2010年07月28日

死刑反対論者による死刑執行。

1年振りに死刑が執行されたという。死刑廃止論者である法務大臣が死刑の執行を認めたということで今日のマスコミはちょっとした騒ぎになっていたようである。すべての報道に目を通したわけではない。しかし、私の眼にした報道はいずれも「政治的演出のにおい」や「パフォーマンス」といった言葉で表現されるような浅はかな内容のものばかりであった。これまでに死刑の廃止を訴え続けて来たような人物であったからこそ、なおさら法務大臣としての職責を全うすべく、死刑の執行を決意するまでにはさまざまな葛藤や苦しみがあったはずである。人が人に対して罰として死を与える。その行為そのものに対して、死刑の廃止という崇高な理想と死刑を執行せざるを得ない立場に立たされているという圧倒的な現実との絶望的な乖離に対して、底知れぬ恐怖をおぼえ、眠れない日々が続いたに違いない。実際、死刑存続論者であったとしても、自分がいざ死刑を執行する状況に置かれれば、誰もが同じような心理に駆り立てられるはずだ。それを「法務大臣であるのだから」とか「法律で定められているのだから」といった形式的な理由で当然視する向きもあるだろうが、私からすれば、何と非人間的な発想なのだろうと思う。法務大臣といえども人間である。法律といえども、人間が行使してはじめてその意味がある。政治には政治の領域があることは重々承知しているが、「政治」(現実)と「人間」(理想)とのあいだで引き裂かれ、両者のあいだで苦悩することこそもっとも人間らしいおこないではなかろうか。そして、そうであるからこそ、われわれは死刑を政治の領域からのみ解釈するべきではなく、より本質的な見地から、その存廃までも含めてみずからの思いや考えをめぐらせるべきなのである。死刑の執行をみずからの目で確認したという法務大臣が「国民的な議論の契機にしたい」と述べたのも当然である。そういった人としての当然の葛藤や揺らぎを斟酌することなく表面的な事象のみを取り上げて「政治的演出のにおい」や「パフォーマンス」といった言葉で済ませるようなゲスの勘繰りこそもっとも浅はかで非人間的な態度であるといわざるを得ない。日本のマスコミのレベルが良く表わされた報道である。こんなゲスな連中に日々紡ぎ出される人々の営みや哀歓を報道する資格などあるわけがない。
ラベル:死刑
posted by 乾口達司 at 23:55| 奈良 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 想い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする