2010年07月19日

三島由紀夫『奔馬』3

三島由紀夫『奔馬』1→こちら
三島由紀夫『奔馬』2→こちら

本多は山頂にたどり着く。そして、山頂の一角を占める「沖津磐座」に目を奪われる。「沖津磐座」は、現在、奥津磐座と呼ばれている巨石群のことであろう。実際、それは三輪山の山頂まで登って来た参拝者が目にする今日の奥津磐座の光景そのものである。三島由紀夫が三輪山に入山登拝したのは1966年8月24日のこと。当時から「沖津磐座」=奥津磐座の光景は現在と変わらぬ状態であったようだ。三島由紀夫は本多の目を通して「沖津磐座」の姿を次のように描いている。

難破した巨船の残骸のような、不定形の、あるいは尖り、あるいは裂けた巨石の群が、張りめぐらした七五三縄のなかに蟠っていた。太古から、この何かあるべき姿に反した石の一群が、並の事物の秩序のうちには決して組み込まれない形で、怖しいような純潔な乱雑さで放り出されていたのである。
石は石と組み打ち、組み打ったまま倒れて裂けていた。別の石は、平坦すぎる斜面をひろびろとさしのべていた。すべてが神の静かな御座というよりは、戦いのあと、それよりも信じがたいような恐怖のあとを思わせ、神が一度坐られたあとでは、地上の事物はこんな風に変貌するのではないかと思はれた。

「難破した巨船の残骸のような」という比喩はいい得て妙である。その乱雑な配置を「神」との関わりから描いているのも三島由紀夫らしい。しかし、ここで疑問に思うことがある。それは本多が山頂付近でまず目にするのが「沖津磐座」であるということである。山頂には日向御子神を祀る高宮神社が鎮座している。「沖津磐座」は高宮神社の東方百メートルほどのところに位置している。現在、われわれが山頂に到達すると、高宮神社を最初に拝することになる。高宮神社で参拝を済ませた後、その背後に位置する奥津磐座へ参拝するという経路をたどる。ところが、本多は「沖津磐座」に参拝した後に高宮神社を訪れているのである。これは順路としては明らかにおかしい。(続く)

三島由紀夫『奔馬』4→こちら
posted by 乾口達司 at 22:36| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする