などが建っていたことである。三重塔や鐘楼は近代以前まで熊野神社と神仏習合の関係にあった児島修験の総本山・五流尊龍院のものである。現在、五流尊龍院の中心は熊野神社から南方へ数百メートルのところにある。しかし、三重塔の建っているこのあたりがかつての中心地であったのであろう。本尊は十一面観音菩薩。脇田秀太郎の『岡山の仏たち』(日本文教出版)によると、檜の寄木造で等身大の立像である。三重塔の東側の小高い場所に建っていた権現堂の内部にそれらしき仏像が安置されていた。しかし、格子越しに内部をのぞくと堂内は暗くてほとんど見えない。もしかしたらまったく別の仏像であったのかも知れない。『太平記』でお馴染みの忠臣・児島高徳の出身地であるという。境内には児島高徳社もあった。お日待大祭には修験者が集まり、賑わうということだった。
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2012年01月11日

岡山紀行(熊野神社)

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熊野神社(倉敷市林684)にはじめて参拝をした。古くは熊野十二社権現と呼ばれていたという。6つの棟が一直線に軒を並べるさまは壮観である。第二殿がもっとも古くて正面1間・奥行2間の春日造・檜皮葺。正面に1間の向拝がついている。第二殿以外は、正保4年、当時の岡山藩主・池田光政によって再建されたものである。第一殿が春日造、第三殿が入母屋造、第四・五・六殿が流造といったように建築様式がバラバラであるのがおもしろい。熊野信仰にもとづいた神社だけあり、和歌山県・熊野本宮大社の社殿の配置を模倣しているのであろうか。
タグ:神社
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2012年01月10日

矢田丘陵縦走39

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今年はじめて矢田丘陵を縦走して来た。前回、矢田丘陵を縦走したときのことは11月20日の日記に記した。今日は天気も良い上にあたたかく、散策には絶好の日和であった。いつものように尾根伝いに歩いて松尾寺・法隆寺へと下った。今回もそのまま下の道を歩いて帰宅した。写真は国道308号線と子供の森(矢田山遊びの森)へと折れ込む道との分岐点に立つ石碑である。矢田山(矢田寺)や榁木峠への案内が文言として刻まれている。平日ということもあって丘陵内ではほとんど人とすれ違わなかった。
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2012年01月09日

後藤明生を読む会(第8回)のお知らせ。

2009年の年末以来、大学時代の同窓生たちと内向の世代の小説家・後藤明生(1932年〜1999年)をめぐる勉強会を立ち上げようと話し合って来た。これまでに何度も会合を重ねた。そして、2010年8月29日に第1回の読書会をもよおすことが出来た。以後、勉強会を重ねて来ている。前回の勉強会はいつもとは違って文学散歩と忘年会をもよおした。『しんとく問答』ゆかりの四天王寺から近鉄俊徳道駅までのルートを歩いた。そのときのことは12月27日の日記で報告したとおりである。参加は自由である。興味のある方はいらっしゃって下さい。

■第8回後藤明生を読む会の御案内
2009年の暮れから有志で集まり、内向の世代の文学者・後藤明生の評論集を制作・刊行してみようと話しあってまいりました。それに先立ち、後藤明生の文学をより深く理解するため、これまでに「後藤明生を読む会」を企画・運営し続けております。後藤作品について共同で討議をするなかでお互いの認識と協同性を高めあい、後藤明生論集を執筆・刊行してゆく道筋をつけていければと考えております。特に発表者と聞き手とが相互に入れ替わることで各人がテクストの読み手であると同時に書き手であるという相互変換的な存在へと成長していければと願っております。
さて、来る1月21日、第8回の「後藤明生を読む会」をもよおします。
参加資格などは一切ありません。
万障お繰り合わせの上御出席下さいますよう御案内申し上げます。
謹白

日 時  1月21日(土)13:00〜16:30頃(終了後は懇親会をもよおします)
場 所  プレラにしのみや6階和室(兵庫県西宮市高松町4-8)
最寄駅  阪急西宮北口駅
      ・駅の南改札を下りて正面
      ・西宮ガーデンズと県立芸術文化センターの間
      ・地図→こちら
テキスト 後藤明生『夢かたり』(中央公論社)
参加費用 500円程度(資料代込/参加者数によって変動します)
その他  終了後、近くの酒場で懇親会をおこないます(会費は別途)
タグ:後藤明生
posted by 乾口達司 at 21:38| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 自己 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月06日

そろそろ行こうか。

正月も明けて普段の日常に戻りつつある。今日は年が明けてからしばらくたまっていた雑事に追われた。雑事を終えた後は久し振りにウォーキングに出た。寒い時期ではあるが、折を見て歩こうと思っている。そろそろ行こうか。そんな心境である。
タグ:仕事
posted by 乾口達司 at 20:39| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 想い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月02日

謹賀新年。

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新年あけましておめでとうございます。年末以来、続けている仕事がそろそろ終りそうです。それが終ってからが本当の正月休みとなります。今年も宜しくお願い申し上げます。
タグ:正月
posted by 乾口達司 at 12:48| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 春夏秋冬 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする